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浅井真理子「drawings on carbonless duplicated book」 [ART]

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 風景や建物、目、地形、あるいは布のような、さまざまなイメージが現れては消えていく。Toki Art Spaceで浅井真理子の「つるつるのみちをとおってかなたをさわりに Walk on the slippery road to touch the surface of far in the distance 」を見る。
 感圧紙を束ねたノートへのドローイング「drawings on carbonless duplicated book」シリーズ12冊のうちの最後の1冊。下敷きを使わず、感圧紙(上用紙)に断片的に描かれたイメージは数ページ(下用紙)にわたって痕跡を残し、重なりながら減衰する。この重なりはなにかの物語を生成し、減衰は時間の流れを感じさせる。立ち現れる物語は見る者によって異なるだろう。過ぎゆく時間の感覚も同じく。
 鉛筆で上用紙に描かれた表層がオリジナルだとすれば、その後に続く感圧による青い痕跡はすべてコピーだ。このコピーの反復が表現する余韻のような奥行き。そこにある静謐さ。ときに裏面から描き足し、色鉛筆でわずかに加色したページもある。その仕事から作家の資質の確かさを感じた。
 本作は、ノルウェーのトロムソ滞在中に制作したという。作品は白い手袋をして閲覧する。ページをめくる所作は必然的にていねいになる。ドローイングのほか、作品がもつ繊細さと所作によってもまた、特別な体験を促す。この体験からくる物静かな印象こそが、本作が内包する世界の断片であり、記憶だ。ページをめくりながら、私は別の空間と時間を旅した。



「The Library 2014」-Exhibition of the Book art-
Toki Art Space 2014年8月5日-16日
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山崎阿弥の個展「マイビークル|ホワイト カラード ブラックホール」 [ART]

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 連休の最終日、ぎゃらりー由芽で山崎阿弥の個展「マイビークル|ホワイト カラード ブラックホール」を見る。
 三角形の紙を中央で折り、鳥の羽根のように密集させた作品。DMを見たときは石膏のようなものだと思っていたが、実際には紙だった。コピー用紙やトレーシングペーパーなど数種類の紙を用い、手でちぎって貼り込んでいる。木製のフレーム内に植えられたたくさんの羽根。あるいは動物の体毛のようにも見えた。
 羽根は反復や並列的な同一性としてミニマリズムに通じる。例えば、草間彌生のInfiniteシリーズのように。しかしこの羽根はそれに収まらず、なにかに翻弄されるかのように波打っている。そして、その動きを氷結で固めてしまったかのようだ。
 ここにあるのは、情動か、閉じ込められた動物のエネルギーか、それとも永久に波打つ草原のような風景だろうか。作品は見る者を引きつける力を備えており、私は無限に続く恒久性を感じた。一つひとつの羽根は絵画でいえば、筆のタッチにあたるのかもしれない。だが山崎のタッチは、見る者との対話を拒絶しているように思える。前述したように、動きを封じ込めてしまっているからだ。木のフレームで囲われたそこだけ時間が止まっている。いや、止めることで永遠を手に入れたのか。
 個展のタイトルからすると、作家は私の見立てとはまったく別の地点から本作を出発させていることは明らかだ。もしかしたら、この羽根で世界を覆いつくしたい欲望にかられての行為かもしれないし、おそるべき攻撃性を埋め込んでいることも考えられる。一つだけ確かなのは、この世界には想像を超えた「風」が吹いているということ。根拠なく、あらゆる方向から吹く風。それは地上だけとは限らない。宇宙空間や動物の体内であっても同じだ。
 作家とは会わなかったため、言葉はなく、吹き荒れる風にざわめく羽根を感じながら画廊を後にした。密かに、出色の展示だったと思っている。


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会田誠展「もう俺には何も期待するな」 [ART]

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 3月5日、ミヅマアートギャラリーで会田誠展「もう俺には何も期待するな」を見た。このタイトルは昨年六本木で開催され、49万人もの来場者があったという展覧会「天才でごめんなさい」の反動によるものなのだろうか。見に行くほうはそうもいかず、注目作家の新作に期待しながらギャラリーを訪れただろう。
 展示の中心は映像作品だった。タイトルは「土人@男木島」(2013年制作・48分36秒)。撮影地は瀬戸内海に浮かぶ男木島で、この島に4人の土人が現れたというシチュエーションだ。時間と空間を飛び越え、太古から現代にやって来た4人はそれぞれ「うみやろう」「やまやろう」「あなやろう」「ひげやろう」と呼ばれ、島の社会に馴染んでいる。ここに女性レポーターが訪れ、彼らの生活ぶりを取材し、ときにクイズが出題される。この設定に来場者は肩すかしをくらう。と同時に「そうきたか」と受け止める。撮影・編集は作家本人が行なっており、つくりはそのまま「世界ふしぎ発見!」と「オレたちひょうきん族」だった。
 会田誠は以前、自らがオサマ・ビン・ラディンに扮した作品「日本に潜伏中のビン・ラディンと名乗る男からのビデオ」を制作し発表した。どこか地方の日本家屋の座敷のようなところにかくまわれたビン・ラディンがこたつに入って酒を飲み、乾き物を食べながら独白するという内容だ。日本に骨を埋めるつもりだという。これも相当おかしく、思わずに笑ってしまう。ビン・ラディンを血眼で捜していたころのオバマ大統領が見たら、卒倒しただろう。
 彼の作品は、風刺、お笑い、状況に対する複雑な感情や価値観、アートと現実の二重構造など、さまざまな物事が骨組みになっている。力みがなく、彼がTEDのプレゼンテーションで語った「テキトー」が制作のベースにある。しかし、その適当さの中であぶり出されるのはまぎれもない現代日本の姿だ。あるいは日本という池に投じられた彼ならではの表現。その点でこの作家のフィールドは、日本そのものなのかもしれない。「もう俺には何も期待するな」では、上映スペースの壁面に殴り描きのような大きなペインティングを展示した。そこには赤い放射能マークとともに「ふるさとはNo Feeling」と書かれてあった。その意味するところはなにか?
 日本人が抱える問題や政治的なテーマを捉え、既成の価値観を壊す仕事をしながら、彼は直接的な行動をとることはしない。あくまで、問題を作品の中に内包し続ける。問題を生け花の剣山のように底に据えながら、主に同世代の人々が影響を受けてきたもの、それはお笑いや風俗であったり、アニメや女子高生だったりといったものだが、それらさまざまな要素を刺して作品を形づくっている。このモチーフに合わせ、作品のスタイルやスケールを変え、メディアを選び、テクニックをコントロールする。それがこの作家の強みだ。
 今回は映像作品以外にも、3角形の部屋の中で3人の男性が話し合う様子を3台のカメラで録画した「最小社会記録装置(Minimum Society Recording Device)」、和室を模した部屋に飾られたオブジェなどが展示された。「最小社会記録装置」は仕掛けとして、また個人的な語りの点で、興味深いインスタレーションだ。
 和室に座り、TED登壇の顛末を記した冊子を読んでいたら、作家本人が目の前に現れた。そのとき、私は特に話しかける言葉をもたず、軽く挨拶をした。彼の表情は柔和で、たたずまいは落ち着いている。それは作品ありのままであり、芸術家は本来、作品とイコールだ。作家の目を見たら、彼の仕事についての謎が収まるところに収まった気がした。
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アートフェア東京2014 [ART]

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 制作を早めに切り上げ、有楽町・国際フォーラムで開催されている「アートフェア東京2014」に行く。5時に着いたが、終了時刻まで3時間しかないので少し急ぎながら回る。ギャラリーの話を聞きながらまともに回ると、ゆうに5時間はかかる。地方在住の若手作家に注目したい人が数人いた。そのほとんどが女性。男にも見所はあったが、こだわる勘所がずれている人が多いように思えた。
 
 私がいちばん注目したのは、富山から来た江藤玲奈。日本画の技法を使った人体表現は、これまで見たことのないものだった。連想するのは、ベーコンやデュシャンだろうか。しかも単体ではなく、3人あるいは集団を描き、人間が運動している。人体に重なるように綱のような痕跡が記されている。ここでなにが起きているのか、表した内面とはなにか、非常に興味深い作品だ。作家本人はごく普通のトーンで作品を語る女の子だった。

 次に、大竹寛子。こちらも日本画で、青い岩絵の具で蝶を描いた作品。タイトルは「連続する流動的な瞬間」。舞い飛ぶたくさんの蝶から絵の具が下に垂れている。この幾筋もの青の流れと変化が美しい。蝶は精密に描かれているが、タッチを感じさせず、版画のようでもある。手仕事を感じさせない距離感が静謐さを生み出している。

 田村香織の画面は緻密で深い。刻まれた細線が宇宙を構成し、気の遠くなるような空間を創り出しているにもかかわらず、どこかに存在の軽やかさがある。引き込まれるのは実はこの軽やかさのほうなのかもしれない。

 メタリックでSF的なモチーフを描く牧田愛。彼女の作品はCGを軽く凌駕している。鏡面の映りこみが際立ち、まばゆいイメージを放つ。このイメージは手仕事でつくられているに違いない。それだからこそ、見る者の視線を呼び寄せ、精神を溶解させる。溶け込んで画面に融合してしまうのだ。

 柴田七美は絵の具を盛っている。かなりの物質感。厚塗りはよくある手法なのだが、彼女の場合は、そのタッチに魅力がある。面の方向性が強く、思わず読み込みたくなる筆致なのだ。人物がなにかを演じる場面を表すタッチに、彼女なりの言語感覚があるとでもいえばいいだろうか。色調は統一されている。

 北海道在住の山本雄基の重層的な作品。円が何層にも渡って描がかれている。その人肌に近い色彩感覚がレイヤーの物質感とあいまってうまい具合に独特の空間を生み出している。黒い円が構造を支えている点が特徴。私は今回の展示では、物質感とレイヤー構造による作品に注目した。売れている作品にもその傾向があったことは興味深い。

 香月泰男の小品は味わいがある。あの京壁のような地にためらいも気負いもない、ごく絵画的なモチーフが黒などで描かれている。この自由な自律性がとても魅力的だ。熊谷守一の絵は何度も見たが、今回ふと思ったのは、この人の油彩は一度の下絵を最後まで生かしているのではないかということ。最初に赤鉛筆のようなもので描いた下絵が輪郭となり、それを変えることなく、完成までもっていっているように見えた。

 アートフェア東京では、香月泰男や熊谷守一、佐伯祐三など往年の作家の作品を見ること、買うこともできる。近代から現代、新人からベテランまで、幅広い作品が展示されるのが本展の特徴だ。なぜか今年は香月泰男と藤田嗣治が多かった。いずれも小品で、どのくらいの価格設定なのかが気になった。

 終了間際、知り合いの現代美術の画商に会う。持ち込んだ作品がほとんど売れて補充したとのこと。絵の具を針金状にして描き、地図のようなふかんの風景を表現する作家。線が立体になっているユニークな技法とミニチュアのような面白いモチーフだ。平面作品でありながら、立体的な要素もある。いくらだったかは知らないが、売り出し中の作家の作品はたいてい安めに設定される。

 外国の作家も出品していたが、この会場では総じて日本人のほうがユニークで新鮮。新しい文脈をつくりだす土壌を感じた。しかも、以前のような、少女や幼児、アニメをモチーフにした作品がだいぶ減った。スーパーリアルの女性肖像画も少なくなったのはいいことだ。モチーフ、技法ともに興味深いペインティングや写真に出会い、刺激を受けた。

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会田誠展「天才でごめんなさい」 [ART]

 先日、森美術館で会田誠展を見た。副題は「天才でごめんなさい」。新作を含む約100点が展示された。平面では、いわゆる日本画、マンガ、アニメなどの表現手法と技法を、そのほかでは立体やビデオをはじめとするさまざまなメディアをテーマに応じて用いていた。それは、いまどきは珍しいことではないかもしれない。しかしこの作家の表現は極小から極大までのスケールを操りながら、女子高生、日本、社会問題、戦争などのテーマによってさまざまに変化し、混沌さの中に明確な意図が存在する。

 会場に入ると、いきなりブルータスの石膏デッサンが現れる。しかも巨大だ。日本の美術教育の根幹を担うメソッドがたぶん日本で、世界でいちばん大きなサイズで描かれている。美大受験生には見覚えのある横からの構図。どうやって描いたのか、なかなかいいデッサンに見えた。「BT」と記されている。ここで芸術家や芸術家予備軍は、意表を突かれる。私は、なにか得体の知れない場所に踏み込んでしまったざわつきを感じながら先へ進んだ。

 少女とはなにか、といった問い。私の知る限り、日本では1970年代から芸能界、そしてアニメとマンガの泉により「美少女」が創作されてきた。アイドル時代には希少的な存在の歌手として、そしていまでは集団となり、だれがだれやらわからない膨大な少女のイメージが日本中に拡散している。この不特定多数の美少女と、会田誠の匿名的な美少女は呼応する。

 スクール水着を着た少女達が戯れる「滝の絵」。ここに描かれているのは、見覚えのある少女の仕草だ。われわれはスクール水着を着た少女達を通してなにを見ているのだろうか。性を内在する天真爛漫で無自覚な存在。一人の作家の妄想がわれわれの共有意識にすり替えられる瞬間。ここにはなにか秘密がありそうだ。それは、禁則を伴う対象とそれを破る自分の存在を赦す瞬間なのか。それではあまりに短絡的だ。さまざまなメディアを使う点で明らかなように、この作家の描く絵画は「媒介」であり、モチーフとしての美少女もまたなにかの媒介なのではないだろうか。この二重の媒介性によって会田誠は、現在のわれわれに見えていない現実を提示している。

 中古の襖をつなぎ合わせてつくられた屏風絵には、いくつかの興味深い作品があった。セーラー服の少女が日本の国旗を、チマチョゴリの少女が韓国の国旗を持ち、荒廃した風景の中に凛々しく立つ「美しい旗」。この2枚は対峙するように置かれている。壊滅的絶望的な争いの中で残ったものは虚無ではなく、国の記号を背負った少女。これは見覚えのある「戦争画」の後継だ。しかし、なにかが違う。藤田嗣治をはじめとする幾多の画家が請け負った仕事を現代に再起動させた。それだけではない。描かれているのは兵士ではなく、美少女なのだ。

 会田誠の代表作ともいえる、零戦の攻撃によって燃えさかるビル群を描いた「紐育空爆之図」。ホログラフィによって微妙な光を放ち、ニューヨークの空を八の字(あるいは無限記号)に飛ぶ零戦は、単に歴史の逆転を意味しているのだろうか。ここに政治的、イデオロギー的な意図は見えない。日本の神話にある古典的風景(例えば、「風神雷神図」のような)を「戦勝国」の空に重ねたように思えた。「神の国」である日本は敗れたのか。飛んでいるのはその亡霊なのか、大国を火の海にしている。これをどう解釈するか、絵の前でしばし佇んだ。「美しい旗」同様、本作も戦争画の範疇なのだろうが、やはりそうとは言い切れない。

 そのほか、「巨大フジ隊員vsキングギドラ」、ジューサーミキサーで粉砕される少女たちを描いた作品「ジューサーミキサー」、手足を切られた少女を描いた作品「犬(雪月花のうち“月”)」、「食用人造少女・美味ちゃん」シリーズ、エログロナンセンスなマンガ、ビン・ラディンに扮した映像作品「日本に潜伏中のビン・ラディンと名乗る男からのビデオ」など、多くの「問題作」が展示されたが、ここではあえてそれら各作品については触れないでおこう。特徴的なのは、粉砕されたり、切り刻まれたりしている少女たちが、一様にアニメやマンガ的イメージで表現されている点だ。彼女らは恍惚とした表情を見せ、あるいは微笑んでいる。見るものに痛みや苦しみ、憎しみなどの感情を与えない。それはすべてを「中和」してしまう存在なのかもしれない。

 芸術界(社会における「芸能界」のようなくくり)における最終目的は「天才」になること、あるいは「天才」と呼ばれることだ。これが明治期あたりから現在まで培われた唯一の支柱である。本展はそれを逆手に取り、つまりいまの芸術界の旧態然とした価値観を逆説的にひっくり返そうとした。そういう意図の副題だったのだと思われる。しかしこの展覧会は好評を博し、膨大な入場者数を記録した。それほどの注目を集めたことによって、逆説(アイロニー)がさらに逆説になり、「会田誠は天才」ということが既成事実化した。エロもグロも美も、清濁併せ呑むタイプの新しい天才、ということになってしまった。予想に反して。もしそれすらも計算内だったとすれば、末恐ろしい美術家が登場したものだと思う。
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SHOHEIの肖像画 SHOHEI Exhibition -Layered- [ART]

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或る日本人の肖像

 原宿のCarhartt Store Tokyoという店で開かれたSHOHEIの原画展を見た。ボールペンで描かれた線画。米国のワークウェアブランドであるCarharttの広告用作品と過去作品をミックスした展示となっている。モチーフは主に人物だ。フルフェイスの防塵マスクとタイベック姿の男(或る日本人の肖像)、凶悪そうな警官(巡査A)、若い男女、黒人、車イスの青年など。作品のサイズはB4〜A3ほどだろうか、ボールペンとマジックを使い、モノクロで描かれている。Webでその制作過程を見ることができるが、彼は軽い下書きをしただけで、このリアルな絵を描き上げる。これには驚く。
 SHOHEIは以前、大友克洋氏の子息ということでネットで紹介され、私はそれでこの作家を知った。そのような紹介のされ方をすると、どうしても希代の漫画家の遺伝子を見いだしがちになる。それはやむを得ないことだろう。たしかにその作品からは、若いころの大友克洋氏と共通する感覚を感じる。しかし見るべきは彼の精神であり、作家としての独自性だ。緻密なボールペン画には、非常に鋭い切れ味をもつなにかが含まれている。「或る日本人の肖像」を見たとき、私はその切れ味に触れた。いまの日本の負の側面を静寂によって表した作品だと思った。静止画となった現在の日本の断面。
 この作家はボールペン画とひとくちにいえない技法を備えている。一見すると、印刷物あるいは版画のようでもある。それは、高度に緻密なハッチングによるものだろう。中世ヨーロッパの版画に匹敵する精密なハッチングで、調子と質感、そして気配を表している。卓越したデッサン力だ。見る者はまずそのテクニックに目を奪われる。
 ドローイング作品においてまず重要なのは「気配」だろう。これを感じさせる作家は少ない。私は彼の絵に新しい気配が息づくのを感じた。現在を切り取る、古い言葉でいえば時代を切り取る、SHOHEIのような作家は日本に久しく不在だった。過去の作品から見ていくと、題材が変化し、過激なモチーフからいまの肖像画に至っている(過激さはかたちを変えていまの作品に脈打つ)。これらの肖像画は現在の「気配」を表している点で出色といっていい。個展はオーストラリアやメキシコでも開かれ、作品はすでに日本を飛び越えた。世界に通じる新しい肖像画だ。

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SHOHEI Exhibition -Layered- at Carhartt Store Tokyo 2012.11.17-11.25

※過去作品や最新情報は、「白痴ランド」(http://www.hakuchi.jp/)に掲載されている。
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本多真理子展「from UNDERGROUND」 [ART]

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 銀座のGALERIE SOLにて、本多真理子展を見る。インスタレーションなので正確には体験する、が正しいだろうか。タイトルは「from UNDERGROUND」。彼女の個展に足を運んだのはこれで4度目だ。近年の主要素材である赤い毛糸を用いた作品。今回もまた、いつものように意表をつく構造だった。とはいえ、決して奇をてらったものではない。時間や重力を内包した、非常に深みのある内容の作品となっている。
 思い起こせば'80年代、銀座の画廊にはこのような作品が数多く展示されていた。勢いのあるコンセプチャルアートが多彩に開花した時代。本多さんの作品はその系譜を引き継ぎ、現在の世界の様相を反映する。
 3D CGのワイヤフレームを彷彿させる直線的な赤い毛糸。鉄パイプを支点に、毛糸の一方には丸い石、もう一方には水の入ったビニールパック。バランスが保たれたそれらが合計12個並ぶ。パックの底には点滴のように針が差してある。石のサイズはまちまちで、その重さに合わせて水の量が決められている。それぞれのパックには水量と思われる数字、そして展示開始から終了までの日付が書かれてある。今日の日付が記されたパックの針先の栓が外され、水滴がぽつぽつと垂れている。床には、ペット用の粗い砂。水滴はその砂に染みこむ。作家は今朝画廊に来て、栓を外したという。展示期間中は毎日、栓を外すのだ。
 水が針先からこぼれてパックが軽くなったとき、糸の一方に吊された石が床に落ちる。そのとき石は、コトンと音をたてるのだろう。この、現象ともいえる作家の所作を読み取ったとき、われわれは果てしのないこの世界に流れる時間と変化を感じる。この時間は、この変化はだれの意思によるものなのか。その問いを受け取って、画廊を後にするのだ。われわれにとっては有限である時間と、自然物としての変化を知る。それが生きることなのかもしれないと思う。

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アートフェア東京 2011 [ART]

 有楽町の東京国際フォーラムで開催されている「アートフェア東京 2011」に行く。すぐ入れるものと思っていたが、入場するまでおよそ30分ほど行列に並ぶ。同展のメインスポンサーはドイツ銀行グループだ。ドイツは芸術家を手厚く援助している国だが、アジアの島国の美術展まで支援するとはどういうことだろうなどと思いながら会場に入る。
 ホールはたくさんの画廊が迷路のように配置されていた。私はアートフェア東京に来たのは初めてだ。特に目当ての作品はないので、気の向くまま適当に歩く。来場者は若い世代が多い。現在の作家だけではなく、小磯良平の婦人像や熊谷守一の猫なども展示されていた。ピカソの版画から浮世絵、コンテンポラリー、陶芸まで、ジャンルは幅広い。日本画では、千住博の屏風絵が厳格な質量感を表していた[1]。次いで、横尾忠則のタッチを確かめる[2]
 基本的には各画廊とも、新進の作家を紹介しており、それらのうちで数万〜二十数万円程度の作品が売れている。最近注目されている超写実作品(主に女性の肖像と裸婦)のブースがいくつかあった。そのうちの女性の肖像画はなぜかずいぶん買い手がついていた。このほか、幼児や少女、アニメ的キャラクターをモチーフにした作品はなんだか食傷気味。感覚的にもはや消費されてしまっている。ただし、以前雑誌で見たことがある、少女をモノクロのグラデーションで描いた興味深い作品があり(作家名失念)、そのはかなさ、死のイメージは印象に残った[3]
 ノルウェーに3カ月滞在した経験を基に制作した福重明子の作品(シルクとドローイング)は、北欧と日本の融合[4]。気候が作家の感覚を鋭敏に変えた。OSAKI Nobuyoshiは、描き上げた人物画の絵の具が溶解するさまをビデオで表現した「solubility world」を出品[5]。そのさまはベーコンを彷彿させる。源生ハルコは鉛筆画とカラーペイント[6]。子供と金魚といったモチーフが面白い。上須元徳のアクリル風景画は、空間の佇まいと階調が眠っていた感覚、あるいは認識を呼び覚ます。hpgrp GALLERY 東京が展示したのは大矢加奈子の「風景2 2010」[7]。カシューという素材の液状感と油彩、アクリルの色調がいい味を出していて、モチーフ(外国のゴミ集積所?)も面白い。
 メインホールよりもロビーギャラリー(開廊5年以内の若手現代アートギャラリーを中心としたセクション)のほうがコンテンポラリーで見るべき作品があった。そのうちの多くの作品は難解さがなく、親近感を醸し出している。中国の作家も出品しており、開放感があった。
 注目の作品をまとめて見ることができる点に本展のようなイベントの価値があるのだろうが、どうしても場の雰囲気が、展示会特有の窮屈さと落ち着きのなさによって煩雑になってしまっている。できればもっと広い会場で見たいと思う。しかしいまの日本の状況ではたぶん経済的に難しいのだろう。あるいは、今年が変則的な開催日程になったせいか。せめて、ジャンル別にブースを分けてもらいたい。とはいえ、関西方面からの参加も多く、日ごろは接することがない作品に出会える利点はある。少なからず刺激を受けた。

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本多真理子展「Red Line Connection#17 〜途方もない間〜」 [ART]

つながりと永続性
 神宮前のギャラリー トキ・アートスペースで開かれている本多真理子さんの個展「Red Line Connection#17 〜途方もない間〜」に行く。街には今日も夏の蒸し暑さが充満していた。風があるのが救いだ。

 彼女が使う素材は太さ2〜3mmほどの赤い毛糸。今回は、画廊の黒い床から数センチ浮き上がるような位置に水平に張られたたくさんの糸と、天井に円錐形に集約された糸とで構成されていた。いつものごとく鮮烈な赤によるワイヤーフレームが強い印象を与える。

 会場で作家に会い、作品に近づくとその上を歩いていいという。彼女の後について、毛糸を踏みながら歩く。毛糸は思ったよりも丈夫だった。円錐の中にも入ってみる。私が今日、この作品に接して感じた点は2つだ。1つは、この赤い糸がなにかのつながりを示しているのではないかということ。

 以前も書いたが、本多さんの毛糸の赤は血液のようでもある。血はそのまま生物の進化とともにあり、記憶をつなぐ。あるいは「血族」というように、種族のつながりの根源ともいえるだろう。赤い毛糸はその両方を体現しているかのようだ。われわれを含め生物は、遠い過去に起きたひとつの始まりから、枝葉のように分岐し長大な時間を経て現在に至る。生物の身体を流れ続ける血はそのつながりをつらぬく証だ。

 張り巡らされた糸の上を歩くと、その柔軟性ゆえか、親近感のようなものを感じる(来場したある女性は寝転がった)。彼女の以前の作品ではヒグマの毛皮が使われ、そのときも作家は毛皮に触れることを勧めた。それは作品にとって重要なことなのだろうといまになって思う。触れることはすなわち、感触によってなにかを伝えるということ。

 もう1つは永続性だ。われわれはこの作品に、無限に続く赤い地平線を見る。縦横無尽に張り巡らされた線には始まりも終わりもない。その無数のラインの中をなにか情報のようなものが永続的に行き交っているイメージがある。ただし、線はでたらめに引かれているのではなく、そこに地形のようなある種の関係性を生じさせている。この持続性と関係性は宮島達男作品にも見ることができる。

 本多さんの本作では唯一、円錐形の頂点だけが関係性の始まりあるいは集約を示しているように思えた。それがどこに通じているのかを想像すること。そのイマジネーションへの誘いが次作への導きを感じさせた。

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本多真理子展 [ART]

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 雪が降る中、ぎゃらりー由芽に行き、本多真理子さんの個展を見る。前回の同ギャラリーでの個展「残暑味わう ~赤い糸でつながって~」からほぼ1年半ぶり。前回は、ワイヤフレームのように使われた赤い毛糸とシカのオブジェ、30kgの重りによる鮮烈な展示だったが、今回も強い印象を受けるモチーフが使われた。
 会場に展示されたのは、ヒグマの毛皮だ(顔と手足が付いているので剥製に近い)。細い鉄筋でつくられた四つ足のフレームに毛皮が被せられた作品「無生物たちの共存する空間」。亡きがらとなってもまだその毛並みは、生きていたときの荒々しさを発している。このヒグマはずいぶん昔にモンゴルで獲られたものだという。どう猛な牙と長い爪に見入る。
 熊の口から尻まで1本の赤い毛糸が通されていた。「動物は1本の管です」と作家は言う。血液のような色の赤い毛糸は何らかの関係性を示している。それは生命の継承か。この空間に立ち現れているのはまぎれもない自然の姿であり、死に絶えたものであっても、どこかでわれわれとつながっていることを強く意識させる。あるいは、いまのような時代だからこそこれまで以上にこの熊が生きていたときを感じるのかもしれない。ただしいまのわれわれは、感覚を澄まさなければこの毛皮でさえも容易にフラット化して捉えてしまうだろう。作家は、「通常は接することがない熊と人間が1つの部屋にいる」と語った。
 すでに生物でなくなった者と生物のつながり。この作品を前にして感じるのは、生命そのものよりも、生きていることのあいまいさのほうだ。生命はいまこの瞬間もとらえがたい現象として存在する。その意味で、物体になってしまった「元」生物のほうが、媒介者としてより生々しい。
 今回は、蝉や蛾などの標本も展示された。柿渋が塗られた木箱に入った蝉の抜け殻と成虫。作家は生命の情報を凝縮した「種」についても語っていたが、これらの標本もまた次の生命への継続を示す何者かなのだろう。本多さんは彫刻科の出身。彫刻家は、生物と鉱物の区別なく、生命のつながりを表現し得る者だと私はつねづね思っている。
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