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「ボヘミアン・ラプソディ」ーフレディ・マーキュリー葬送ー [音楽]

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 ミュージシャンや画家の人生を描いた映画で、感心した作品には出会ったことがない。たいていはがっかりするか、腹立たしい気持ちで映画館を後にする。英国のロックバンドQueenを取り上げた「ボヘミアン・ラプソディ」を立川のシネマシティで観た。前述した理由で、当初は見るつもりはなかったが、同世代の友人・知人たちが皆「涙が出た」「もう一度観たい」とSNSに投稿しているので、重い腰を上げて足を運んだ。

 予告動画は観ていたため、フレディ・マーキュリー役がどの程度本人に近づいているかは見当がついた。どだい、あの稀代のパフォーマーを演じきれる俳優など世界中探してもいるわけはない。シネマシティ得意の「極音」によるライブシーンの再現だけでも観られればいい、くらいの気持ちで映画館に入る。ところが、座席について映画が始まると、ライブを再現した場面の一曲目ですでに目頭が熱くなってきた。これはどうしたことだろうと感じながら、友人たちの言葉につられただけだと思い込んだ。

 前半は、フレディ・マーキュリーがロジャー・テイラーとブライアン・メイのバンドに加入し、トントン拍子で人気グループになるまでを描いている。後半は、フレディの元を去る恋人や、メンバーとの亀裂、取り巻きの罠、エイズの発症などの重苦しい現実が画面を覆っていく。このあたりはこのスーパースターに関して世間に広まった話をなぞっている。しかし、後半でヒット曲が演奏されるたびに、胸に迫るものがあった。メンバーと和解し、エイズの先に待つ死の足音を乗り越えて出演したライブエイドの演奏シーンでも涙してしまった。それは単に懐かしさから来るものだけではない。

 私が初めてのQueenを聴いたのは、中学2年のころだったろうか。当初はなんだか少女漫画に登場するような髪型と格好が気恥ずかしく、敬遠していた。しかし、曲がよくてギタリストがすごいという同級生の女の子の話を聞き、当時のイチオシだったKISSと平行して聴くようになる。とはいえ、中学生の私の耳には「華麗なるレース」などは少々高尚すぎた。その音楽性の高さを本当に実感したのは高校に入ってからだった。フレディ・マーキュリーの歌と作曲能力のすごさ、ロジャー・テイラーとジョン・ディーコンのリズム隊の高いコンビネーション、ブライアン・メイのクールで琴線に触れるメロディーラインと幅広い表現力、実験的なサウンド、そして完璧なコーラス、ハーモニー。十代のころに聴いた音楽はかけがえのないものだ。アルバムとしては「世界に捧ぐ」「JAZZ」「The Game」をよく聴いた。最近聴いているのは「オペラ座の夜」と「華麗なるレース」の2枚。映画を観終え、Queenそしてフレディ・マーキュリーは、思っていたよりも深く、私に影響を与えていたことを知る。

「ボヘミアン・ラプソディ」はQueenとその楽曲を賛美するためにつくられた映画だ。Queenというバンドの文字どおり「絆」をテンポよく音楽に絡ませて描いている。4人の絆を通して映し出されるある種の純粋さの映し方がうまい。このバンドの音楽を再認識させるのに十分な作品といえるだろう。ネタバレになってしまうが、本作のストーリー展開は時系列などを変え、かなり脚色している。フレディがエイズ感染を医師に告知されるのは実際はライブエイドの後だし、メンバーが彼のエイズを知ったのもライブエイドの前ではない。また、フレディがかなり俗物的に描かれ、彼とメンバーがあれほど険悪な関係になったとは思えない。それはブライアン・メイの後年のインタビューを読んでも明らかだ。

 それでも、自分がこの映画で涙したのはどういうことなのか、と考えた。それはたぶん、私がフレディ・マーキュリーの死を本作であらためて受け入れたということなのだろう。彼がエイズで亡くなったという知らせは、遠い国から伝わってきてはいた。1991年のことだ。しかし、自分の中ではその事実をぼんやりと心の中に置いていただけだったのだ。私にとって「ボヘミアン・ラプソディ」を観るのは、フレディ・マーキュリーのバンド人生をたどるのではなく、スクリーンと対面しながら、彼を葬送することを意味していた。これもすべて、彼の類まれな歌声と才能、人格、Queenというバンドが奏でる音楽の美しさゆえなのだと思う。個人的には映画の形を借りた遅れた音楽葬になったが、フレディ・マーキュリーという人間の本質をあらためて認識するきっかけになった。ここから私の新しいQueenが始まる気がする。
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