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全原発停止の日 [原発]

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 5月5日、北海道電力泊原子力発電所の3号機が定期検査に入り、国内にある50基の原発がすべて停止した。私は国内の全原発が停止する日がこれほど早く訪れるとは思っていなかった。国と電力会社はどうにかして、核の炎を絶やさぬよう「延命」を図ると思っていたのだ。もちろんあくまで停止したにすぎず、再稼働の可能性は残されている。この先のステップとしては、全原発を廃炉に追い込むことだ。廃炉にするにも莫大な費用と労力がかかるのが原発のやっかいな点。放射能に高濃度汚染された原子炉の解体から処分・保管まで、費用と長い時間、たくさんの作業員が必要になる。
 とはいえ、廃炉の話をするのは時期尚早だろう。国や電力会社のだれも原子力発電をやめるとは言っていない。原発を不安視する世論の高まりや世界情勢に照らして、再稼働を先延ばししているにすぎない。国や電力会社、電事連は動かしたくてうずうずしている。これまで、東電管内で30パーセント、関電では40パーセント以上の電力が原子力で賄われてきたという。関東はともかく、関西は原発なしでこの夏を乗り切れるだろうか。もっとも、40パーセント以上依存している関西が、いま現在原発なしで電力不足に陥っていないのもおかしな話だが。
 原発を止めたからには、新たなエネルギー供給源を考える必要がある。火力と水力のほかに軸となるエネルギー源の候補を挙げて確実なものにしなければならない。忘れてはならないのは、原発に反対する者自身も原発による電力を使ってきた(使ってきてしまった)以上、共犯関係にあるのは免れないということだ。単に反対し、原発を廃炉にすればそれでいいわけではない。解体後の最終処分まで負担し、代替えエネルギーの提案・支持を行うのが筋だ。
 その前に、電力にどっぷり浸かった生活や経済活動を改めたい。夏場、キンキンに冷えた建物内、煌々と明るい室内照明、そこら中にある自動販売機、夜中まで空いているコンビニなど、過剰すぎるこれら諸々を抑える方向に動くべきだ。このようなことをいうと、抑制することは経済活動の低下につながり、国力が落ちると否定する人が現れる。原発の推進も同じ理由であろう。国力の維持のためには原発が必要であるという論理がそれだ。しかし、それは繁栄の方向が間違っている。電力をジャブジャブ使ったり、物を容易に使い捨てる大量生産・大量消費がこれから目指す繁栄ではない。日本の人口は減っており、一方で借金は来年度には1000兆円を超える。このような時代には、自然と共生し、電力や物の使用量を適度抑えることが重要になる。もはや過剰さは不要だ。
 全原発が停止したいま、われわれは自らの生活や社会活動を見直す時期にきた。これは、私のような'80年代の「おいしい生活」やバブルを体験してきた世代ほど、肝に銘じたい。では、これからの若い世代は「おいしい生活」を味わえなくていいのか? と思う向きもあるだろう。「おいしい生活」を顧みると、その提案の中心にあるのは、物や文化、情報に囲まれた豊かな生活といったところだろうか。もちろん、そこでは電力が重要な役割を果たす。私の知る範囲(息子やその友人、会社の若手など)では、いまの若い世代は物や、旧世代が思い描く文化や情報には固執していないように見える。彼らは旧世代のような物への渇望が希薄で、その価値観の中心には過剰な電力を求めたり、強い物質欲はない。その善し悪しはともかく、電力や物質が人間を幸福にするという古くさい考え方は早晩改めるほうがいいだろう。
 核燃料などという危険きわまりないものを燃やし、単に湯を沸かして蒸気タービンで電力を得る旧式な施設がそれほど重要なのか? 繁栄のためには次世代に恐るべき負担をかけていいと勘違いしている国や電力会社、役人、経団連はもはや見切ってしまおう。次の世代と語り合って本当に必要なものを選択し、バトンを渡すときが来た。奇しくも5月5日はこどもの日だ。
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