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故入野義朗 生誕95周年記念コンサート [音楽]

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入野義朗

 東京オペラシティリサイタルホールで「故入野義朗 生誕95周年記念コンサート」を聴く。入野義朗(いりのよしろう・1921-1980)は日本における十二音技法の第一人者。日本で最初の十二音技法による作品「七つの楽器のための室内協奏曲」を1951年に発表している。また、桐朋学園音楽科の設立に参加したメンバーの一人であり、その運営と教育に当たったという。

 本公演はすべての曲(下記の演目)、演奏ともクオリティが高かった。実行委員による選曲と人選がよかったのだと思う。実行委員には入野禮子夫人も参画している。楽曲は現代音楽特有の無調性や不協和音、難解さが前面に出てこず、いままで私が持っていた十二音技法音楽の印象を変える内容だった。

 全体的に若手の演奏者が多かった。それゆえ、演奏に新鮮さがあり、「ピアノのための変奏曲」などの戦前に書かれた曲であっても、瑞々しい感覚と解釈、今のテクニックで現代に蘇らせていた。

 ピアノ独奏、管弦五重奏、ヴァイオリンとピアノ、合唱、フルート独奏、そして最後の伝統楽器による「四大(しだい)」、いずれも聴き応えがあり、また近年の現代音楽にはない温かみを感じた。「管楽五重奏のためのパルティータ」は、異なる性格を持つ5つの楽器でバランスよく構成し、上質な合奏曲に仕上がっていた。各楽章の終わりの余韻が美しい。「ヴァイオリンとピアノのための音楽」は第2楽章の「枯れた」趣きが印象深い。「独奏フルートのための3つのインプロヴィゼーション」は、天と地をつなぐようにフルートを鳴らす。それはさながら尺八のようだった。「四大」は二十絃箏、十七弦箏、尺八、三絃の4つの伝統楽器による晩年の曲。尺八という楽器の音は縦の役割を果たし、これに対して箏のシーケンスは横、三線はそれらをつなぐ斜めの役を果たしていたように感じた。ときに尺八奏者が拍子木を響かせ、要所を引き締める。無調による緊張感のある音楽は音の濁りがない。4人のアンサンブルが絶妙だった。

 十二音技法をベースに置きながら、そのうえに静謐な独自の音楽世界を構成し表現している。厳しさと戦後の時代的安定性(多様性を取り戻す力)が共存する構造は味わいがあり、もういちど聴いてみたいと思わせた。

 記念コンサートだが、司会などの挨拶、MCはいっさいなく、終始演奏に徹していた点は潔い。平日に開かれた現代音楽のコンサートにもかかわらずほぼ満席。来場者層はさまざまな世代に渡っていた。今後、入野義朗氏再評価の機運がさらに高まることを祈る。

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日時:2016年11月14日
会場:東京オペラシティリサイタルホール

プログラム:すべて入野義朗作品

■ピアノのための変奏曲 (1943)
Variations for piano solo
田中一結(pf)

■管楽五重奏のためのパルティータ (1962)
Partita for wind quintet
鷹羽弘晃 指揮、下村祐輔(fl)、鈴木かなで(ob)、前山佑太(cl)、河野陽子(hn)、木村卓巳(bn)

■ヴァイオリンとピアノのための音楽 (1957)
Music for violin and piano
中澤沙央里(vn)、佐々木絵理(pf)

■凍る庭 (1961)
Frozen Garden for mixed chorus and piano
西川竜太 指揮、ヴォクスマーナ、篠田昌伸(pf)

■独奏フルートのための3つのインプロヴィゼーション (1972)
Three Improvisations for flute solo
多久潤一朗(fl)

■四大 (1979)
SHI-DAI (The four elements: earth, water, fire and wind) for shakuhachi/shinobue, 20-stringed koto, 17-stringed koto and san-gen
藤原道山(尺八)、黒澤有美(二十絃箏)、本條秀慈郎(三絃)、平田紀子(十七絃箏)

*本公演の録音を収録したCDが後日発売される予定

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高橋悠治の耳 Vol.9~HIKA・悲歌~ [音楽]

 高橋悠治のピアノコンサート「高橋悠治の耳 Vol.9~HIKA・悲歌~」を聴く。ゲストはギタリストの笹久保伸。会場は三軒茶屋のサロン・テッセラ。<2016年11月6日>

 今回はピアニストに近い席で聴いた。間近で聴くピアノは、音の拡散や指向性が、低音や高音、弾き方などによってさまざまだ。いうなれば散漫で不定形。耳は意識に応じてそれらの音を捕まえ、脳に届ける。リアルタイムでマルチ。その点でCDの音楽というのは、ならして整理・統合されている。スピーカーから出る音はリニアだ。

 レオ・ブローウェルの「10のスケッチ ピアノ曲」は聴きどころの多い、いうなれば多彩な面を持った曲集だった。調性のあるところないところ、情緒的なフレーズ、即興部など、いろいろ興味深い内容。もういちど聴いてみたいが、CDなどは発売されていないもよう。

 高橋悠治の音は、たんたんとした演奏ながらも純度が高い。音楽の核のようなものを的確にとらえている。この人はたぶん若い頃からこのような音を響かせていのではないかと思える。これは音楽に対する姿勢、あるいはそれ以外の思想などから来ている。その姿勢が老練になり、さらに音楽の存在を高めている。

 ギターの笹久保伸は適度な密度をもった演奏を披露した。うち3曲ではギターを弾きながら詩や俳句を読んだ。現代音楽とアンデス音楽を演奏するギタリストとのこと。世界各地の空気を吸収したような響きがあった。ある種の音楽家特有の器用さを備えた人だ。

 高橋悠治は最後に武満徹作曲の「ピアノ・ディスタンス」を弾いた。今年は没後20年。曲目リストには記載されていなかったので、アンコール曲になるだろうか。短い曲だが、高橋悠治が武満音楽をどう解釈したかがわかった気がした。武満徹が江ノ電車内で学生の高橋悠治を見かけたときのエピソードを思い出した。

 小規模なホールは落ち着いた雰囲気でくつろげる。休憩時間に別室でお茶がふるまわれた。いいコンサートだった。

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曲目は以下のとおり。

1. Leo Brouwer「Diez Bocetos」(1961-2007)
レオ・ブローウェル「10のスケッチ ピアノ曲」(キューバの画家10人の肖像)

2. Leo Brouwer「HIKA in memoriam Toru Takemitsu」(1996)

 ピアノ:高橋悠治

3. 高橋悠治「Guitarra」 ギター(詩:セサル・バジェホ)(2013)
4. 高橋悠治「Trans Puerta」 (詩:笹久保伸)(2016)
5. 高橋悠治「柳蛙五句(りゅうあごく)」(俳句:井上伝蔵)(2014)
6. 高橋悠治「653 en cursiva」(向山一崩し書き)(gtr.pno.)(初演)

7. 武満徹「ピアノ・ディスタンス」

 3, 4, 5 ギター弾き語り:笹久保伸
 6 ピアノ:高橋悠治、ギター:笹久保伸
 7 ピアノ:高橋悠治

高橋悠治_サロンテッセラ1.jpg

没後20年 武満徹オーケストラ・コンサート [音楽]

 武満徹が亡くなって20年が過ぎた。今年は各所で節目のコンサートがいくつか企画された。東京オペラシティコンサートホールでの「没後20年 武満徹オーケストラ・コンサート」はその一つ。同ホールの名称は「東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル」。追悼公演の企画としては大きなものといっていいだろう。公演日は10月13日。

 私は以前に、三鷹市芸術文化センターにて沼尻竜典指揮東京モーツァルトプレイヤーズによる武満作品演奏会(『武満、モーツァルトの「レクイエム」』を聴く)に足を運んだ。いつものごとくそのときの音の記憶はすでに残っていないが、今回はホールとオーケストラが違うせいか、あらたな体験をした心持ちだった。

 指揮は武満作品を多く手がけ、友人でもあったというオリヴァー・ナッセン。曲目は以下のとおり(演奏順)。

地平線のドーリア(1966・約11分)
環礁ーーソプラノとオーケストラのための(1962・約17分)
テクスチュアズーーピアノとオーケストラのための(1964・約8分)
グリーン(1967・約6分)
夢の引用ーSay sea, take me!ー ーー2台のピアノとオーケストラのための(1991・約17分)

 本公演を聴いてまずはじめに感じたのは、武満徹が作曲したオーケストラ音楽の繊細さだ。単に音量の小ささや音の弱さではなく、楽器の鳴らし方自体が特別であり、音楽の成り立ちがほかの作曲家と異なる。「強さ」やボリュームを目指すのではなく、草木や土、風、空などのうつろう自然現象による不確定さと厳しさ、鋭さを備えた音楽とでもいえばいいだろうか。それから、この繊細さを包み込む静寂、静謐なる空間(間)の存在を強く感じさせる。特にその傾向が強かったのは「地平線のドーリア」だ。プレイヤーが発した音が「演奏」としてやってくるのではなく、こちらからその「場」へと向かう必要がある。そして、ここはいったいどこなのか、なにが起きているのか。ほの暗い林の中でつむがれた音を追う。ひとつだけ言えるのは、自分がいるのは日本のような場所だということ。それが過去か未来はわからない。

 「環礁」で女性歌手が歌いだす。最初は気づかなかったが、よく聴くと日本語だった。大岡 信の詩。ソプラノはクレア・ブース。神話的な静寂の場に立ち現れるものはなにか。「テクスチュアズ」は張りつめた緊張感をダイナミックに構成した秀作。ピアノは高橋悠治(ピーター・ゼルキン体調不良のため変更)。「グリーン」は比較的調性感があった。青空と雲のある風景を想起させるような美しさがときおりやってくる。さまざまな映像を想起させ、その連鎖は聴くものをどこへ導くのか。「夢の引用」のピアノは高橋悠治とジュリア・スー。ここではピアノの響きが美しい。ときに、ドビュッシーの「海」や武満自身の作品が引用として現れる。武満徹という作曲家のスケールの大きさを感じる一曲。

 2階の側面の座席から俯瞰で聴いたせいか、音がまとまって聴こえるのではなく、各パートが個別に耳に届いた。これは演奏者がよく見えたせいなのか、武満作品がもともとそういう構造なのかはわからない。そのため、全体の流れよりも、一つひとつの音をつかまえることが容易だった。以前三鷹で聴いた「弦楽のためのレクイエム」とは異なる印象を受けた。とはいえ、曲中の大きな盛り上がりに向かうエネルギーの集中は恐るべきものがあった。ストラヴィンスキーが「厳しい音楽」と評した武満の音楽にある機微を的確にとらえた演奏だったと思う。

 私の知る限り、今年開かれる武満徹コンサートで見逃せないのは、本公演と世田谷美術館講堂での高橋アキ「武満徹 ピアノ独奏曲演奏会」だろう。残念ながら後者を知ったときにはチケットはすでに完売だった。高橋アキが弾く武満作品の確かさはCD「高橋アキ plays 武満」を聴けばわかる。できれば20年といわず、ときどき演奏してほしい。

武満徹プレート.jpg
東京オペラシティコンサートホールに掲示された宇佐美圭司作の武満徹肖像画レリーフ
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デジタルリマスター版「男と女」 [映画]

 デジタルリマスター版の「男と女」を立川シネマシティで観た。
クロード・ルルーシュ監督の名作。同監督が撮った短編「ランデヴー」との二本立て。

 最初に上映されたのは「ランデヴー」。全編フェラーリのエンジン音、駆動系の軋む音が耳を直撃する過激な映画だった。シネマシティお得意の爆音上映。ただし、少し手加減しているらしい。早朝のパリをたぶん100kmは出ているであろう速度で疾走するクルマのノーズに取り付けられたカメラによる映像。なぜ走るのか、説明はいっさいない。ただひたすら街を走る。信号はすべて無視。ほかのクルマをプロレーサー並みのテクニックでよけ、鳩を蹴散らし、道行く人とぎりぎりすれ違う。本作はその危険な内容ゆえ上映禁止になったという。見ているうちに頭がフラフラしてきた。街の高台に到着し、おもむろにクルマは止まりドアが開く。出てきたのは一人の男。意外なラストシーン。驚愕の8分間。

 いまさら「男と女」についての評価を語るのは野暮だろう。1966年当時の恋愛映画のスタンダード。フランス映画独特の空気感、ストーリー展開はいま見ても新鮮だ。リマスター版は、色彩と鮮明さ、音質の点で現在の映画スクリーンでの上映に耐えうるクオリティを備えている。特に、浜辺沿いのデッキをカメラが進み、テーマ曲が流れる冒頭のシーンは、わずかに褪せた色調に情緒があり、魅力的だ。風景を包む、なんともいえない微妙な夕暮れの色合いが美しい。夕暮れシーンはほかにもいくつか撮られ、それがこの映画特有の甘い雰囲気を醸し出している。

 本作は、場面によってモノクロとカラーを使い分けているが、じゃっかん青みがかったり、赤っぽかったり、ニュートラルだったりするモノクロシーンの色味もそれぞれいい演出だった。この映画のヤマ場である終盤のベッドシーンは適度な粒状感があり、光の回り方が柔らかい。これはフィルムだからこそ撮れたものだろう。女優の表情をとらえるフレームが秀逸。また音声も明瞭で、映画全体の輪郭を際立たせる効果がある。クルマの使い方に時代を感じた。フランス車ではなく、ムスタングという選択がうまい。

 男がすでに死んでいても、基本的には三角関係を描いた作品だ。クロード・ルルーシュ29歳のときの作品とのことだが、脚本、演出、カメラワーク、音楽のいずれも卓越したものがある。アヌーク・エーメはこれ以上の適役はないくらいにはまっていたと思うし、主人公であるレーサー役ジャン=ルイ・トランティニャンの切れと、死んだ男を演じたピエール・バルーの素朴さの対比の間での揺らぎがよかった。そして、名作には名曲。ゆったりと体を委ねて観る時間は貴重だった。

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