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原発事故後10カ月 [原発]

 しばらくの間、本ブログの更新を怠ってしまった。定期的にこのブログを訪れてくれている方々、ごめんなさい。これからまたできるだけ言葉を綴ろうと思います。

 更新しなかった理由は2つある。ひとつはTwitterにはまってしまったこと。これはSNSというカテゴリーにはまらない面白いサービスで、毎日利用している。それでブログがおろそかになった。もうひとつの要因は、まとまったかたちで言葉をアウトプットすることに気持ちがまわらなくなったことだ。福島第一原発の事故以来、原子炉の状況や放射能汚染の広がり、それにまつわるもろもろの情報がめまぐるしく飛び交い、その現実に向き合うだけでせいいっぱいだった。それらを日々整理してブログに載せるほどの余裕はなく、事故から10カ月経ったいまでも頭の中の混乱は続いている。よって、これから書くこともそれを反映して煩雑になってしまっている点はご容赦願いたい。

 私が情報のインプットに使っているツールは主にTwitterとブログ、USTREAM、YouTubeだ。これらのメディアは、3.11以前には考えられなかったほどの多様な考えや実態、情報、映像を提供してくれた。それまでの情報源といえば、大手新聞とテレビくらいだった。私は昨年の12月に、購読する新聞を、30年ほど契約していた朝日新聞から東京新聞に変えた。市民の安全を切り捨てる政府に切り込まず、山下俊一のコメントをうのみで載せ、反原発デモなどの重要な動向を伝えない新聞をとっても意味がないと思ったからだ。その点で東京新聞はまだましだった。最近では、東京新聞に目を通したのち、Twitterのたくさんのつぶやきを読むのが日課になっている。

 Twitterでは読むことのほうが多いが、ときには積極的に発言した(つぶやいた)。昨年の11月ごろまでは、放射性物質の危険性への警告や東電への批判、政府や官僚の愚かさを指摘した。しかし暮れごろになってその勢いが減速した。現状認識について慎重になり、アクセルの踏みこみを弱めた。それにはいろいろな理由がある。ここに踏み込んでも、なにかをなしたことにはならない。危機意識を押し出しているのは自分がTwitterでフォローしている人々と数人の知人だけであり、実際には、事故を過去のことにしたかのような空気が日本をおおっている。これをどう考えればいいのか。この危機意識のなさはどういうことか。ドイツをはじめとする海外の動きのほうがまだ現実的だ。福島原発はいまだ危険な状態であるにもかかわらず、私の周囲でガイガーカウンターを持っている人はたった3人。放射能という見えない暴力をどのようにとらえ、言葉にすべきなのか、これは大きな課題だ。

 私は3.11以前から原発に反対し、いつかは大事故が起きると警戒してきた。そして実際に事故が起きてしまったとき、放射能による被害はたいへん悲惨なことになると思い、原発に隣接した町の人々は死ぬだろうと予想していた。ところが、幸いにして表面的には悲惨な状況には陥らなかった。確かに、飯舘村など原発の北西方向ならびに福島市や郡山市の汚染は深刻だが、いまのところ放射能によって人が死ぬような事態には至っていない。そればかりか、高濃度汚染以外の地域では日常が戻り、東電はあいかわらず存続し、世間は何事もなかったかのごとく経済活動にいそしんでいる。もっとも、そこには強力なムラ意識が働いているのかもしれない。

 Twitterで懸命に警告を発する人や、原子力村と記者クラブの茶番をあばくフリー記者の仕事はきわめて重要だ。しかし、東電が存続し、国をはじめだれも責任を問われない以上、なにも変わってはないのと同じだ。かくいう私も、反原発のデモや集会に参加するわけでもなく、一介の会社員としての日々を送っている。このままいけば、原子力産業は再び息を吹き返すだろう。

 ただし表に現れていないだけで、本当は「見えない暴力」が静かに進行しているのかもしれないと思う。特に、食物に含まれる放射性物質による内部被曝の影響、福島や郡山などの汚染地域にとどまった人々の被曝。これらは予想していなかった事態だが、チエルノブイリやイラクの実情と照らし合わせると、仮に低線量被曝であっても、なにかしらの健康障害が起きる可能性は高い。チエルノブイリの正確な疫学的調査結果を知らないため、これは憶測の域を出ないことは認識している。

「見えない」。ここがいちばんの問題であり、心配や不安の度合いにおいて人々を二分する原因になっている。ここで想像力を働かせて引き続き警戒しながら生きるのか、それともやはり放射能汚染はそれほど心配する必要はないと早々に線を引くのか。Twitterの世界でも現在この両者の間で対立のようなものが起きている。例えば、野呂美加さんという方は以前からベラルーシなどに赴き、現地の実態を見聞して低線量被曝などによる健康被害や危険性を国内各地で説いてきたが、科学的根拠のない点を指摘され、いまでは一部の人々から批判を浴びている。

 以前、「Forbes日本版」(ぎょうせい・2009年休刊)という雑誌は特集の見出しを「日本人は原発アレルギー」と表記した。ずいぶんと人を馬鹿にした表現だが、日本の政治家・官僚・電力会社・経済界・学者たちの多くはこの考えに立脚している。つまり、放射能恐るるに足らずという見当だ。「国はなぜ市民を守らないのか?」という問いへの答えはここにある。ヒューマンエラーや放射能に対し高をくくっているからにほかならない。このどうしようもない鈍感さ。実のところは鈍感を装いつつ、リスクを逃れ、蓄財の算段だけを考えている。裁判官でさえ、放射性物質を「無主物」などと言う状況。国や司法がここまで嘘をつく以上、市民一人ひとりが自立して行動する時代に入ったのは明らかだ。ここにある日本とは、真実を語ることができない国。原発事故と放射能汚染は、いまのわれわれを取り囲むさまざまな問題や課題を複合的に含む事件なのだ。

 ネット上ではすでに夏ごろから、子供がひんぱんに鼻血を出す、原因不明のアザができたといった症状を訴える人が現れ、白内障が増えたという報告もなされている。確かに、放射線による障害にしては少々早すぎる感は否めない。しかし、はたしてそれをデマだと切り捨てるのが正しいことなのだろうか。市民に無用な心配を与えるな、といさめることができるのか。それは、原子力村と枝野氏がいう「人体にただちに影響はない」発言を容認することになりはしないか。

 まだ何もわかっていないのだ。いま、神経質なまでに放射能汚染の警告を発するのは、感度の高い人たちだ。すこぶる鈍感な人間が多く住むこの国においては、それくらい感度の高い人が必要だと私は思う。Twitterでは、“炭坑のカナリアを「うるさい!」と言って殺してしまったら、みんなで死んじゃうことになるんだよ”と言った女性がいた。この狭い島国で、4基もの原子炉が同時に破損した原子力事故が起きたのだ。しかも事故はまったく収束しておらず、単に水で核燃料の崩壊熱を抑えているだけの状態であり、いつなんどき不測の事態が起きるかもしれない。われわれはいま、原発事故後の未知の世界を生きている。それがまぎれもない事実だ。
 
 
 
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脱中央 [原発]

 国内ではいま、東京電力福島第一原子力発電所の事故をきっかけに、原子力発電を容認する人と反対する人の意見のせめぎ合いが続いている。もちろん、推進と反対それぞれの声を上げる人は以前からいた。しかし放射能汚染が現実化し、底知れぬ健康被害、生活と産業破壊が懸念される中において、その対立が世間一般の知るところとなった。私が長年購読している朝日新聞も最近ようやく重い腰を上げ、原発に対する懐疑的あるいは否定的な記事を掲載しはじめている。
 原発を容認する人の意見は大方次のようなものだ。
「原子力はうまく使えば安定した電力供給源になる。クリーンであり、CO2削減にもつながる。この技術を使わなければ日本の経済は成り立たない」
これに対して反対の意見は、
「原子力はあまりに危険。いったん事故が起きれば取り返しがつかない。すぐに停止すべき。代替エネルギーはある」
というもの。原発推進は政府と官庁、産業界、学者、メディアが主導し、反対は主に市民団体とジャーナリスト、学者のほか、共産党や社民党が主体だ。さらにここにきて、「原発の危険性を鑑みて停止すべきだが、現実的にはすぐに止めるわけにはいかない。徐々に減らす方向で検討すべき」という段階的な縮小を目指す意見も出てきた。あるいは「ストレステスト」という新手の手法を持ち出して、それに合格すれば継続して原発を稼働させたいという動きもある。菅総理以外の民主党議員は、ストレステストで原発の延命を試みているように見える。
 私は以前から書いてきたとおり、「原発即停止」しかないと考えている。どんな理由があっても、原発は使ってはいけない技術(人間がコントロールできない化学反応)であることには変わりがない。すでに3基の原子炉が崩壊し、放射性物質に汚染されたこの国はいま半死半生の状態である。そのうえまだ原子炉を稼働させ、そこで第二の事故が発生したとき、日本という国の営みに終止符が打たれるのは明白だ。
 原発即停止に異論を持つ人もいるだろう。特に産業界では、国内電力供給の3割を担う原発が即時停止した場合その経済的影響は大きさゆえ現実的ではなく、確実な地震対策を施せば原発はまだまだ行ける——との考えが根強い。
 経団連会長を頂点とする産業界は、たった3基の原発の崩壊で国が大きく傾いている事実がわかっていない。つまり、ことの重大さがのみ込めずにいるのだ。現状認識という点で、いま日本は大きく立ち後れている。韓国や中国に追い抜かれた産業分野しかり、教育分野や外交しかり。放射能汚染の情報隠蔽や、汚染基準のいい加減な決め方もそこに起因している。ただしこれは市民についても言えることだ。自らが立たずに、政府や官僚、経団連などの「中央」がなんとかしてくれるだろうという意識がいまもってある。思えばそれは江戸時代から続く「庶民」感覚であり、われわれはまだ「市民」にはなりえていない。
 中央が判断を誤れば、あるいは保身や金儲けに走れば、多くの人々の生死にかかわる。これだけは肝に銘じておきたい。広瀬隆氏と明石昇二郎氏が行った刑事告発は、その中央の病巣に楔を打つ行動だ。
 先日福島県の市民グループが、あてにならない自治体に頼らず、自主的に放射線測定調査やホールボディーカウンター(体内の放射線量を測定する機器)の導入を行ったという。同県では、信頼できるジャーナリストや学者を呼んでの汚染状況認識と放射線の内部被曝に関する講演会もたびたび開かれている。自治体はいまも中央からの指示を待っているだけの存在であり、もはや現状認識うんぬん以前の問題だ。ガイガーカウンターを持って自ら測定し、判断する。このあたりから、われわれの意識が変わってくることに期待したい。脱原発は脱中央への足がかりとなる。
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菅総理を辞任させるべきか [原発]

 政界では、原発事故対応の手際の悪さを責めて、菅総理を辞任させる相談があちこちで行われている。同じ政党の小沢氏はここぞとばかりに同調者を集め、6月2日の内閣不信任決議になだれ込ませた。鳩山前総理は、辞めなければペテン師だとまで言ってのけた。決議が否決された後も、自民や公明がいつ辞めるいつ辞めるんだとひな鳥のように騒いでいる。原発事故の要因をつくった自分たちを棚に上げて。
 以前もこのブログで書いたが、確かに今回の原発事故における菅総理の対応はまずかった。当初から事態の深刻さを把握できていたとは言い難い。避難区域設定の緩慢さや、市民への放射能汚染情報の周知が徹底されずに隠蔽された点、対策組織の乱立による混乱などの事実を並べても、菅氏の状況判断力や指導力のなさは明らかだ。結果的に被害の拡大をまねいたことは、まずかったでは済まされないレベルといえるだろう。
 もともとこの人には、野党の立場で与党の急所を突くのが得意な印象がある。それが突かれる立場になり、そのうえ党内は権力争いで分裂し、官僚とは乖離、財政はひっぱく、領土問題は顕在化、市民を納得させるような働きもできずにいたところに、巨大地震と大津波、そして原発事故と立て続けの問題に呑み込まれた。現実的には、未曾有の災害の復興とレベル7級の原発事故対策、そしてエネルギー政策の転換を一人の人間の手腕でこなすのはどだい無理な話だ。いまの政治家の中にこの国難を乗り切れるほどの才覚を持った人材がいないのは誰の目にも明らかである。どんな総理でも優秀なブレーンが要る。
 こと放射能汚染対策に限って言えば、菅総理では力不足だ。なにより、緊張感と切迫さに欠けている。すぐにでも別の人が現場で直接指揮を執ったほうがいい。自民党の石破氏くらいの肝がある人物が望ましいだろう(彼がいいとは決して言わないが)。一方で原発事故対策以外について言えば、ここで菅氏の代わりにだれを総理に据えようが、事態は好転しないように思う。事態というのは、国内の原発とエネルギー供給にうずまく利権をこの先どうするかという問題も含めてだ(東北地方の復興に関しては別の機会に考えたい)。
 菅降ろしでうごめく周囲の輩からはなにやらきな臭い煙が立ちこめている。「攻め」の総理は先日来、浜岡原発の停止、およびエネルギー政策の見直しと発送電分離の提案を行った。これは、電力会社との癒着がある多くの政治家からはとうてい出てこない発想だ。菅氏には、原発事故や東電に対する強い怒りがある。これはほかの政治家とは異なる姿勢であり、近年の総理の中においては珍しくまともな意識だ。さらに菅氏はエネルギー問題に関心があり、自然エネルギーの利用についても独自の前向きな視点を持っている。
 きな臭さを漂わせる連中はいま、総理が邪魔で仕方がないと私は推測している。電力会社から献金を受け取る政治家や金づるを離したくない経産省は、すきあらば原発推進路線を再び軌道に乗せたいと思っているはずだ。原発の安全対策を骨抜きにした経産省や汚染情報を隠蔽した文科省、原子力村の面々がそう簡単に白旗を上げるはずもなく、総理を引きずり下ろすためにいろいろと策略をめぐらせているに違いない。なにしろ、原発に反旗をひるがえした福島県知事さえ、検察を使って容易に失脚させたのだから。
 彼らはなぜ、そこまで原子力にこだわるのか。その理由は明らかだ。電力供給の権利を押さえることは、国の舵取り(すなわち税金のコントロール)に大きな影響力を行使でき、治水と同様の意味があるのだ。
 いま、菅総理を辞めさせることは、将来の日本にとってマイナスになると私は思う。彼が辞めれば、原発政策は早晩息を吹き返すだろう。5月31日には超党派の「地下式原子力発電所政策推進議員連盟」なるものが勉強会を開いた。高速増殖炉「もんじゅ」の存立さえ危うくなった現在、どうやら悪の火だねは地下にもぐろうとしているようだ。同連盟の顧問には鳩山前総理が名を連ねている。打算的ではあるが、原発に反対する市民は孤軍奮闘の菅総理をバックアップすべきだろう。いまが転換点だ。これを逃すと、電力供給の主導権を再び「村」に取られてしまう。
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高濃度放射能汚染・東京3月15日 [原発]

 福島第一原発からの放射性物質の拡散・降下量は、関東においては3月15日に最大だった。これは、Twitterのコメントとその関連Webページの情報にたどりついて知ったことだ。同じことを放射線衛生学者の木村真三氏も指摘している。彼はこの日、多くの知人たちに外出は控えるように連絡をとったという。3月15日の情報は文部科学省からも、事故から2カ月ほど経ったのちひっそりと発表された。http://ameblo.jp/vaccine/entry-10912611510.html
 この日以降の放射線量は地方独立行政法人東京都立産業技術研究センター駒沢支所(測定場所:東京都世田谷区深沢)によっても測定されており、結果は次のサイトからダウンロードできる。http://p.tl/ozhp
記載された表を見ると、15日の9時から12時の線量がとびぬけて高い。14日の記録がないので16日との比較になるが、ヨウ素131が0.6→241、ヨウ素132が0.4→281、セシウム134が0.1→64、セシウム137が0.1→60(16日→15日における午前10-11時の比較。単位はいずれもBq/m)。
 3月15日の高濃度の汚染は同14日に起きた第一原発3号機の爆発によるものだ。放射性物質は、北からの風に乗って第一原発から東京方向へ流れた。その経過は以下のサイトで確認できる。http://www.youtube.com/watch?v=ni3HX9_lLtA&feature=youtu.be
 15日に検出された値は、世界中で頻繁に核実験が行われた'60年代よりもはるかに高いという。チェルノブイリ事故の際の計測値の数百〜数千倍との指摘もある(小出裕章氏の指摘によれば、外部被曝線量が2μSv/h、内部被曝線量が17.1μSv/h以上)。つまり福島県民と同様に、東京都民もまた大量の放射能に被曝したのだ(茨城、千葉、群馬を含む)。しかも、3号機はMOX燃料を燃やすプルサーマルを行っていた原子炉。よって、ほかの原子炉よりも多くのプルトニウムを保有しており、格納容器が損傷していたとすれば、あの核実験のような爆発によってそれが拡散したのは明らかだ。
 私は自分の日記を読み返した。15日の9時から12時に自分はどこにいたのか——。それによると、原発の事態が心配になり、午前中にいわきの実家に電話をかけている。最初は通じず、ようやくつながった電話口に出たのは甥だった。高濃度だったことは知らなかったにせよ汚染が心配で、窓は開けないよう、換気扇は回さないよう、なるべく外出しないよう、そして事態がさらに深刻になったらクルマで南に逃げるように甥に伝えたことを思い出した。残念ながらそのとき、父母は給水のためにクルマで外出していた(当時、いわき市は地震のせいで断水していたのだ)。「こんなときに外出しなくても……」と私は思った。いま思えば、東京でこれだけの線量が検出されたのだから、いわきも相当の量だったはずだ。父母は高い放射能を浴びたかもしれない。
 私は交通の混雑を避け、12時半に家を出ていた(前日夜の中央線は大混雑だった)。さらに、マスクをして外出したと書いてある(後日知ったことだが、放射性物質は通常のマスクではさほど防げない)。またこの日の日記には、「新宿でヨウ素検出」とも記してあった。確かに、Webのニュースかなにかでそのような報道があったことは記憶している。しかし、その量が驚くべきものであったことは、そのときだれにも知らされていなかった。たぶん、文科省などは知っていたはずだ。
 周知のとおり、「高濃度の放射能汚染が東京を覆っていることを知らせたらパニックになる」というのが文科省や政府の考えだ。この本末転倒ででたらめなロジックのせいで、多くの都民は放射能に晒された。これはもはや犯罪である。本来ならば、検察や警察の出番だ。事実を正確に伝えて、外出を控えるように告知するのが行政の役目だろう。ときすでに遅い。原発という施設の人災事故が、1000万人以上の人々の生命を脅かした。せめて、殺人的な二次被害を起こす判断を下した政治家や官僚、学者の名前を記録しておきたい。
 とはいえ政府は、いまからでも3月15日にあった関東における高濃度汚染の事実を発表すべきだ。われわれはそのうえで、今後どれだけ被曝リスクを減らせるかを考慮しなければならない。あの日のあの時間帯、我が子を連れて外出した母親は、累積する被曝リスクを最小限にするためにあらためて子供の将来を考える必要がある。

参考:
●小出裕章氏の講演より:http://www.youtube.com/watch?v=w4YYtHnvmcc
●フランスのIRSN(フランス放射線防護原子力安全研究所)は3月22日の時点で、3月15日の東京の放射性物質汚染状況を公表していた。
(日本語資料)http://www.irsn.fr/EN/news/Documents/irsn-simulation-dispersion-jp.pdf
(日本語資料そのほか)http://www.irsn.fr/EN/news/Pages/201103_seism-in-japan.aspx
●3月15日9時48分に東京都台東区にてガイガーカウンターで計測を行った映像
 http://youtu.be/hMKo9ZmhEjo
●関東の放射線量の上昇は、3月21日以降にも確認されている。

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ガイガーカウンター [原発]

 連休中にいわきに行った話を先日書いた。その際、小名浜などの海岸沿いにおける津波の傷跡を見たわけだが、同時に、友人から借りたガイガーカウンターを携帯して各地の放射線量も計測した。その結果は以下のとおりだ。ただし素人の計測なので値は厳密なものではない。
 上野から湯本駅までの常磐線車中での線量は、ほとんど三鷹と変わりなかった。最も高い値で、水戸駅と東海駅0.13、日立駅0.15、高萩駅と大津港駅0.14、勿来駅0.15(単位はいずれもμSv/h=マイクロシーベルト毎時)。湯本駅や小名浜港近辺での数値は0.05-0.17程度で、平均すると0.11くらいだろうか。これも三鷹と同じだ。計測はすべて立った状態で行った。
 小名浜の実家や町で、海岸付近で、ときどきポケットからガイガーカウンターを取り出して、大気中の放射線量を計るとはとんだ時代になったものだ。この計測器は中国製で、どの程度の信頼性があるのかは、ほかの機種を使ったことがないのでわからない。電源を入れて数秒すると、カウンターの数字は0.05〜0.10あたりを行き来することが多い。場所によっては0.18まで振れる。使ってみて感じたのは、定位置で30秒以上計ったほうが精度が高くなりそうだということ。ガイガーミュラー管というものがどのように放射線をとらえ、また放射性物質がどのような動きをするのかを理解していないため、あくまで想像しながらカウンターの数字を見た。ただし、極端な振れ幅は示さないので、ある程度は信用していいだろう。
 植え込みやコンクリートのたたき、ベランダなど、郷里の各所での数値が三鷹と同じ程度だったため安心していたところ、とある地域で突然数値が上昇したので驚いた。クルマに乗りながら、窓を開けてなにげなくスイッチを入れると、数値が0.2を超え、最高で0.36に達したのだ。初めて目にする値に私は危険を感じた。具体的には小名浜上神白と平豊間付近。海岸線から西の方向に山になってトンネルを抜けたあたり、つまりじゃっかん標高が高い地域だ。後日この近くにあるカントリークラブの裏手を通ったが、ここも0.2を超えた。
 さらに翌日、建築家の友人の助言に従って実家の雨といの排水口の下を計ってみた。すると、30秒を過ぎたころから数字が上がり始め、ついには0.5に達した。ガイガーカウンターのアラーム値を0.5に設定してあったので、警告音が鳴り、液晶パネルが光る。同時にこちらの心臓もどきどきした。母が何してるの? と声をかけてきたので、ここの数値が高いと答える。なんだか、見てはいけないものを見てしまったような気分になり、申し訳ない気持ちにもなった。この数字がもっと高かったとしても、両親はこの家を離れるわけにはいかない。せいぜい、排水口に触らないよう注意するくらいのことしかできないのだ。それでも、知らないよりはいいだろう。
 もっとも、今年70歳になる母は、「どうせこの先は長くないから」と放射能を怖がるそぶりがない。今年採れた筍も平気で食べている。この筍をおすそわけしようしたところ、遠慮した家もあったという。とらえ方は人それぞれ。食べ物の近所づきあいさえ分断してしまうのが原発事故だ。
 周知のとおり、放射線が特異なのは、臭いも、痛みも、色もなにもない点だ。ガイガーカウンターの数値が高くなっても、身体はなにも感じない。あくまでも想像しているにすぎず、その数字だけで対応を考える必要がある。そして被曝量が多ければ、後日その影響が現れ、あらためてその存在を知ることになる。かなり手強い敵なのだ
 前述の数値は福島市などに比べれば低いが、私は相対的には判断したくない。バックグランドを超えている場合、放射線は決して相対的に捉えてはいけないように思う。放射性物質が降った以上、数値がほかより低いから安全ということはないのだ。まして、地表面はさらに高い可能性がある。相手は物質なので、地形や風によってまだらに溜まるだろう。また放射性物質はさまざまな種類(放射性核種)が存在する。携帯型の機器ですべての核種の放射線を計測できるわけでもない。
 いまガイガーカウンターの価格は高騰している。その多くが中国製か、ロシア製だ。たぶん、売価は以前の5倍以上。製造元が値上げしているのか、部材が不足しているのかどうかはわからない。必要とされている時期に高額になっているのはまったく残念だ。しかも日本製は皆無。とはいえ、子供を持つ家庭にとっては有用な道具であるように思う。子供たちの活動範囲における数値を知ることは重要であり、たとえ避難できない事情があるとしても、少しでも放射性物質を避ける努力をすべきだろう。
 TwitterやWebなどで知った情報によれば、東京では北からの風が吹いた3月15日や3月22日の数値が非常に高かったという。そのときの大気をガイガーカウンターで計っていたら、卒倒してしまったかもしれない。知ればたぶん外出しなかった。いまだ数値が高い地域に住む人々はどのような気持ちで生活しているのか。もし私ならデパス1錠ではいられない。もはや、開き直るか。
 実際には、開き直れず、萎縮せず、ぎりぎりの線上を歩くことになる。もし借家住まいの一人暮らしであれば、佐賀県などが用意した避難市民の受け入れ先に向かうことも考えるだろう(当地では住居や生活用品のほか、仕事も紹介するとのこと)。しかし家庭を持つ多くの人にとって、そのような飛躍を実行することは容易ではない。もし移住する場合、国の補助は必須だ。私としては、チェルノブイリやドイツの例を知った以上、子供の将来を優先する選択肢が最も重要だと思う気持ちが強い。それにしても、この状況はいったいいつまで続くのか。チェルノブイリの例では、放射能の身体への影響が現れるのはおよそ4年後だ。

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日本人の未来 [原発]

 三島由紀夫が「見たくない」と語っていた日本の姿がいまわれわれの前に、亡霊のようにゆらゆらと立ち現れている。日本の将来を案じていた司馬遼太郎もこの姿を見ずに逝った。それは幸いなことだったかもしれない。いまやこの国の人間は、平然と子供を見殺しにするところまで堕ちた。内戦が続く南アフリカや飢えに苦しむ北朝鮮と変わりがない。司馬遼太郎が言った、日本人に流れているはずの「微弱なる武士の電流」はついに途絶えたといっていいだろう。

 文部科学省は福島の子供に対して、年間20ミリシーベルトまでであれば校庭や園庭で被曝してもかまわないとの放射線許容量を設けた。これは、米国やドイツの原子力関連施設で作業する人の年間被曝上限値と同じだという。チェルノブイリの事故で周知のとおり、子供は大人よりも放射能の影響を受けやすい。まして、降下した放射性物質を吸い込む危険性は大人よりも高い。文科省の役人は狂ったか。いや、受験勉強の秀才たちが会議室で顔つき合わせ、無表情な顔と冷えた頭で考え出した薄ら寒い結論だ。子供たちは身の置きどころを選べない。学校の先生たちはこの通達に素直に従うのだろうか。子供たちの健康に対する先生の信条を問うてみたい。

 また、いわき市の渡辺市長は、「福島産の牛乳や食材は危険だという風評を払拭する」ため、市内の学校給食に福島産の牛乳と食材を使うことを認めたらしい。率先して子供に食べさせることが果たしていいことなのか。ここでも、子供に拒否する権利はない。先月、福島県の放射線健康リスク管理アドバイザーとなった長崎大学の山下という教授は講演で、放射能や放射性物質は危険ではなく避難する必要はまったくない、心配ないと、大勢の県民を前に豪語していた。そのうえ、「いまやフクシマは、ナガサキやヒロシマよりも有名になった。これを利用しない手はありません!」などと、間抜けな発言までしている(http://rfcgamba.blog60.fc2.com/blog-entry-106.html)。このような人物をアドバイザーに迎えた行政側の見識を疑う。同じく、総理や大臣、官僚もこういう手合いの意見を参考にしていることだろう。

 日本の野党はなにをしているのか? こういうときに身体を張って子供を守るのが、社民党や共産党ではないのか。いまだ具体的なアクションが見えてこないのはどうしたことか。どこそこに行って抗議してきたとか、意見書や署名を渡してきた、だけでは政治とは言えない。自民党は原発を推進してきた張本人だけに、なにもいえず。この期に及んで、隙あらば政権奪回を狙う情けなさ。

 福島第一原発の非常用電源が落ちてこのかた、正常な判断ができない現在の日本人の本質が次々と明らかになっている。少しのミスも許されない厳しい状況であるにもかかわらず、政府も東電も安全・保安院も謝ってばかりだ。こと原発に関して言えば、明日へつなぐ「仕事」をしているのは苛酷な放射能の渦中にいる事故現場の人間だけだろう。

 「自民党がだめだから、民主党にでもやらせてみるか」という判断の結果に誕生した菅内閣だが、「にでも」で選んだ政党がいい仕事をするはずもない。われわれの見込みは甘かった。政治がオペレーションを誤れば、人が死ぬこともあるのだ。政府の言葉を聞くと、事故を他人事のようにとらえていることがわかる。原発から250kmも離れた場所で会議を行い、企業のように内部調整に労力を使って、経済界や産業界との連携にも余念がないことだろう。状況は日増しに悪くなっている。そのうえ、日々これだけ地震が発生している中で、浜岡原発を止める気は毛頭ないらしい。

 私が怖れているのは、電力会社や政府、御用学者たちが放射能に対する恐怖心をまったく持ち合わせていないことだ。「国民に無用な不安を与える」「パニックを招く」といった理由で、放射線量や放射能に関する情報を公開・告知しない姿勢は、犯罪行為に等しい。年間7億円を投じている「SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)」もまったく活用されておらず、これを運用する文科省原子力安全課も税金泥棒の一味だろう。情報隠蔽は市民のためではなく、自分たちに都合が悪い状況をつくらないための姑息な行為だ。最低でも、放射線量の高まりに合わせて、外出を控えるなどの広報をしなければ、政府自らが被害の拡大を助長していることになる。

 毎日、通勤電車の車中の顔を観察する。皆、福島の危機的な状況のことなどまるで考えていないように映る。それは私の目にバイアスがかかっているせいだろうか。彼らは放射性物質が襟元に降り注いでも、まだ携帯やスマートフォンの画面を眺め、人を押しのけて電車を乗り降りしているにちがいない。身近に危機が迫っても、「粛々」と群衆に埋没するのか。

 原発についてインターネット上の意見を読むと、反対でも賛成でもないという人が意外に多い。反対もせず、推進でもないとはどういうことなのか。仕方がないという諦めか。その中立的な姿勢は私には理解できない。また、新聞の調査によると、日本人の半分近くがいまだに原発を容認している。電力に支えられている贅沢はそう簡単に手放せるものではないだろう。その贅沢が幻だとしても。大量の放射性廃棄物は贅沢の代償として、受け入れられるものなのか。

 日本人は戦うことを忘れてしまった。戦いといっても、戦争や争いごとではない。自由や安全、安心は、黙っていては得られない。自主的、自律的な精神を維持する末に手に入れるものだ。なにもせずに安穏としていると、欲望という名の怪物に浸食されて、根本から崩壊する。

 福島の子供は、日本人の「欲望」と「怠惰」の犠牲となって、毎日命を削られている。文部科学省のようなでたらめな判断を下すのであれば、いっそのこと外国からの助言に従ったほうがましだろう。東電や産業界のひずみ、広く言えば、文明の矛盾を子供たちに押しつけていることは、見逃せない。しかし、ほとんどの人々はこの事実に向き合わず、どこかのだれかにたよりきった日常に生きている。日本の政治家や官僚はおろか、日本人全体が根無し草になっていた。この島国で起きている事態や迫り来る危機のほどがのみ込めず、子供の命さえ救えないならば、この国の将来はあまりにも暗い。

 



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福島市と郡山市の子供 [原発]

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 友人のK君がガイガーカウンターを購入した。昨夜彼に会い、それを借りた。連休中にいわきに行く予定があると話したところ、貸してくれたのだ。
 中国製のそれは、少し前の携帯ラジオ並みの大きさだ。重さはラジオより軽いだろう。検出した放射線の量を液晶パネルでデジタル表示する。単位はμSv/h(マイクロシーベルト毎時)。最高で2桁の数値(99.99)まで計測できる。購入価格は5万円ほどとのこと。実は私もガイガーカウンターを購入しようと思い、Webで調べたが、どれもけっこうな値段だったので断念した。
 早速自分の行動範囲で計測したみた。三鷹の上連雀で平均0.11μSv/h、中野駅のホームで0.15μSv/h、新宿の都庁の本庁舎前で0.15μSv/h、西新宿で平均0.08μSv/hだった。
 これらの数値が、福島第一原発からの影響をどの程度受けたものなのかは分からない。誤差もあるだろう。しかし、例えば新宿は、新聞に掲載された同地の数値(0.0724μSv/h)に近い。ガイガーカウンターの数値は信頼できる計測結果だと思っている。こうやって実際に計測すると、放射線というものの存在を意識するようになる。仮に、カウンターの表示が1μSv/hにでもなったら、相当緊張するだろう。0.5でもかなり気になる。
 朝日新聞は毎日、福島県を含む東北地方と関東の各地で計測された放射線量を掲載している。周知のとおり、第一原発の北西側は数値が高い傾向がある。浪江町や飯舘村は特に高く、それぞれ警戒区域と計画的避難区域に指定され、住民は避難した。原発から30kmほどの区域はもちろん危険だが、私が以前から気になっているのは、福島市と郡山市だ。両地域は、原発から50kmほど離れているにもかかわらず、放射線量が比較的高い。今朝掲載された数値は、福島市が1.68μSv/h、郡山市が1.63μSv/h。
 三鷹と比較すると現在、両市とも約15倍の線量だ。この数字が高いか低いかは議論の分かれるところかもしれない。しかし、私は高いと思っている。まして、以前はさらに高く(3月15日の時点で福島市が24.24μSv/h、3月24日の時点で福島市が5.19μSv/h、3月28日の時点で郡山市が3.08μSv/h)、両市とも少なくない量の放射性物質が降下したはずだ。内部被曝の危険を考えると、子供だけでも早々に避難させるべきだったと思う。
 文部科学省と原子力安全委員会、原子力災害対策本部は4月19日、「福島県内の学校等の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」を発表し、それを福島県教育委員会等に通知したという(http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/23/04/1305174.htm)。これによると、「文部科学省による再調査により校庭・園庭で3.8μSv/時間未満の空間線量率が測定された学校等については、校舎・校庭等を平常どおり利用をして差し支えない」とのこと。また、「非常事態収束後の参考レベルの1-20mSv/年を学校等の校舎・校庭等の利用判断における暫定的な目安とし」と記載し、基準値をかなり緩めた。つまり、高い放射能環境の中で子供を活動させても問題ないとしている。この通知に従う学校があれば、そこに我が子を通わせている親は子供をすぐに転校させたほうがいい。3.8μSv/h、20mSv/年は、他国の基準値と照らし合わせても明らかに高い。
 前述の2都市の線量にしても、あくまで平均的な数値であり、局所的にはさらに高い場所もあるはずだ。また「校庭・園庭」であれば、空間線量ではなく、地表面の放射線量や放射性物質が重要になる。つまり、内部被曝が怖い。物質であるからには、雨や風によって特定の場所に溜まることも十分考えられる。地面に接する機会が多く、背の低い子供たちがそれを吸い込んでしまう危険を避けられないことは、だれにでも想像がつく。文部科学省と原子力安全委員会、原子力災害対策本部は子供のことなど、まったく心配していない。「暫定的考え方について」は、危機感も緊張感もない官僚たちが机の上でつくりあげた空論だろう。子供軽視もはなはだしい。
 私は福島市、郡山市あるいは両市の数値より高く、避難区域に指定されていない地域の子供たちはいまからでも県外に避難させたほうがいいと考える。それは容易なことではなく、部外者の勝手な意見かもしれない。しかし子供の将来を考え、健康被害を食い止めるためには仕方のないことではないだろうか。さらに踏み込んで言えば、事態は他県への移住を考えるところまで進んでいると私は思う。現在の生活水準を下げることになるが、将来がんになるよりはましだ。放射線量が多い地域に長期間住むことの怖さを文部科学省や行政側はまともに考えていない。
 やはり注意すべきは内部被曝。子供の甲状腺異常は4、5年後に発症することが多いという。これはまったく素人の考えだが、内部被曝は長期にわたって相当深刻な放射線障害(染色体異常)を招くはず。肺や骨などに入った放射性物質は取り出すことができず、一生体内に留まるのだろう。そうなってからでは遅い。まず守るべきは子供の将来だ。
 
染色体異常:
http://www.dailymotion.com/video/xhpugr_yyyyyyyyyyyy_tech

4月24日追記・ドイツ・シュピーゲル誌の記事(日本語訳)
「日本は子どもに対して高い放射線値を確定した」:
http://www.twitlonger.com/show/a1bk9a

4月25日追記・チェルノブイリ特集 最終回 少女の体に放射能は 衝撃的レポート('94.7)
http://www.youtube.com/watch?v=0rFYHpmta_0
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2度目の敗戦 [原発]

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 友人の建築家S君とTwitterでやり取りをしている中で、彼が今回の福島原発の事態を指して「敵国はないが敗戦に近い」と書いた。この言葉は、まさにいまのわれわれが感じる心の傷の原因を表している。私もまた、治らない風邪にかかったような気分が3月11日以来ずっと続いているが、それは確かにそういうことなのだと思う。
 日本は、太平洋戦争と同じ過ちを犯した。今回は軍人こそ登場しないものの、官僚、政治家、企業、メディア、学者、そして国民が目先の欲望におぼれて、原子力発電という名の「戦争」を始めたのだ。もとより、この戦争に勝ち目はない。次世代の未来を食いつぶし、数十万年後まで問題を先送りするだけの馬鹿げた戦いだ。最後に手元に残ったカードは、放射能を含んだ空気を空に排出し、高濃度に汚染された水を太平洋に流すという、絶望的な窮余の策しかない。
 これはまるで、太平洋戦争の愚策と同じだ。驕りの末に自らを追い詰め、前にも後ろにも進めず、どうすることもできなくなった、あのときの日本人の姿そのままである。前回と異なるのは、汚染された土地に復興の機会が訪れないかもしれぬ点だ。1945年の被爆地は復興したが、2011年の被曝地の将来は定かではない。被曝地に限らず、敗戦の影響はこれから数十年にわたって広く日本を覆う。見えない猛毒によって風土は蝕まれた。この先は繁栄とはほど遠い未来が待っている。立ち直るには相当な時間がかかるはずだ。
 今回はたまたま福島が主戦場になったが、戦地はまだたくさん残っており、地震列島のそこかしこでいまだに核を燃やしている。日本の発展には原子力発電が必要だという言葉を信じ、いまだこの戦争の怖ろしさに気がつかぬ市民も多い。なにを大げさな、と思うかもしれない。そのときは、この国に対する他国の目を見るがいいだろう。大気と海洋を汚し、無策な政府とそれを糾弾することすらできぬ市民のいる島国を見る厳しい目線に、はたして耐えられるか。

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原発がどんなものか知ってほしい [原発]

 平井憲夫氏が1996年に書いた手記「原発がどんなものか知ってほしい」。このブログでも昨年にいちど紹介したが、ここで再度掲載先をリンクする。原子力発電所の現場で長年働いていた人からの警告の言葉だ。この手記には、原子力発電所の現場の実際(職人不在・監理機能不全)、被曝、海水の放射能汚染、各地の原発事故、廃炉のこと、差別——など、今問題になっている事柄が、現場作業者の視点で書かれてある。
 例えば、この文書の中で平井氏が指摘した『しかし、こんな重大事故でも、国は「事故」と言いません。美浜原発の大事故の時と同じように「事象があった」と言っていました。〜それで、私がまず最初に言ったことは、「これは事故なんです、事故。事象というような言葉に誤魔化されちゃあだめだよ」と言いました。県議会で動燃が「今回の事象は……」と説明を始めたら、「事故だろ! 事故!」と議員が叫んでいたのが、テレビで写っていましたが、あれも、黙っていたら、軽い「事象」ということにされていたんです。地元の人たちだけではなく、私たちも、向こうの言う「事象」というような軽い言葉に誤魔化されてはいけないんです』の個所は、いまとなってはだれでも心当たりがあるだろう。
 原発推進派や理詰め思考の技術者たちからは批判されているが、この文書の主旨は机上の理論の世界で生きている人間にはわからない。われわれが守るべきものは何か? 次世代に問題を先送りすることの罪の深さを認識すべきだろう。平井氏は'97年に癌で亡くなった。この手記から彼が遺した強い「思い」を読み取っていただきたい。

「原発がどんなものか知ってほしい」
http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html

原子炉とパソコン [原発]

 ノンフィクションライターの広瀬隆さんがインターネットの番組で語った話を聞いて、私はこのところ感じていた視界の曇りが局所的に晴れた気がした。そして同時に愕然とした。当たり前のこと、単純なことというのは、意外に思いが及ばないものだ。この晴れ間を見たとき、私は絶望的な気分に襲われた。

 原発事故が発生して以来ずっと、私の意識の表面には、なにかぬぐいきれない割り切れなさで覆われていた。状況の見えなさといえばいいだろうか。それがなんなのか、広瀬氏の指摘によって少し理解できた。それを急いで書きとめてみよう。

 いまの原発に関する危機的な状況を例えるならば、こういうことだ。
私たちが現在日常的に使っているパソコンを考えてみる。この道具は、便利でさまざまな機能やサービスをわれわれに提供してくれているのは周知のとおり。いまでは日々欠かせない道具になった。しかしその道具も、いったん調子が悪くなると、ユーザーの手に負えない代物に変わる。対処のしようがない状態に苛立つ。これは皆が経験していることではないだろうか。

 パソコンというものは、多数の集積回路が集まった複雑な装置であり、いうなればブラックボックスだ。見た目はデザインをほどこしたスマートな筐体で覆われているが、ネジを外して見たその内部は、素人にはとうてい理解のできない構造になっている。ロジックボードと呼ばれるメインの基盤はその最たるものだ。

 このパソコンの中心部であるCPUに欠陥があったとしたらどうだろう。使い手であるユーザーはもちろん、パソコンメーカーのNECやソニー、東芝でさえも直すことはできない。CPUは膨大な回路の集積であり、それに対処できるのは、CPUメーカーのインテル(またはAMD)のみだ。

 あるいは、WindowsやMac OSなどのOSに欠陥があったらどうか。これもまた、ユーザー、パソコンメーカーともに直すことはできない。OSもハードウェア同様、非常に複雑で膨大なプログラミングコードの集積であるからだ。これを直せるのは、Windowsならマイクロソフト、Mac OSならアップル社だけである。

 ひるがえって、原子炉を考えてみる。私が40年近く前、福島の原子力発電所PRセンターで見た原子炉の模型は、最近テレビや新聞で盛んにパネル説明している原子炉の模式図とは比べものにならないほど複雑なものだった。それは、たくさんの配管や装置などで覆われたカプセルだったことを思い出す。まさしく、パソコン並みの複雑さと言っていいだろう。原子炉の配管や装置と、パソコンの回路や配線は意味合いとしてはイコールだ。世界は複雑化に突き進んでいる。

 そして、福島原発でいま危機的な状況にある4基の原子炉。この破損したプラントで問題になっているのは、冷却機構を始めとする、まさにその複雑な構造だ。広瀬氏は、この入り組んだ装置の破損への対処を考えられるのは、東京電力ではなく、原子炉を造ったメーカーである東芝や日立、三菱などの技術者だという指摘する。先の例で挙げれば、パソコンメーカーではなく、もはやインテルやマイクロソフトの出番なのだ。東京電力は原子炉を動かすことができるだけのオペレーターにすぎない。まして安全・保安院は何の役にも立たない存在であり(広瀬氏は「馬鹿ども」と切り捨てた)、東電の受け売りをしゃべる政治家もしょせん素人だ。もちろん、原子炉メーカーがすべての解決策を持ち合わせているとは思わない。しかし、あの原子炉の構造をだれよりも知っているのは彼らだ。

 この事実を思うとき、いまメディアに登場している原子力の学者や研究者は、机上の空論論者であることが明らかになる。彼らはみな概念や単純な図面で考えているが、実際の構造物はもっと複雑な代物なのだ。事態を食い止める知恵を出せるのは、原子炉メーカーの技術者にほかならず、私もこの点に異論はない(ただし、建設当時の技術者は皆高齢になっているとのこと)。とにかくいまは、東芝でも、1号機のメーカーでもあるGEでもかまわない、これらの原子炉の設計に携わった技術者個人の協力を至急あおぐべきだと思う。あるいは、世界各国に助けを求める時期にすら来ている。これまでの経過を見る限り、東電という一企業だけではまったく心許ない。それどころか、東電や旧通産省、安全・保安院、政府系原子力機関、御用学者による現在の利権態勢こそが前述した絶望の源であり、彼らに任せていてはさらに悪い方向に進む可能性すらある。事態は一刻を争い、多くの人命の未来がかかっている。

福島原発事故 メディア報道のあり方 広瀬 隆:
http://www.youtube.com/watch?v=MiYz6dxfw7E
 
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