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会社 [仕事]

 いま勤めている会社には33歳のとき、1996年に入社した。入社といっても契約社員としてだ。二度目の転職。勤務初日に人事部の女性から、「身体を壊さないようにしてくださいね」としみじみ言われ、その意味は間もなく知ることになる。毎月末になると徹夜続きの激務だった。
 入社してすぐに、会社の取締役4人がいっせいに退社し、いずれも同業のI社に移籍した。もう名前は忘れてしまったが、そのうちの2人には面接で会っていた。その2人に、「がんばってください」と、なんだか半分気持ちの入っていない言葉で言われた記憶がある。当然そのときには社を去る心づもりでいたのだろう。
 いま思えば、重役4人が去ったときから(実際には4人以上)、この会社はゆっくりと坂を下り始めていたのだ。96年当時はまだ雑誌にも潤沢な広告収入があり、景気がいいように見えた。しかしその後もI社への人材流出は続いており、編集部の部員たちが、今度はだれそれが移ったなどと立ち話をしていた。
 社長がワンマンで部下の意見を聞かなかったのが役員らが去ってしまった原因だ、とどこかで耳にした。要するに分裂したのだ。国内ベンチャーの先駆けだった会社だが、経営上手ではなかったらしい。ベンチャーらしくパソコンのソフトやハードそのほかの開発・販売、インターネット接続サービスも手がけていた。あとで知ったことだが、映画製作や飛行場だったかの建設などいろいろな事業にも手を広げており、社長はその先導役でいわゆる拡大路線だった。
 時代の流れに乗って大きく進んだものの、足元の地盤を固めることをしない会社だったのだろう。自社ビルでも持っていれば、その後まだ挽回のチャンスはあったのかもしれない。私は記憶力がないので、年代を記することはできないが、たしか1999年ごろから事業の傾きが表面化し始めた。たくさんいたアルバイトを減らし、受付嬢が消え、編集者が営業と一緒に広告とりに奔走することになる。私は2000年に正社員に登用された。
 ある日、創業者である社長がついに追い出され、銀行からだったか、よそから社長がやって来た。社員たちはいくたびか地下の大会議室に集められ、新社長から厳しい現状の説明を受けた。大会議室で社員らは静まりかえった。創業者がいなくなってもなお、ことの重大さに気がついていない節があった。
 その昔有名なコピーライターが来社して、会社の印象を「学園祭の延長のようだね」と語ったという。もちろん、その「若さ」が原動力だったわけだが、それゆえに、重役が抜けたあとを補う手堅い役員が育たなかったのも事実だろう。皆、徹夜はいくらでもできたが、社の方向性を定める視点を持った人物が現れなかった。販売部数は降下し、雑誌の広告収入も激減していく。
 その後、ある会社の援助を受けられることになり、数年をしのぐ。それでも莫大な借金をかかえ、どういう経緯か米国系の投資会社に買われる。投資会社はまずは借金を返すために大リストラを敢行し経費削減を行い、事業の集中化を図った。たしか希望退職者も募った。その結果借金が消えた。消えた時点で売り飛ばされ、とある大手出版社の傘下に入ることになる。借金が消えた代わりにすでに貴重な人材が流出し、そのときすでに会社の基礎体力は相当落ちてしまっていた。自分たちが耕した畑のことを忘れ、ほかの出版社たちがそこに種をまき、収穫を上げていた。2010年、同じ傘下の会社と合併するが、事実上の吸収合併となる。相手は不況にもかかわらず好成績を上げている会社だった。
 これまでに社長は数度変わり、そのたびに吸収された側の社員は組織変更や新たな方針を提示され、どうにかこうにか食いつないで、いまに至っている。社長や部長、担当営業が変わるたびに、昨日まで白だったものが黒になる。それに反論する活力はもはやない。同僚が毎月一人二人と辞めていった。衰退した会社の生き残りへの目は冷たく、薄氷の上に素足で正座させられているような状態が続く。といっても、それももう長くは続かず、残された時間はせいぜいあと1年だろう。これで挽回できなければ、黒字を出している数少ない部署を残して、往年のベンチャー企業の残り火は消えていくことになる。

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東大病院 [仕事]

 東京大学医学部付属病院の外来受付で取材。病院の担当者との待ち合わせ時刻まで少々時間があったので、東大の構内を散策する。桜は三分咲き程度。その下にシートを敷き、向かい合って行儀よく鍋をつついている学生たちがいた。漱石のことなどを思いながら歩く。剣道場から威勢のいい声が聞こえる。敷地の中ほどは舗装されておらず、土と木々が残されていた。石造りの古そうな階段もある。弓道場から北側に下った方向に、木立に囲まれた三四郎池が見えた。そこまで下りてみたかったが、残念ながら時間ぎれ。趣のある外装の校舎を2、3枚撮影する。

 300席ほどの椅子がある外来の待合室では、縦笛のコンサートが開かれていた。担当者に会い、撮影して話を聞く。東大病院の外来には、1日平均4000人ほどの患者が来るという。多いときは5000人に達するらしい。この膨大な来院者に対応するため、待合に関していろいろと配慮している。大型ディスプレイを使って、待ち時間や薬の受け渡し番号などを表示し、再診の患者には呼び出し用ポケットベルの貸し出しも行っているとのこと。大病院につきものの、診察や支払いの待ち時間のストレスをなるべく軽減できるように環境を整えていた。院内にはドトールなどのコーヒーショップやローソンがあり、外部にもデッキスペースにテーブルと椅子が置かれ、テラスを提供。昔の大病院のイメージとは異なり、だいぶしゃれた雰囲気だ。無線LANも使え、充実した環境といえるだろう。とはいえ、初診の場合はだいぶ待たされることを覚悟しなければならないのは確かだ。将来は、携帯端末などを使った受付案内も行いたいという。

 外来診療棟前の道路から東の方角に建設中の東京スカイツリーが見える、と担当者が案内してくれた。夕暮れの空の彼方に、半分だけ出来たタワーの姿。完成した際には、東大の敷地からよく見えるようになるだろう。

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渋谷駅頭 [仕事]

 渋谷駅頭で写真撮影の仕事。カメラマンと交番前で待ち合わせをし、日没後のスクランブル交差点周辺に並ぶ大型ビジョンを撮る。特にQ-FRONTビル前面のガラスに表示される画面は巨大だ。大小4面ある大型ビジョンが放映するのは、商品CMや天気予報、占い、MV、売れている本のランキングなどさまざま。通常のディスプレイと異なり、音声も流す。ときどきシンクロして2または3面が同じ映像を表示した。それを立ち止まって見入る若者。
 大勢が何用で集まるのか、駅から出て街中へ向かう人と、街から駅に向かう人の波。もちろん夕方の渋谷だ。仕事や買い物ではない。ほとんどが飲み食いだろう。落ち合っては、次々に交差点の向こうへ消えてゆく。'80年代バブル期の東京各地の街ではこのような夕方の光景が日々続いていたことを思い出す。
 外国人が同じように交差点周辺をデジカメで撮影していた。聞くところによると最近、渋谷駅頭のスクランブル交差点は外国人観光客の撮影スポットになっているという。たくさんの電飾看板やネオンサインと大型ビジョン、行き交う群衆。これだけ見れば、さながらタイムズ・スクエアだ。
 しばらくその場にいて気がついたが、交差点の近くに1本の街路樹が立っている。何の木かは不明。人通りのだいぶ多いところで、撤去されずによく残っているものだ。4面の大型ビジョンのうち、1面がこの木の陰になってすべてを見渡すことができない。そのアンバランスさが日本らしい。とにかく雑多な場所だ。待ち合わせの定番ハチ公の付近には、さまざまな世代の男女がだれかを待っている。外国人も多い。その近くにはなにやら怪しげな喫煙所。煙を吐き出す男たち。
 渋谷といえば、スクランブル交差点が代名詞になった。この街に来たたいていの人は、この交差点の洗礼を受ける。有無を言わせず雑多な対面通行に呑み込まれるのだ。それにしても、あれだけたくさんの人間が流れているのに、ずいぶんと冷めた空気が漂っている。それは冬の気温のせいだけではないだろう。「これでどう?」とカメラマンがデジカメの液晶画面を見せる。くっきりとした大型画面と揺れ動く人々の影。OKを出して撤収した。
タグ:駅頭 渋谷
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サーバー [仕事]

 高校生の就職内定率がさらに下がったというニュースが届く。働く場が失われている現在、職探しは相当難しい。自分でも、いま失業したら、この年齢で再び会社に入るのは無理だろうと考える。私の会社も、自分で仕事を作り利益を出せなければ、それは退職に通じる。現に、仕事が軌道に乗らず、3カ月に一人くらいの割合で同僚が去っていく。
 先日の新聞には、インターネットへの広告出稿費が新聞のそれを抜いたという記事が掲載された。インターネットで商品を知るだけでなく、そこで買い物をする人はこれからも増えていくだろう。その半面、リアル店舗に足を運ぶ人は減っていく。すなわち、店で働く人の数も減る。
 音楽CD、本、雑貨、電化製品、食料品、さらには先日紹介したとおり椅子の修理まで。たいがいのものはインターネットで注文できてしまう。では、そのインターネットショップでそれなりの人々が働いているのかといえば、そうとも言えないだろう。われわれの注文を受け付けているのは人ではなく、「サーバー」である。いうなれば、少々性能が高いパソコンのようなものだ。それ(具体的にはプログラム)が24時間稼働して、日本中からの注文に日々対応している。サーバーが1台あれば、人間数人ぶんの働きをしてしまう。もちろん、実際の配送や仕入れは人間がやるにしても。われわれが対面する注文画面は、そのままサーバーに直結している。大手のWeb店舗は数十台から数百台規模のサーバーを用意、あるいは借りている。単純に考えて、これでは人の入る余地はない。
 その昔、仕事で日産村山工場によく行っていた。あるとき、自動車の生産ラインの一部を見せてもらったことがあったが、そこはほとんど無人の世界だった。巨大な工場内の火花散るコンベヤ上で動いているのはロボットアーム。それらが粛々とクルマを作っていた。人の手を要する製造工程もあるのだろうが、少々不気味な感じがしたものだ。
 世の中全体が人手をかけない方向に動いているのだから、就職難になるのも当然だ。つまるところ、人が働く場としての新しい仕事をつくりださなければならない。ただしそれは、皆営業になって外へ出るとか、インターネットショップを開くとか、そんなことではないだろう。サーバーを駆使して膨大な利益を上げている会社を考えるとき、そこにはやはり、ある種の偏りを感じる。1社独占の状況がかいま見える。巷でよくいわれる、1ジャンルで生き残れるのはせいぜい2、3社という事実。この単純な状況を変えて多様性を生み出さなければ、働き口の問題は簡単には解決しないと思うのだ。
タグ:サーバー
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ドアロック [仕事]

 15年ほど前の年末の夜、竹芝埠頭に建設が進む高層ホテルの工事現場にいた。当時は内装の現場監督の仕事をしていて、そのホテルは1500平米を越す天井や建具などに塩ビフィルムを貼る現場だった。通常、内装の作業はある程度建物内部が出来上がった段階から始めるのだが、その現場は工程がかなり遅れ、しかも躯体がらみの収まりが多かったため、真冬の海風が吹く中、ジェットヒーターを焚きながらの工事となっていた。職人の一人に「この現場がこなせたら、ほかの現場は怖くない」と言われるほどきつい仕事だったことを覚えている。
 元請けにも毎日相当しぼられて(遅れのしわ寄せはすべて下請けにいく)、寄せ集めの職人連中を動かしながらなんとかヤマを越えた時期の晩。すでに10時を回っていただろうか、年末のせいもあって職人は皆帰り、現場にはだれもいなかった。寒空の下、道具を片付けて工事車両用駐車場に停めたワゴン車に積み込む。そのとき、うっかりミスをした。キーを差したままドアをロックして閉めてしまったのだ。財布を含む持ち物はすべてクルマの中。もちろんスペアキーなど持っていない。ポケットに10円玉が少々。どうすることもできないような状況だったが、気を持ち直し、なにか手はあると漠然と思いながら、まずは付近のガソリンスタンドを探した。キー閉じ込みはガソリンスタンドに頼めばいい、と聞いた記憶があったからだ。
 ようやく見つけたガソリンスタンドの店員に事情を話して助けを求めたがあっさり断られる。薄汚れた作業着の男が信用できなかったのか。JAFを呼ぶにも、所持金は大してない。次に、なんとか番号を探し、現場近くの電話ボックスから会社の上司Mさんの自宅に電話をかけた。いつも冷静なMさんは同じような経験があると話し、外部からロックを外す方法を教えてくれた。ただし、すべてのクルマに適用できるわけではないという。
 Mさんから授かった方策を頭に入れて現場に戻り、金尺を1本とってきた。窓のすき間から金尺を差し込み、何度も試す。いくらやってもひっかかりがなく諦めかけたとき、コトンと手応えを感じ、ロックボタンが上がった。夜空に向かって万歳をしたい気分だった。痛めつけられた現場だったが、ツキは残っていたらしい。そういう経験は、若いころ特有の根拠のない自信の糧になるものだ。

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