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イーヴォ・ポゴレリッチのピアノリサイタル 2016 [音楽]

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 イーヴォ・ポゴレリッチのピアノリサイタルを水戸芸術館にて聴く。彼の演奏会に足を運んだのは三鷹の芸術文化センター以来21年ぶりになる。三鷹では、体調不良のせいもあって曲目が変更になった。独特の力強さはあったものの、薄暗い舞台上での揺らめくような姿を記憶している。その人はいま、まったく別のピアニストに進化していた。ピアノのポテンシャルを最大限に引き出すような演奏だった。低域の強さと重さ、深さと高み、奥行きと広さ、独自の解釈による楽曲の再構築と時間感覚(テンポ)、意外性のある間、いずれも特別なものだ。

 開場してホールに入ると、ステージ上にはすでにポゴレリッチその人がいた。フリースのようなゆるい服とシャツを重ね着してニットキャップをかぶり、なにかのフレーズを確かめるようにゆっくりとピアノを弾いている。足元には紙コップ。ときどき、客席に目をやる。来場者にはそれがポゴレリッチ本人であることに気付かない人が少なからずいた。開演15分前くらいになっておもむろに立ち上がり、袖に下がった。

 開演は4時。水戸芸術館は収容数680人ほどの中規模のホールだ。客席は三方に分かれ、ステージ奥の上方にも座席がある。木の温かみを生かした設計は演奏者との距離が比較的近く、親近感がもてる。通常のホールにくらべて天井が低い。満席の会場にピアニストは燕尾服でゆっくりと現れた。前半はショパン「バラード第2番ヘ長調」と「スケルツォ第3番嬰ハ短調」、シューマン「ウィーンの謝肉祭の道化」。後半はモーツアルト「幻想曲ハ短調」、ラフマニノフ「ピアノ・ソナタ第2番変ロ長調」。

 驚くべき低域だ。倍音が多重に放たれ、デチューンしているようにさえ聴こえる。それでいて濁りがない。尋常ならざるフォルテッシモからピアニッシモまでが実に明瞭に聴こえる。低域の重みと厚み、これと中高域の輝くような美しい響きが両立する稀有な演奏。「バラード第2番」では、ゆったりと穏やかな第一主題と厳しく激しい第二主題の対比に惹き込まれる。「スケルツォ第3番嬰ハ短調」は強さと大きさ、「幻想曲ハ短調」では息を呑むような一音があった。続く「ピアノ・ソナタ第2番」からは大きな波のような情感を感じた。

 2005年以降の来日時、ポゴレリッチを聴く機会は何度かあったが、私は足を運ばなかった。10分の曲を30分かけて弾く「ポゴレリッチ時間」、原曲をとどめない解釈、緊張を強いられる演奏空間。それを知って怖気づいた。だが、彼のファンは辛抱強くその時期の演奏を聴き続けた。そして現在「ポゴレリッチ時間」と独自の解釈、奏法は一つの結実に至っている。いくつかの不運に遭いながら、10年以上に及ぶ特異な試行を重ねてきた彼の精神力、持続力はどこから来るのか。その巨大なポテンシャルの萌芽に気づいたからこそ、アルゲリッチは彼を支持したのだろう。「解釈」については、ピアノ曲の要素を徹底的に分解し、彼の感覚を基に変換、再構築した仕事だと私は考える。楽譜があっても音楽は写実ではない。いわば抽象表現だ。ピアニストの領分。

 本公演の一週間前に開かれたサントリーホールでの演奏時間は前後半とも50分ほどだったと聞いていたが、水戸ではそれよりもじゃっかん短かったのではないだろうか。私の記憶では前半で45分、後半で48分ほどだ。それは、ホールの響きと関係があるのかもしれない。水戸は天井に円形のパネルが付けられ、3本の大きな柱のほか、後席側の壁は大きく2カ所張り出している。残響時間はサントリーホールよりも短い1.6秒(満席時)。私が聴いたかぎりでは、音の濁りや滞留はなかった。プロの演奏家であれば、ホールの響きに合わせてプレイは精密に変化する。もっとも、数年前に比べ、標準的な演奏時間に近づく傾向にあるらしい。

 アンコールはシベリウスの「悲しきワルツ」。聴衆はそれぞれ、胸に感じるところがあっただろう。ゆっくりと静かに始まるこの曲は、激しい感情の高潮を迎え、消えいるように終わる。私はそこに夢や情景、去来する過去の記憶を見た。深い悲しみの中に光る高みを表した演奏だった。ピアニストが足で椅子をピアノの下に押しやって演奏会は幕を閉じた。

 申し分ないテクニックと精神性。このピアニストが持つ資質が、前述した大きく力強い響きと美しく明瞭な旋律に支えられ、高みに達した。私は、独自の解釈によって構築したモーツァルト「幻想曲ハ短調」とそれに続く「ピアノソナタ第二番」に強く感情を動かされた。あの演奏空間に立ち現れたもの。それこそが彼の音楽のすべてだ。ポゴレリッチは音楽のとらえ方を変える力を持つ。ピアノ演奏あるいはクラシック音楽に対する私の認識は変化した。
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上原ひろみ ザ・トリオ・プロジェクト「SPARK」 [音楽]

 東京国際フォーラムのホールAにて上原ひろみザ・トリオ・プロジェクトのライブ「SPARK」を聴く。この公演は五大陸にわたる世界ツアーの一環であり、日本国内では各地で計23回行なわれる。そのうち、東京国際フォーラムは3日間。私が行った日は満席だった。三十代くらいの客が多かった気がする。

 上原ひろみの演奏はこれまで、テレビやラジオでときどき聴いており、そのアグレッシブで超絶技巧的なプレイは実を言うとあまり好みではなかった。そのため、「速弾き技巧派」「ラテン系?」「チック・コリアや矢野顕子と共演」程度の認識だった。私はジャズという音楽においては、響き重視で間のある演奏のほうが好きなのだ。

 いちどは聴いておこう、どうせならアンソニー・ジャクソン(Bass)とサイモン・フィリップス(Drums)でのトリオがいいーー。そのくらいの気持ちでチケットを購入して会場に足を運んだ(ただしアンソニー・ジャクソンは健康上の都合で今回は不参加。代役はアドリアン・フェロー)。

 公演は新譜のタイトルであり、本ツアーのテーマ曲ともいえる「SPARK」で始まる。予想どおり、いきなり飛ばす。非常に速いテンポとフレーズ、ダイナミックな展開。それは、たしかにホールAを満席にするのが頷ける演奏だった。曲目が進むにつれ、その感は強くなる。まず、ピアノの音とフレーズが立っている。テクニックは申し分ない。短いフレーズのシーケンスやトレモロが聴衆の意識をぐいぐいと引っ張るのが分かる(上原ひろみの音楽において、繰り返しは非常に重要)。サウンドは明快で、驚きや発見で世界を切り開いていくような高揚感があり、ときに、ジャズというジャンルの存在を忘れさせた。これまで抱いていたイメージとは異なり、高域を弾き鳴らさず、抑制された重心がある。曲の構成や構造自体はフュージョンに近い気もするが、要するに表現として分かりやすい。相当高度なことをしているにもかかわらず、分かりやすく聴こえるのは大切なことだ。そして、3人のインタープレイは新しいひらめきに満ちていた。

 聴衆の感情に変化を与えることができる稀有なジャズミュージシャンの一人だ。現在の多くのジャズミュージシャンやバンドは既成のパターンを並べてジャズ的な演奏してみせるが、多くの聴衆の感情に変化を起こすまでに至らない。5000人の来場者の感情を動かすトリオ演奏というのはそうそうできるものではない。一方で、ジャズの「方言」はあまり含んでいない。それが新しさを感じるともいえるが、この点は好みが分かれるところだろう。

 左右に設置されたスクリーンにアップで映し出される上原ひろみの顔は喜びに満ちていた。彼女の輝く目や表情が、驚きや発見を生み出す演奏を成し遂げていることを物語る。「弾くのが楽しくて仕方ない」という姿勢は以前と変わらず、さらに、聴く人を引き込む力が備わったように思う。それは「Wake Up And Dream」のような静かなソロピアノ曲にも現れている。聴衆は感情の変化を求めて会場を訪れ、上原ひろみのパフォーマンスは終始それに応えた。加えて、サイモン・フィリップスとアドリアン・フェローによる連係は非常に完成度が高く、インタープレイの次元を高く押し上げている。

 幅広い表現力と大きなスケール、パワーを持ったジャズピアニストだ。速弾きラテン系どころではなかった。これは彼女の強靭な腕力と身体性によるところが大きい。なによりも強いのは、彼女はピアノを弾くのがとにかく好きであるということ。それが全身に、演奏に現れている。これほどの身体性をともなったジャズピアニストは私の知るかぎりミシェル・ペトルチアーニ以来ではないだろうか。五大陸ツアーが組まれる事実がそれを証明する。圧倒的な体験だった。

 このライブを見た後、CD「SPARK」を買ってあらためて近作を聴いた。残念ながらCDには、会場で感じた、世界を切り開くような高揚感はあまり含まれていない。感情の変化という体験は同じ場所、同じ空間を共有することで生じるらしい。いま、音楽界においてライブに人気があるのはそれが理由だろう。上原ひろみが目の前でプレイすること。彼女が彼女の身体性を駆使して生み出す偶発性は記録媒体に収めることはできない。ステージでしか生まれないなにかがある。未知の音楽はたしかにそこに存在していた。

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