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'85年の中上健次 [小説家]

 '85年の夏の終わり、私は立川の昭和記念公園で開催された「東京ミーティング」という音楽ライブを友人のK君と二人で見に行った。ライブの発起人は確か、トランペッターの近藤等則だったと記憶している。前年に都心で行われた第1回目の東京ミーティングには、近藤のほか、坂本龍一や高橋悠治、ビル・ラズウエル、ピーター・ブロッツマン、渡辺香津美などが参加した。残念ながら私は第1回は見ていない。

 会場は昭和記念公園のいちばん奥の広場。客席にイスはなく、ただの芝地だった。そこに座って開演前にふと横を見ると、近くに中上健次がいた。だれかと二人でライブを見に来ていたのだ。彼が大病をして入院し、退院したことは知っていた。私はそのとき、持っていた8mmカメラで作家を撮ろうと思い、迷った。病み上がりの作家は顔色が悪かったのだ。それと共にその存在感にある種の怖さも感じ(怒られる可能性もあった)、結局レンズは向けず、ライブのみを撮った。

 中上健次の目当ては韓国のサムルノリ。われわれも同様だった。中上健次はその当時、サムルノリのリーダー、キム・ドクスと懇意にしていた。この四人組の、腰が浮いてしまうような強烈なグルーブに身体の芯までしびれる。作家もその演奏に酔っているようだった。最後のセッションでは、近藤とサムルノリが、舞台から客席に降りてきて、観客と一緒に盛り上がったことを思い出す。中上健次も踊っていたかは記憶にない。もしあのときカメラを回していたら、彼の姿はフィルムにどのように写っただろうか。私が初めて見た小説家。年譜と照らし合わせると、このとき中上健次は39歳。私はあのころ、なぜか「十八歳、海へ」と「千年の愉楽」を持っていた。

 その数年後、'92年ごろだったろうか、私は仕事で新宮に行った。紀伊本線の新宮駅を降り、中上健次の故郷の近くを通りながら、熊野川沿いを取引先が運転するクルマに乗って上流の本宮に進んだ。どの町のどんな宿に泊まったのか、いまとなっては覚えていない。廃校になった小学校を工場にしていた老舗の旗屋にカッティングマシンを納品する仕事だった。あのとき見た熊野川の青緑色と中州の白い美しさはいまでも目に浮かぶ。そして新宮の風景も。

 後年、中上健次自身が撮った新宮の路地の8mm映像をK君がDVDに焼いて送ってくれた。そこには作家が見た風景が記録映画のように収められている。路地は私の父の故郷だった小さな港町に似ているようにも思えた。新宮駅までの紀伊本線の沿線には小さな港が点在しており、その景色には、中上が愛した都はるみが歌う演歌が似合う。今年は没後20年。希代の小説家の著作をあらためて読んでいる。
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