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朗読劇「線量計が鳴る」 [原発]

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 中村敦夫さんの朗読劇「線量計が鳴る」を武蔵野芸術劇場で観る。作・主演は中村さん。チケットは完売。観客は中高年層が多い。プロジェクターの投影と中村さんのみのシンプルな舞台。中村さんはアウトドア風の格好で帽子をかぶり、背中にバックパックを背負っている。言葉はいわきなまりだ。

 原子炉の配管から事故隠し、飯舘村の生活、事故原因、SPEEDI、原子力ムラ、原爆投下を起点にしたABCCと長崎大学、広島大学の役割、IAEAとWHOの実態、チェルノブイリ事故、被曝限度の設定、総括原価方式、福島の子供の甲状腺異常まで、福島第一原発事故に限らず、原発にまつわるさまざまな事がらやワードを地元出身の元原発配管技師の独白というかたちでとてもうまくまとめていた。知っていたつもりでも、あらためて認識させられることが多かった。エネルギー供給を押さえることが国の舵取りを行なう力、つまりは権力を握ることにつながる。税金と電力料金、そこに群がる人間たちの醜い姿が中村さんの言葉を聞くうちに自然に浮き彫りになった。

 中村氏は中学校までいわき市で育った。78歳の気概。怒り。私憤ではなく、公憤でなけらばならないという。単純な反原発の啓蒙朗読劇ではなく、問題提示に一人の男の生きざまと少しのユーモアを交え、観客になにがしかの気づきを促す。「情感に訴えて感情を揺さぶるのではなく、問題を指摘し観客を覚醒させ、新しい視野を提供する」と中村氏はチラシに記している。

 この作品をぜひNHK Eテレで放送してほしいと思う。原子力ムラという利権集団(六角マフィア=原発推進派の政治家群・官僚・電力業界・原子力学会・産業界・マスコミ)への辛辣な指摘が多く、無理だろうけれど、本来はこのような作品を提供することこそ、この社会の力になるはずなのだ。

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何が変わり、何が変わらずにあるのか [原発]

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 福島第一原発が爆発して2年3カ月が過ぎた。あれから何が変わり、何が変わらずにあるのか。メルトスルーした3基の原子炉のデブリ(核燃料の塊)は暗闇の中でいまだ崩壊熱を発し、水で冷やし続けなければならない状態にある。なんとか進行を食い止めている日々。万が一その冷却装置が止まってしまったら、地獄の底から核という名の赤い悪魔が再び地上に姿を現す。

 私は、福島第一原発における放射性物質の放出あるいは漏れが収まったとは思っていない。1日当たり400トンもわき出る地下水は汚染され、原発を中心とした台地に浸透しているはずだし、完全に密閉していない建屋や高濃度に汚染された敷地や建物からはいまだ「物質」が拡散しているだろう。東電が気がつかないだけで、どこかのピットから汚染水が海に流れ込んでいる可能性さえある(2011年4月の時点では、2号機のピットからの水漏れが発見されてからわずか3日間で2万8800年分の許容量の放射性物質が排出されたと指摘する人もいた)。

 今回の事件で海や陸地などに放出された放射性物質の総量はおよそ90京ベクレルだと言われても、膨大すぎて把握できない。その一方で、動物や魚類から検出される放射線が数〜数百ベクレルという記事も目にする。どんなにわずかな量であっても、汚染された食料を身体に入れたくはないが、日々口にする食物がどのくらい汚染されているのかいないのか、いまだ見当がつかない。自宅でつくる料理はもちろん、外食の料理、弁当、飲み屋で出る刺身、水道の水など、どの程度安全なのか、あるいは危険なのか、科学技術や通信が発達し便利になったといわれる世の中で、他国がうらやむほど安全と言われている日本で、まったく不確かだ。ネットで検査結果を公表しているサイトを検索して、椎茸はやはりどこでもベクレルが高い、○○県の山菜はだめだ、○○牛乳はNDだから大丈夫らしい、サントリーの伊右衛門はNDだった、くらいの情報を得るのがやっと。日々食べる米や味噌、醤油、魚、肉などの汚染状態は知る術がない。2011年の時点で私は、時間がかかってもいずれは、国内に流通する食品のパッケージに放射能検査による安全シールが貼られることになるだろうと思っていた。だが実際には、情報が少なすぎて防ぎようがなく半ばあきらめて食べている——2年前の自分にそう伝えたい。

 結局のところ、原発は水で冷やし続けて現状維持、つまりは爆発以降はさほど変わっておらず(作業員の決死の仕事に支えられているが)、放射性物質で汚染された土地や食品はその実態を知らされていない。除染は移染であり、膨大な汚染土が日々蓄積されていく。食品においては政府・マスメディアともども国内産品の汚染状態を公表したり、注意喚起する気がまるでないと言っていいだろう。現実はその逆で、隠蔽に近い。

 この2年間三鷹の街をガイガーカウンターで計測した。事故のあった年は平均すると0.11μSv/hほどだったが、いまでは0.08μSv/h程度に下がっている(三鷹駅南口付近。ちなみに飯田橋のビル11階のフロアで0.05μSv/h)。放射性物質は徐々に移動し、汚染が低くなるところ、その逆に高まるところが出てきているはずだ。大学の調査チームが予測するとおり、「物質」は最終的に川へ流れ、海に注がれるのだろう。もはや江戸前の魚介類を食べる気はしない。

 政治家や官僚はレベル7の原発事故を軽視し、15万人におよぶ避難民を逆なでするような発言を繰り返す。再稼働を当然のこととし、原発輸出のトップセールスに首相自らが外遊する。この国を動かす連中の多くは浅はかな頭の持ち主だ。高市早苗の発言のごとく現状認識もかなり幼い。もっとも、事故直後にSPEEDIのデータを公表せず、他国からの支援を断った時点で、国家の信用度は地に堕ちている。

 現在国内で稼働している原発は大飯の3、4号機のみだ。東京は原子力発電以外の電力で充足している。この事実を認識している市民はどれくらいいるのか。あのでたらめなデモンストレーションだった計画停電を思い出すたび腹立たしい。そして、そろそろほとぼりがさめるころと見込んだのか、各地の原発再稼働の動きが目についてきた。電力会社がもぞもぞと動き始めている。

 この2年3カ月でいちばん変わったのは市民の危機意識かもしれない。引き続き汚染や原発の存在を怖れる人がいる半面、多くの人は現在継続中の重大事故を忘れはじめており、福島県浜通りにある4つの箱に背を向けつつある。大手メディアはすっかり元の木阿弥だ。危機意識を持っているのは東京新聞と福島の地元紙、日々の新聞以外にない。私は毎日福島第一原発のことを考え、放射性物質の存在を意識している。怒りと恨みと絶望が入り交じる。福島第一原発の存在を忘れ去ったとき、日本人は次の原発事故への道を歩み始める。
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いわきに建てられた仮設住宅 [原発]

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 遅い夏休みをとり、いわきに帰省した。実家が管理人をしている寺に向かう途中で、原発事故による放射能汚染から避難してきた市民が住む仮設住宅を見た。形こそ狭小の長屋風だが、テレビで見てきたものとは異なり、それらの住宅は木造だった。無機質にならないようにする配慮だろうか。山間の平地にひっそりと建てられたような印象。父によれば、仮設住宅はいわきの各地にあるという。
 いわき市は広いので、建物を建てる土地は潤沢にあるだろう。休耕地になった田畑も多い。帰省している間3つの住宅地を見たが、いずれも休耕地だった場所につくられていたように思う。実際に敷地を歩いたところでは駐車場も十分に確保され、集会所のような建物もあり、入り口に建てられた案内板には「応急仮設住宅」と表記されていた。
 仮設住宅を見て最初に思ったことは、それが原発事故の被害によって出現したものであるという点だ。しごく当たり前の話なのだが、よく考えると私は、避難生活を送る市民と荒廃した町、死に絶えた動物などの映像や記事以外に、原発事故に起因する直接的な影響をまだ実際には目にしていない。しいていえば、ガイガーカウンターが表示する放射線量、つまり数値くらいだ。原子力事故の被害は可視化するのが難しい。
 放射性物質による食品汚染や環境汚染は深刻であり、国内の多くの市民を不安に陥れているが、その被害はいまはまだ具体的には現れていない。しかし仮設住宅は、放射能汚染から逃れてきた人々が住むために建てられたという事実として眼前にあった。表現は悪いが、静まりかえったゴーストタウンのようにたたずんでいた。その事実が、原発事故の悲惨さ、言い換えれば、国と企業による「暴力」の傷跡を改めて感じさせる。
 仮設住宅の間取りはいかにも狭そうだった。一人ならまだしも、家族で住むには相当無理があるだろう。間仕切りや隣家との壁もしっかりしたものではないはずで、そこで長期間暮らしたら、だれだって滅入ってしまう。
 双葉郡からいわきに避難してきた市民は2万3,000人を超え、今後も増える見込みだという。仮設住宅に住む人々は、自分の意思とは関係なく、国と東京電力が起こした事件によって故郷を離れ強制的に移住させられてきたのだ。いわきでは急激な人口増加により、道路の渋滞や店が混雑するといった事態も起きているようだが、それは避難してきた人たちのせいではない。すべて、国と東電、関連組織あるいはそれらがやることを見逃してきた市民の無関心が悪いのだ。そのような混乱を招いた罪は重い。たくさんの避難市民を生み出した元凶の行政や組織はいまだだれも裁かれていない。裁かれるどころか、東電の経営上層部は高額な退職金を受け取り悠々自適の生活を送っているという。そのうえ原発が再稼働し、新規の建設も再開された。人権を軽視した長屋のような仮設住宅と翻弄される人々の姿を見て、空疎な脱力感の後にじりじりと怒りが湧いてきた。
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6.22首相官邸前抗議行動 [原発]

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 今日の夕方、仕事を抜け出して、首相官邸前の抗議行動に参加した。市民によるこの抗議行動はTwitterによる呼びかけで始まり、今年3月から毎週定期的に行われている。先週集まった人の数は1万1,000人という発表。これほどの市民が集まっても、ほとんどのメディアは取り上げていない。
 丸ノ内線の国会議事堂前で下車し、地上出口に近づくと、上から拡声器からの声や人々のざわめきが聞こえてくる。繰り返されるフレーズは大飯原発の「再稼働反対!」。スタートは夕方6時。ちょうどその時刻に着いたのだが、すでに多くの市民が議事堂前から首相官邸前の区域に押しかけていた。ただし混乱はなく、誘導される霞ヶ関方向へ歩き、先に来ている人たちは歩道に立っている。動員された警官はほぼ交通整理に終始していた。
 以前、井の頭公園西園で行われた原発反対集会では、組合や団体などの組織の人々の姿が多かった。たくさんののぼりが立ち、そこには組合名や団体名が書かれてあったのを覚えている。しかし、今日の抗議行動に参加した人々はごく普通の市民であり、数人で来ている人が多い。一人の人もかなりいた。その人たちが懸命に反対の声を上げていたのが非常に印象的だった。各人が独自のプラカードなどを持っている。奈良美智のNO NUKESの絵を持つ人や鳴り物もあり。その声と姿を前に、なぜだか涙がでた。これだけの人たちが原発に、国の政策に反対を表明しているという事実。それを知っただけでも、来てよかったと思う。写真を撮りながら、最後尾方向に向かって歩く。
 私は根っからの集団行動嫌いだ。二十年以上前から原発反対を思ってきたものの、これまでデモや集会に参加したことがなかった。人の多くいる場所自体が苦手なのだ。しかし、官邸前に集まった真摯な日本人の姿を見て、今日ばかりはそんな気持ちが吹き飛んだ。これほどまっすぐな姿勢の人々を見たことがこれまであっただろうか。飼い慣らされたようないい加減なものをさんざん見てきたわけだが、まだまだ捨てたものではないのだと思った。そこには自発的な、そしてきわめて個人的な抗議行為があった。
 私は最初は黙って歩いていたが、少し無理にでも「再稼働反対」と意識して声に出してみた。張り上げるでもなく、つぶやくでもなく。いまの自分の温度でそう口に出してみた。人々に合わせ、その言葉を繰り返しながら最後尾にたどり着き、再び首相官邸方向へ折り返した。だれかが、「3万人を超えました」と伝えながら小走りに過ぎた。
 暗くなっても、祭りのような熱気と抗議の声が議事堂前をつつんでいる。人々の背景には官庁街のビルの明かり。仕事に戻らなければならなかったので7時45分にその場を後にした。今夜の抗議行動は8時が終了時刻だが、人々の熱意は簡単には冷めそうにない。この行動を続けていけば、早晩大きなうねりになるだろう。欲におぼれた政治家や官僚、電力会社が退場する日がやってくるかもしれない。Twitterでは、今日の抗議行動に4万5,000人が参加したというコメントが流れた。

報道ステーションは12分間の枠で報道した(削除される可能性あり):
http://m.youtube.com/?rdm=4pykqlku0#/watch?desktop_uri=%2Fwatch%3Fv%3DdTuHOAW0DVM%26sns%3Dtw&sns=tw&v=dTuHOAW0DVM&gl=JP

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大飯原発の再稼働 [原発]

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 悪い夢でもみているのかと思う。面の皮の厚いタヌキの親分みたいなのがテレビにぬっと現れて、「原発を再起動します」などと言っている。昨夜、仕事をきりあげて同僚のM君と二人で首相官邸前にかけつけたが、再稼働への抗議行動はすでに終わっていた。警官だけが残った官邸前の路上で、1万1,000人の人間の怒りと熱気がまだその場に残っているのを感じた。

 5月5日に国内の全原発が停止して42日、このまま原子力発電が停止していることはないだろう、「経済」の亡者の原発推進派がおとなしくしているはずはない、と予測はしていたが、なんの議論も折衝もないまま、一部の民主党議員と責任逃れのおおい町町長、西川福井県知事の形式的な申し送りによっていとも簡単に再稼働を決めてしまった。あり得ない話である。

 福島原発事故の原因究明も進まず、放射性物質の拡散・漏洩は続き、避難した市民8万6,000人はいまだ不安定な生活を送り、さまざまなかたちで汚染が国中に広まる中、なんら旧来と変わらぬ態勢のまま福井の突端にある原発が再び動き出す。現在、日本列島は地震の活動期に入っている。この島国のそこらじゅうで毎日大地が揺れている。自然は「想定外」となって、再び人間社会を襲うだろう。野田総理が口にする「国民の生活を守る」という言葉がむなしい。

 関西電力は再起動宣言の直後に大飯原発の準備作業を始動した。とうの昔に話は決まっていたことがわかる。すべては猿芝居。すでに結論ありきの政治なのだ。「暫定」やら「容認」などという言葉をあみ出し、市民を軽んじたそれはすでに政治ではない。

 野田総理は、最終責任は私がとると言い放った。福島第一原発の事故で明らかなように、いざ原子力事故が起きたら、広大な地域に深刻な放射能汚染が広がる。一人の人間の「責任」でなにができるというのか。これはすでに多くの市民にとって自明なことだ。まして福島の事故ではだれも責任をとってはいない。この点で総理の言説はまったく破綻している。増税の件も併せて、一部の民主党議員からは「狂っている」という言葉も出ていると聞く。狂った脳ほど手に負えないものはない。狂っているのか、真実を見極める能力が欠落しているのか。

 大手メディアも3.11からなにも変わっていないようだ。昨夜、1万1,000人の市民が首相官邸を取り囲んだ事実をどのメディアもまったく報道していない。米国でホワイトハウスを1万1,000人の市民が取り囲んだら同国のメディアは黙ってはいないだろう。おそらく、世界中にニュースが広まるはずだ。いまの日本の大手メディアは、記者クラブの座席でノートパソコンのキーをパチパチたたいて、政府のいうことを伝えるだけの広告宣伝会社になりさがった。監視者が消え、権力が野放しになる。そら恐ろしい時代になったものだ。昨夜の市民の行動を知るのは、TwitterやFacebookの利用者などに限られた。

 大飯原発(大飯発電所)の位置を地図で確認してほしい。海に面した大島半島の突端に造られており、そこに至る道は一本道である。高い防潮堤も、免震棟やオフサイトセンターも、ベント用のフィルター装置も用意されておらず、福島第一原発よりも無防備だ。この地域で災害が起きれば、津波あるいは土砂崩れで道は絶たれ、発電所は孤立するだろう。その後の事態は容易に想像できる。

 福島の原発事故はいくつかの不運が重なってたまたま起きてしまったと思ってはいないだろうか。それは間違いだ。今回の事故以前にも全電源喪失などの重大な事故はいくたびか起きており、東電によってそれらが隠されていたにすぎない。東電以外でも、各地の原発、あるいは各国の原発で、放射能漏れなどの重大事故は隠されてきた。配管の溶接ひとつとっても安全は保証されない(大飯原発の場合は冷却用の細管か)。原発はそれほどに危うい設備なのである。安全と事故の尾根の上をときどき後者に滑り落ちながら、ぎこちなく歩いているのが原発という施設なのだ。日本列島は東が汚染されてしまった。次は西、となればもはや進む先はない。

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大飯原発事故を想定した放射能汚染シミュレーション(報道ステーション制作)

6月15日の首相官邸前抗議行動の記録動画:
http://kingo999.blog.fc2.com/blog-entry-715.html

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海から見た大飯原発(安冨歩氏撮影)

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全原発停止の日 [原発]

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 5月5日、北海道電力泊原子力発電所の3号機が定期検査に入り、国内にある50基の原発がすべて停止した。私は国内の全原発が停止する日がこれほど早く訪れるとは思っていなかった。国と電力会社はどうにかして、核の炎を絶やさぬよう「延命」を図ると思っていたのだ。もちろんあくまで停止したにすぎず、再稼働の可能性は残されている。この先のステップとしては、全原発を廃炉に追い込むことだ。廃炉にするにも莫大な費用と労力がかかるのが原発のやっかいな点。放射能に高濃度汚染された原子炉の解体から処分・保管まで、費用と長い時間、たくさんの作業員が必要になる。
 とはいえ、廃炉の話をするのは時期尚早だろう。国や電力会社のだれも原子力発電をやめるとは言っていない。原発を不安視する世論の高まりや世界情勢に照らして、再稼働を先延ばししているにすぎない。国や電力会社、電事連は動かしたくてうずうずしている。これまで、東電管内で30パーセント、関電では40パーセント以上の電力が原子力で賄われてきたという。関東はともかく、関西は原発なしでこの夏を乗り切れるだろうか。もっとも、40パーセント以上依存している関西が、いま現在原発なしで電力不足に陥っていないのもおかしな話だが。
 原発を止めたからには、新たなエネルギー供給源を考える必要がある。火力と水力のほかに軸となるエネルギー源の候補を挙げて確実なものにしなければならない。忘れてはならないのは、原発に反対する者自身も原発による電力を使ってきた(使ってきてしまった)以上、共犯関係にあるのは免れないということだ。単に反対し、原発を廃炉にすればそれでいいわけではない。解体後の最終処分まで負担し、代替えエネルギーの提案・支持を行うのが筋だ。
 その前に、電力にどっぷり浸かった生活や経済活動を改めたい。夏場、キンキンに冷えた建物内、煌々と明るい室内照明、そこら中にある自動販売機、夜中まで空いているコンビニなど、過剰すぎるこれら諸々を抑える方向に動くべきだ。このようなことをいうと、抑制することは経済活動の低下につながり、国力が落ちると否定する人が現れる。原発の推進も同じ理由であろう。国力の維持のためには原発が必要であるという論理がそれだ。しかし、それは繁栄の方向が間違っている。電力をジャブジャブ使ったり、物を容易に使い捨てる大量生産・大量消費がこれから目指す繁栄ではない。日本の人口は減っており、一方で借金は来年度には1000兆円を超える。このような時代には、自然と共生し、電力や物の使用量を適度抑えることが重要になる。もはや過剰さは不要だ。
 全原発が停止したいま、われわれは自らの生活や社会活動を見直す時期にきた。これは、私のような'80年代の「おいしい生活」やバブルを体験してきた世代ほど、肝に銘じたい。では、これからの若い世代は「おいしい生活」を味わえなくていいのか? と思う向きもあるだろう。「おいしい生活」を顧みると、その提案の中心にあるのは、物や文化、情報に囲まれた豊かな生活といったところだろうか。もちろん、そこでは電力が重要な役割を果たす。私の知る範囲(息子やその友人、会社の若手など)では、いまの若い世代は物や、旧世代が思い描く文化や情報には固執していないように見える。彼らは旧世代のような物への渇望が希薄で、その価値観の中心には過剰な電力を求めたり、強い物質欲はない。その善し悪しはともかく、電力や物質が人間を幸福にするという古くさい考え方は早晩改めるほうがいいだろう。
 核燃料などという危険きわまりないものを燃やし、単に湯を沸かして蒸気タービンで電力を得る旧式な施設がそれほど重要なのか? 繁栄のためには次世代に恐るべき負担をかけていいと勘違いしている国や電力会社、役人、経団連はもはや見切ってしまおう。次の世代と語り合って本当に必要なものを選択し、バトンを渡すときが来た。奇しくも5月5日はこどもの日だ。
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原子力と核兵器 [原発]

 明日、国内で現在唯一稼働している北海道電力泊原発3号機が止まり、これで国内にある50基の原発がすべて停止することになる。いわば一時休戦だ。残念ながら放射性物質はすでに国土の広い地域に降りそそいでしまったが、その災禍の大元といえる原発がすべて停止するということは市民にとって休戦と言っていいだろう。原子力利用の完全な停止ではない以上中休みにすぎないが、一時的でも事故の危険性が下がり、日本人の生存期間が少しだけ延びる。
 さて政府は、最近まで関西電力大飯原発3、4号機の運転再開を目ざし、今日にいたっては、原発の発電量に応じた交付金を原発が稼働していなくても支払う特例の実施を検討するなど、まだ原子力発電をあきらめていない。多くの市民が原発の安全性に疑問をもち、福島第一原発事故の原因究明も行われていない中、なぜそれほどまでに原発に固執するのか。
 電力供給という巨大な利権を手に入れ、それによって多額の金を得るといった理由もあるだろう。ようやく築き上げた利権構造を手放すことは、多くの政治家や官僚、学者、経団連にはできない相談だ。しかし、固執する理由ははたしてそれだけだろうか。原子力が持つ本当の顔を忘れてはならず、いまいちど原発の成り立ちを考えてみたい。
 本来、原子力は人間を大量に殺戮する核兵器製造のための技術だ。世界でより優位な立場に立つために必要となる強大な武器。この武器に磨きをかける目的で米ソ中は'60年代にたくさんの核実験を行った。それを、ビキニ環礁に象徴される核開発への反対運動の波を押さえ込むために、途中からエネルギー供給すなわち「平和利用」という名目にすり替えたにすぎず、本質は核兵器をつくるためのコア技術である点に変わりはない。高濃縮ウランやプルトニウムなどを抽出する技術を持つということは、すぐに核兵器をつくることができるという威嚇であり、外交上、国家がこのカードを持つことの意味は非常に大きい。米ソ中はもちろん、インドやパキスタン、北朝鮮などがこのカードを持つことに精を出している点からみても明らかだ。
 そうであるならば、疑問符の位置が変わってくる。なぜ原発に固執するのかではなく、なぜ核兵器を持ちたいのか。原発をあきらめるということはすなわち、核兵器を持つことをあきらめるということだ。つまり、自前で核兵器を製造する能力を切り捨てることになる。いかにアメリカといえども、国際的な立場上日本に核兵器を売ることはできないだろう。与党の上層部と官僚は以前から、アメリカの核の傘の下ではなく、自国の傘をさしたいと願ってきたのではないだろうか。核保有によって他国からの脅威を防ぐ。原発を止めると、この願いを断念しなければならない。
 そう考えると、原子力は憲法第九条にかかわってくる。日本の与党はこの点を認識し、原子力の進む道筋を周到に考えているはずだ。すでに明白だが、民主党は第2自民党である。自民党と同様に原子力から核兵器所有へいたるロードマップを官僚から受け取っているだろう。
 原子力は人間の手に負えない現象であり、福島の惨状がそれを示した。これと同義である核は、人類を破滅に導く兵器だ。各国が互いをけん制するために核が必要なのだという考えもあるだろう。しかし国家間のけん制以前に核技術は、必然ともいえる人為的ミスによって大量の放射性物質を漏らし、地球を汚染し続けている。日々生み出される核廃棄物の後始末は数十万年先に繰り延ばし、技術としては当初から破綻しているのだ。いずれにしても、原子力=核はこの地球に生きる市民やすべての生き物を弾圧する存在であることに変わりはない。誤ったはじまりと誤った歩みを止められないほどに、人間はおろかなのだろうか。
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ストロンチウム汚染水12トンの流出 [原発]

 今日の早朝福島原発で、汚染水をためているタンクにつながる配管から高濃度の放射性ストロンチウムを含む汚染水12トンが海へ流出していたことが明らかになり、午後のNHKニュースがそれを報じていた。ストロンチウムはベータ線を発する危険性の高い核種だ。体内に取り込まれると多くが骨に蓄積される。これを含んだ汚染水が12トンも福島の海に流れ出た。これまでも大量の放射性物質が海に放出され、溶融した核燃料から今もって地下に大量に漏れ出している。それに輪をかけての今回の事態だ。
 NHKはこのニュースの中で、「東京電力の管理態勢が厳しく問われています」などと間の抜けたコメントを述べている。管理云々を問うのではなく、これはれっきとした東電の犯罪であることを指摘すべきだ。しかも加害者意識が皆無のきわめて重い犯罪。いまなお日本の海を広域に汚染している点で、管理態勢レベルの話ではない。なおかつ汚染は世界の海、公海で起きているのであり、国際的に見ても大きな問題なのだ。
 多くの日本人はいま、この事実を「また東電がへまをやらかしたか」程度にとらえてはいないだろうか。たぶん、それほどひどい事態であるという認識はもっておらず、大きく油断しているに違いない。福島県民や福島県出身以外の日本人にとって福島原発事故は残念ながら他人事である。人々はすでに日常に戻った気分でいる。
 福島第一原発で起きたこと、そしていま日本中で起きていること。それをもういちど考えてほしい。太平洋戦争に匹敵する巨大な犯罪が発生したのだ。いや、これもまた戦争であり、本来子孫が持つべき時間さえ食いつぶす点ではそれ以上と言えるだろう。この戦争は現在進行形だ。東京電力という軍隊は市民に向けていまも大砲を撃っている。
 確かにいまのところ放射能で直接的に亡くなった人はいないかもしれない。しかし、広大な自然と多くの市民の生活と未来、産業を根底から破壊したことはまぎれもない事実。にもかかわらず、いまだだれも罰せられず、だれも責任を取っていない。この状況は異常事態を通り越して、狂っているとしか思えない。市民が「ストロンチウムを含む汚染水12トン流出」を、ただのニュースとして平静に聞いているのであれば、この国はすでに終わっている。

NHKのニュース:
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120405/k10014233041000.html

4号機燃料プールと双葉断層 [原発]

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 いわきのローカル紙「日々の新聞」第216号の1面に以下の見出しが掲載された。「福島第一原発で直下型地震が起きやすくなっている」。東北大学大学院理学研究科教授の趙大鵬さんの研究結果に関する記事だ。趙さんは「地震波トモグラフィー」という方法で地下の状態を探り、「双葉断層に注意すべきです。地震が起きる時期は把握できませんが、地震計を周囲に密に置くなどして最新の技術を駆使し、応用すべきです」と語る。政府の特別機関である地震調査研究推進本部は双葉断層の位置を宮城県の亘理町から南相馬市までとしているが、実際にはいわき市久ノ浜町まで連続する大規模な活断層で、福島第一、第二原発のそばにも存在するという。
 趙さんたちは地震波トモグラフィーで福島第一原発の地下を画像化。それによれば、昨年4月11日に震度6弱の地震を起こした井戸沢断層のあるいわき市南部の地下の画像と似たプレートからの水(流体)の存在をつきとめたとのこと。「福島第一原発の地下で直下型地震が起きやすくなっていて、原発施設を強化することが大切」との論文を2月14日発行のヨーロッパの専門誌に発表した。
 さて、福島第一原発でいまいちばん注視しなければならないのは、4号機にある燃料プールだろう。水素爆発による崩落でぼろぼろになった建屋のプールに現在1500本以上の核燃料棒が格納されている。このプールの冷却水がいまの日本人の命綱だ。核燃料棒の取り出し作業を始めることができるのは2013年の12月、およそ2年後だという。
 双葉断層と4号機にある燃料プール。この2つの要素を交差させて考えたとき、私は怖ろしさで憂鬱になる。もし趙さんが指摘するような直下型地震が福島第一原発で起きた場合、4号機の燃料プールはそれに耐えうるだろうか。万が一、プールにヒビが入るなどして冷却水が漏れれば、むきだしの燃料棒がメルトダウンを起こし、膨大な量の放射性物質が放出されることになる。そうなれば、もはやだれもそれを止めることはできず、福島はおろか関東を超える300km、400km圏に汚染が広がるのは間違いない。そのとき、小出裕章さんがいうとおり、日本は終わる。
 われわれは3.11以前のような日常を取り戻したかのごとく、原発事故の惨状を忘れかけて生活しているが、その日常の底にある危機は変わらずに重く存在する。いまこの瞬間にもその危機は目の前に現れ、われわれの生活を一変させてしまうかもしれない。燃料棒の取り出しが始まるまでの2年の間に双葉断層の地震が起きる可能性は否定できない。それを思えば、東京の街が砂上の楼閣に見えてくる。
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福島の女性 [原発]

 先日3月10日深夜に放映された「朝まで生テレビ」を観た。テーマは3.11の原発事故から1年経った現在における、除染・がれき・脱原発・エネルギー問題。細野豪志大臣と河野太郎議員の議論に実のあるものが多かったように思った。さてこの放送の中で、ひとしきり議論があった後、スタジオに来ていた福島からの観覧者の一人がマイクを向けられ、以下のようなことを言った。「これまでの議論を聞いていると、細野大臣や多摩大学の先生をふくめて皆さん、机の上だけで話をしている。机上の空論だ。自分の身内が福島にいたらこんな話にはならない。できれば福島に住んだうえで話をしてほしい。家族が住んでいるつもりで、もっと私たちの立場になって考えて」。

 60歳くらいの女性だったが、正直にいってこの意見にはうなずけず、なにか違和感を感じた。確かに、福島の市民は今回の原発事故における最大の被害者だ。突然降ってわいた放射能汚染に健康や生活を脅かされ、地域のつながりを断ちきられ、仮設住宅あるいは自宅で不安なつらい毎日を送っていることは理解できる。怒りをぶつけたいのは当然だろう。しかし私が気になったのはこの女性の考えている「家族がいるつもりで」という問いかけだ。政治家や学者、評論家に当事者意識を持てという。その要望は難しいのではないだろうか。

 相手の立場に立って考えるというのは、このような災害時においていかにも大事なことのように思えるが、人間の社会というのはそれほど人情に厚いところなのか。残念ながら、当事者意識を持てる人間など実際にはそう多くない。家族とともに被災地に住んでまで他人のことを心配してくれるような人物はいないだろう。まして、政治家には。さらに踏み込んでいえば、国家は市民の側に立つことはない。市民の身を案じ、常に安全を確保してくれるのが政府や官僚、学者だと思っているのなら、考えをあらためたほうがいい。市民は、彼らが道を誤らないように監視する立場にある。

 私が感じた違和感は、その無防備さにある。どこかのミュージシャンが歌っているいうように「だまされていた」というのでは話にならない。私は、原発において国や電力会社がいう「安全」神話を信じていたのなら、信じるほうが悪いと思う。原発1基で数百億〜数千億円の金が動くのだ。その金目当てにさまざまな画策するのが人間というもの。その人間たちが口にする「安全」は建前に決まっている。その言葉を信じていたのなら、今後もきっといろいろな局面でだまされ続けるだろう。

 女性の言葉からは「政府には、親身になって自分の安全を保証してくれる人間がいるはず」、そんな意識が感じられる。「自分たちはいわれのない被害を受けたのだ。この損害をどうしてくれる? 家屋と収入のぶんを早急に賠償しろ!」くらいの踏み込みが必要だ。相手は「年間10ミリシーベルト以下なら大丈夫。いや本当は100ミリでもそれほど影響はない……」などと無責任なことを言っているのだ。「そんな判断は我々がする。とにかく放射性物質をすべて東電と国が引き取れ」と返すのが筋だろう。

 受け身ではいつまでたっても中央政府に押しやられるだけだ。相手に自分の主張をのませるための戦いは避けて通れない。まして、事故によって発生した問題はいまもほとんど解決していないのだ。戦いは今後数十年は続く。首都圏にエネルギーや食料、部品を供給していればなんとかなる時代は終わった。自分たちがこれだけつらい思いをしているのだから、国や県はどうにかしてくれるだろうという考えは捨ててほしい。まずは、東電と国に損害賠償を集団訴訟で求めるのが筋だ。そのうえで、自らの安全は自分たちで確保しなければならない。国や県の動きには常に不審の目を向けていたい。

 福島の市民は疲弊もしているだろう。先の見えない中いまは静かにしてほしいという気持ちもわかる。しかし、このような世界的な事故が起き、それが収束していない中、なお国家に期待するのはやめたほうがいい。いまからでも遅くはない。福島県の人々は感情に訴えるだけではなく、理屈で戦略的に考える準備をし、自立するための言葉を得てほしい。また、他県などに味方を増やすことも重要だろう。とりもなおさず、それがいままでの福島県の市民に欠けていた資質であり、この戦時下のような状況で必要なことでもあるのだから。

4月4日追記:
【福島原発告訴団】3月16日、いわき市で「福島原発告訴団」の結成集会が開催された。
http://kokuso-fukusimagenpatu.blogspot.jp/
「福島原発事故により強制的に被曝させられたわたしたちは、生活と健康の不安におびえながら、このまま泣き寝入りするわけにはいきません。いまだに責任が問われていない東京電力の経営陣、原子力安全委員会の委員など、東京電力&国&官僚&御用学者の犯罪を追求し、法的責任を問うことが必要です。「原子力村」の犯罪を、告訴で刑事責任を糾すため、(仮称)福島原発告訴団を結成いたします。みなさまのご賛同と結成集会への参加を呼びかけます」
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