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ポゴレリッチの「交響的練習曲」 ピアノリサイタル2018 [音楽]

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本番前のイーヴォ・ポゴレリッチ

 ポゴレリッチの音楽はきわめて厳しく、そして美しい。
サントリーホールにて、イーヴォ・ポゴレリッチのリサイタルを聴く。私は彼のコンサートに足を運んだのは4度め。今回は舞台側の2階席、演奏者の背中を見下ろす位置で聴いた。

演目:

モーツァルト「アダージョ ロ短調 K.540」
リスト「ピアノ・ソナタ ロ短調」
****
シューマン「交響的練習曲 op.13(遺作変奏付き)」

 コンサートが終わって、心に残る余韻を思い出しながら感じたのは冒頭の言葉だ。その厳しさは、演奏家が自らに課したものであると同時に、険しい道を追究し続ける成果としての表現からくる。私は、ピアノから発せられる一音一音に、近年耳にしたピアニストの中では比類のない厳しさを感じた。同時に、従来の演奏解釈からかけ離れた音楽は、ときに異彩を放ちながらもきわめて美しい。

 厳しさを支えるのは、優れた耳と卓越した技量。そして、パワーと繊細さ。大柄な体躯の演奏家だが、強さと弱さ、明るさと暗さ、テンポ、間、高さと低さ、長さ、広がりを細部まで驚くべき精度でコントロールしている。聴き手が全幅の信頼をもって耳を傾けられるほどに。この演奏家に「テクニック」などという言葉は不要だ。

 ポゴレリッチが奏でる主旋律は、垂直方向に光のように伸びていく。それが、林立しては消える角柱のごとく見えるようだ。そして、主に左手が担う伴奏は、水平方向へ広がっていく。最低音の重さは地の底へ沈むごとく。長い間の先に、打ち込むような一つの低音が鳴り響く。これによる豊富な倍音が音楽にふくらみを与える。同時に、このピアニストは、音の発生から到達時間、そして減衰までも把握しているに違いない。それらが三次元的に立ち現れるさまは、CDでは決して感じることはできない。輻輳するのではなく、垂直水平方向に伸びていく。これはホールだからこそ感じることができるかけがえのないものだ。聴衆は演奏会場でまったく新しい音楽の誕生を目撃する。

 今回のプログラムの3曲には一貫性があり、曲調に共通した部分が多い。長編「交響的練習曲」は忍耐強い研鑽に適した作品であり、演奏の高い完成度を実感した。タルコフスキーの映画における長回しのカメラが横に流れるように、ポゴレリッチの時間は途切れずに続いていく。ときに情動をはらむさまざまな感情の流れ。後半は激しく打ち寄せる波濤にのみ込まれていく。そして現れる光のような旋律。時間を潤沢に操り、聴き手は、音楽が永遠を刻む時間による芸術であることをあらためて知る。

 以前も言及したが、彼の演奏はどれほど多くの音が重なろうが、どれほど深く鍵盤をたたこうとも、ハーモニーににごりがない。特に低域の和音が美しい。この強靭な制御力はどこからくるものなのか。インタビューで彼はその点について「自分が発する音に十分に耳を傾けてきた」というようなことを語った。自身が最初の弾き手であると同時に、最初の、そして最高の聴き手でもあった。

 ポゴレリッチは情景のつくり方も秀でている。誤解を恐れずにいえば、「感情」や「物語性」あるいは歴史さえも超越して音楽世界を構築しているかのように聴こえた。それこそがまさに芸術だ。威厳に満ちた響きや高らかに放たれるハーモニーはこころを打つが、最終的に私が感じたのは、厳しさに裏打ちされたゆるぎのない豊かさだ。悲しみや苦しさ、喜び、時代の運命を超えたところにある精神的ななにか。その存在を強く感じさせてくれた演奏だった。

イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル
場所:サントリーホール
日時:2018年12月8日(土) 19:00 開演

モーツァルト「アダージョ ロ短調 K.540」
リスト「ピアノ・ソナタ ロ短調」
****
シューマン「交響的練習曲 op.13(遺作変奏付き)」
※アンコールはなし


以前のポゴレリッチ・ピアノリサイタルの記事:
イーヴォ・ポゴレリッチの「ラ・ヴァルス」 ピアノ・リサイタル2017
イーヴォ・ポゴレリッチのピアノリサイタル 2016
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「ボヘミアン・ラプソディ」ーフレディ・マーキュリー葬送ー [音楽]

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 ミュージシャンや画家の人生を描いた映画で、感心した作品には出会ったことがない。たいていはがっかりするか、腹立たしい気持ちで映画館を後にする。英国のロックバンドQueenを取り上げた「ボヘミアン・ラプソディ」を立川のシネマシティで観た。前述した理由で、当初は見るつもりはなかったが、同世代の友人・知人たちが皆「涙が出た」「もう一度観たい」とSNSに投稿しているので、重い腰を上げて足を運んだ。

 予告動画は観ていたため、フレディ・マーキュリー役がどの程度本人に近づいているかは見当がついた。どだい、あの稀代のパフォーマーを演じきれる俳優など世界中探してもいるわけはない。シネマシティ得意の「極音」によるライブシーンの再現だけでも観られればいい、くらいの気持ちで映画館に入る。ところが、座席について映画が始まると、ライブを再現した場面の一曲目ですでに目頭が熱くなってきた。これはどうしたことだろうと感じながら、友人たちの言葉につられただけだと思い込んだ。

 前半は、フレディ・マーキュリーがロジャー・テイラーとブライアン・メイのバンドに加入し、トントン拍子で人気グループになるまでを描いている。後半は、フレディの元を去る恋人や、メンバーとの亀裂、取り巻きの罠、エイズの発症などの重苦しい現実が画面を覆っていく。このあたりはこのスーパースターに関して世間に広まった話をなぞっている。しかし、後半でヒット曲が演奏されるたびに、胸に迫るものがあった。メンバーと和解し、エイズの先に待つ死の足音を乗り越えて出演したライブエイドの演奏シーンでも涙してしまった。それは単に懐かしさから来るものだけではない。

 私が初めてのQueenを聴いたのは、中学2年のころだったろうか。当初はなんだか少女漫画に登場するような髪型と格好が気恥ずかしく、敬遠していた。しかし、曲がよくてギタリストがすごいという同級生の女の子の話を聞き、当時のイチオシだったKISSと平行して聴くようになる。とはいえ、中学生の私の耳には「華麗なるレース」などは少々高尚すぎた。その音楽性の高さを本当に実感したのは高校に入ってからだった。フレディ・マーキュリーの歌と作曲能力のすごさ、ロジャー・テイラーとジョン・ディーコンのリズム隊の高いコンビネーション、ブライアン・メイのクールで琴線に触れるメロディーラインと幅広い表現力、実験的なサウンド、そして完璧なコーラス、ハーモニー。十代のころに聴いた音楽はかけがえのないものだ。アルバムとしては「世界に捧ぐ」「JAZZ」「The Game」をよく聴いた。最近聴いているのは「オペラ座の夜」と「華麗なるレース」の2枚。映画を観終え、Queenそしてフレディ・マーキュリーは、思っていたよりも深く、私に影響を与えていたことを知る。

「ボヘミアン・ラプソディ」はQueenとその楽曲を賛美するためにつくられた映画だ。Queenというバンドの文字どおり「絆」をテンポよく音楽に絡ませて描いている。4人の絆を通して映し出されるある種の純粋さの映し方がうまい。このバンドの音楽を再認識させるのに十分な作品といえるだろう。ネタバレになってしまうが、本作のストーリー展開は時系列などを変え、かなり脚色している。フレディがエイズ感染を医師に告知されるのは実際はライブエイドの後だし、メンバーが彼のエイズを知ったのもライブエイドの前ではない。また、フレディがかなり俗物的に描かれ、彼とメンバーがあれほど険悪な関係になったとは思えない。それはブライアン・メイの後年のインタビューを読んでも明らかだ。

 それでも、自分がこの映画で涙したのはどういうことなのか、と考えた。それはたぶん、私がフレディ・マーキュリーの死を本作であらためて受け入れたということなのだろう。彼がエイズで亡くなったという知らせは、遠い国から伝わってきてはいた。1991年のことだ。しかし、自分の中ではその事実をぼんやりと心の中に置いていただけだったのだ。私にとって「ボヘミアン・ラプソディ」を観るのは、フレディ・マーキュリーのバンド人生をたどるのではなく、スクリーンと対面しながら、彼を葬送することを意味していた。これもすべて、彼の類まれな歌声と才能、人格、Queenというバンドが奏でる音楽の美しさゆえなのだと思う。個人的には映画の形を借りた遅れた音楽葬になったが、フレディ・マーキュリーという人間の本質をあらためて認識するきっかけになった。ここから私の新しいQueenが始まる気がする。
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設置音楽2「IS YOUR TIME」 [音楽]

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 少し前のことになるが、東京オペラシティのICCで坂本龍一と高谷史郎による設置音楽2「IS YOUR TIME」を視聴した。椅子は用意されておらず、会場内を歩きまわりながら好きな位置で視聴できるので、体験といったほうがいいかもしれない。音楽(スピーカー再生)と映像(液晶パネル)、「津波ピアノ」によるインスタレーションだ。

 壁と天井、床がすべて黒で統一された薄暗い映画館のような会場。粒子らしきものの動きを表示した液晶パネルが明滅し、ときおり眩しく光る。最新アルバム「async」の拡張バージョンと、津波の被害を受けたピアノの鍵盤がときおり発する音(ヤマハが製作した打鍵装置が取り付けられている)。非同期の音楽とランダムな自然の活動(世界各地の地震データを基にした)を表すピアノの打音が広い空間に響く。ピアノは内部が傷んでおり、外装側面には津波に浮かんだ際の痕が水平に残っている。被災地から運ばれ、東京にやってきたピアノは、容易には把握できない物体としての存在感がある。側面に金字で「宮城県農業高等学校昭和41年度卒業記念」と記されてあった。

 10台の液晶ディスプレーと14台のスピーカーがつくる「設置音楽」は新しいライブ体験だ。それはワタリウム美術館で行われたのと同様に「Installation Music」と名付けられ、会場全体がひとつの作品となっている。複数のスピーカーから響く音は、手前から奥へ移動したり、数ミリセコンドの差で複雑に再生されるなど、単なる立体音響にとどまらず、作曲者が意図したとおりに精密にコントロールされていた。

 その音響体験は斬新なものだ。「async」がエンドレスに流れる「設置音楽」は、音楽と音、映像、物ーーの新しいあり方を予感させる。従来の現代音楽やアートとは大きく異なる要素があるのだが、いまはそれをうまく言い表すことができない。このような表現を繰り返し体験するにつれ、見えてくるものがあるだろう。特に「物」。本展の場合は津波に呑み込まれたグランドピアノであり、世界各地で揺れている地殻だ。

 クラシックから現代音楽、テクノ、ポップス、映画音楽などで実績を残してきた坂本龍一であればこその展示だった。強いて言えば、そこに、9.11や3.11、不安定な世界そして生死(有限)という現実を通して得た精神性がある。その精神性と「物」の存在が同氏による「設置音楽」の鍵だ。

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ICC企画展「坂本龍一 with 高谷史郎|設置音楽2 IS YOUR TIME」トレイラー vol. 4 Installation View
https://youtu.be/ySAlXvZWNHw
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東北ユースオーケストラ演奏会2018 [音楽]

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開演前のロビーにて

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3月21日、「東北ユースオーケストラ演奏会2018」を東京オペラシティコンサートホールで聴いた。東北ユースオーケストラは計102名で構成され(+東京フィルから数名)、坂本龍一氏が音楽監督を担当し、柳澤寿男氏が指揮した。

演奏曲は、前半が坂本氏の代表作「ビハンド・ザ・マスク」「戦場のメリークリスマス」「ラストエンペラー」「Still Life」、後半がドビュッシー「海」、ストラヴィンスキー「火の鳥」。前半は坂本氏がピアノで参加。中盤で、女優ののんさんが「Still Life」をバックに宮沢賢治や原民喜の詩を朗読し、その後各団員のソロ演奏や藤倉大氏作・編曲の日本民謡も披露された。

瑞々しく伸びのある演奏だった。「海」と「火の鳥」は難曲だが、予想以上の力強さとスケールがあった。特に弦の美しさは、プロのオーケストラにはない類のものだ。音色と流れ。それを純度あるいは若々しさといえばいいのかわからないが、音楽の本質はテクニックや経験だけではないことの証を印象づけた。柳澤氏によれば、半年前は「全然音が出ていなかった」という。資質を引き出した柳澤氏の手腕も見事だ。全体的に、若い楽団員と指揮者、監督らの音楽に対する真摯な姿勢と観客による一体感が感じられた素晴らしい演奏会だったと思う。
東北被災地の若い音楽家たちに向けた、坂本龍一氏によるこれまでの支援には最大限の感謝と敬意を表したい。

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藤原真理のバッハ無伴奏チェロ組曲 [音楽]

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 藤原真理によるバッハ「無伴奏チェロ組曲」全曲演奏会に足を運ぶ。会場は武蔵野文化会館小ホール。彼女の演奏を生で聴くのは初めてだ。テレビで二度ほど聴いたことがある程度。改装して間もない小ホール。それほど通ったわけではないが、音響のよさは変わらず。チェロがとても豊かに存在感をもって響いていた。ホールの壁や天井の設計はもちろん、ステージの材質や構造にも音響の秘密がありそうだ。

 余分なものはなにもない、ステージには一人の人間が演奏する行為そのものだけが存在する。それがすべて。そんな印象をいだいた演奏会。円熟した技量で原木を削りだし、美しい木肌をそのままに見せる彫刻のようだった。私が好きな質感の音だ。難度が非常に高いと思われるが、およそ2時間半、黙々と6曲を弾きこなした。職人的な厳しさを備え、気負いや誇張のない、本質だけを見据えた見事な演奏だったと思う。

 彼女の手元に、年季の入ったチェロに、ステージ上の空間を見上げればそこに、バッハがあった。時代を超越した音楽とはこのようなものを指すのだろう。ふと、先日亡くなった人のことを思う。音楽はこの世界と天上を結ぶものではなく、人々が旅立ったあとに残されたわれわれに向けられたものなのか。あるいは、音楽家という選ばれた者が天空に向けて何事もなく響かせる光なのか。いずれにせよ、音は人間がつくる物語を超えた場所に在る。擦弦によるボディーの豊潤な響きは厳かに会場に広がり、ほかの楽器とは異なるチェロ特有の音の幅、そして暖かみと深みを感じた。

 演奏は、第1番から、2、3、6、4、5番の順。この6曲はそれぞれ曲想が異なり、順番を変えることで受け止め方が変わってくる。私は特に最後の5番に感銘を受けた。終曲にふさわしい気がした。6曲の旋律には、明るさ、陰鬱さ、軽やかさ、重み、悲しみ、愉しみ、緊張、緩和、孤独など、人間にとってのさまざまな感情を含む心持ちがする。しかし聴くべきは自分の内面ではなく、ステージ上で紡ぎ出される演奏そのものだ。音楽はそこにしか存在しない。生の演奏に接する大切さをあらためて感じさせるリサイタルだった。

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イーヴォ・ポゴレリッチの「ラ・ヴァルス」 ピアノ・リサイタル2017 [音楽]

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 サントリーホールにてイーヴォ・ポゴレリッチのピアノリサイタルを聴いた。ポゴレリッチの演奏会に足を運んだのは今回で3度目。初めに断っておくと、私はクラシック音楽については素人だ。演奏技術や様式、音楽史についての知識はあまりない。そのため、以下に書くことは印象に基づいており、かなり主観的だ。言葉の不足は、私が携わっている絵画を例にしながら補ってみたい。

 ピアノ音楽の歴史の厚みを受け継ぎつつ「壊すことの中から新しい音楽を創り出す」。ポゴレリッチが目指すのはそういうことではないのか、と私には思える。彼はロシアやヨーロッパに流れるピアノ音楽の後継者としての修練を重ねたうえで、なにかを壊し、そこからより確かなもの、より堅牢なものを創り出そうとしているように感じられるのだ。この場合の壊すというのは、表面的な解釈にとどまらず、常にいまよりも深く楽曲を掘り下げ、演奏することを指す。

 美しさと品格。どれほど秀でた演奏であろうが、曲の斬新な解釈であろうが、憧憬と呼べるほどの美しさがなければ音楽とはいえない。そして、演奏者としての品格。品格という言葉が適切かはわからないが、ここには演奏家の孤高なる精神や厳しさが含まれる。私がポゴレリッチの演奏に惹かれたのは、なによりもまずこの二つが際立っているからだ。それを支えているもの、会場で起きていることを、彼が放つ圧倒的な音楽を聴きながら理解したい気持ちが湧き上がる。もっとも、彼の演奏に拒絶反応を示す人もいるだろう。従来のピアノ音楽からすれば、彼の音楽は特異な次元にあることは確かだ。

 音楽を評価する際に「音の粒立ち」という表現がときおり使われるが、ポゴレリッチの場合、厳密にいうと「粒」ではない。その演奏を聴くと、一つひとつの音がなにか、立体的なブロックのようなかたちに見えてくる。絵画においては、セザンヌやゴッホなどのポスト印象派に見られる「筆触」「タッチ」「色斑」というものに相当するだろうか。それは、彼の演奏の一音一音が非常に明確であるがゆえなのかもしれない。ホールに弾き放たれる大小の立方体は、それぞれが代替え不可能で確信的な真実、本物だ。それらが暗闇のなかから明瞭に耳に届き、心の中に音楽を創りあげる。彼の音楽は「現象」としてその場に立ち現れるかのようだ。聴衆はその現象の場に立ち会う。現代アートのインスタレーションのように、「目撃する」といったほうがふさわしい気がする。

 私はたくさんのピアノ演奏を聴いてきたわけではないが、ポゴレリッチほど一音一音を大切にしているピアニストはいないのではないかと思う。それでなければ、あれほど明確な音を紡ぐことは不可能だ。すべては曲の解釈と指のコントロールにかかっている。そのコントロールは才能はもちろんだが、特別なメソッドと相当な練習量がなければ実現しないだろう。頭脳と身体の両方で出来る限り譜面を吸収し、演奏しているように見える。

 一音を大切にすることは、音楽のテンポと密接に関係しているように思う。彼は無意味な「速弾き」はしない。遅いテンポは時代に逆行しているようだが、実際には音楽をゆっくり奏でることは相当難しいだろう。素人目には「間が持たない」。ゆっくりとしたテンポで演奏できるということは、それだけ楽譜に刻まれた音を把握しているからではないか。絵画も同様に、画面を筆致で埋め尽くすことは容易だが一筆一筆に緊張感をもたせた場合、描かない部分が非常に重要になる。つまり絵画は「塗り絵」ではないといいことだ。

 画家はモチーフを見て、それをいったん頭の中(感覚)に通し、変換したうえでキャンバスに対象を実現する。同じことをポゴレリッチも行っているのではないか。110年前の絵画の巨匠が語ったように、自然において「水平」は広がりを、「垂直」は深さを示す。自然の追究では、特に深さが重要になる。ポゴレリッチの音楽はこの深さを追究しているように思える。もちろん、そのような意識をもった演奏家はほかにいるはずだ。ポゴレリッチがそれらと異なるのは、時間と深さをコントロールすること、つまり自律性がきわめて高い点にある。自律性は、時間と深さの表現に大きく影響する。たぶん、彼の演奏において私が強弱や重さ、軽さとして捉えていた音は、実は深さでコントロールされたものなのだろう。その深さ(垂直)は彼が独自に到達した「自然」とさえ呼べるものだ。

 さらに、曲の解釈について触れたい。静物画や風景画、あるいは肖像画でも同じだが、モチーフというのは光線の具合はもちろん、見る時間や位置によって、都度変化する。現象として、同じことは二度と起きない。そのような中において重要なのは、表層の変化に惑わされず、モチーフをいかに見る(読み込む)かだ。普遍性の追究。これはたぶん、音楽の解釈にもいえることではないだろうか。楽譜に記録された記号と空白の組み合わせの間には、時間的かつ空間的なさまざまな可能性やEmotion、霊感が無数に張り巡らされ、幾通りもの解釈が存在するのかもしれない。しかし十分な思考アプローチを行ない続ければ、作曲者の意図に限りなく近づくことは可能だろう。

 解釈は無限にある。ただし、人間は既存の価値観や様式、印象に染まりやすい。そして多くの場合、染まっていることに気がつかない。この罠にはまらないようにするにはいくつかの方法がある。そのひとつが、すでに出来上がった表現様式や印象を、自らのメソッドあるいは身体性で壊すことだ。楽譜をピアノの下にバサッと無造作に置くポゴレリッチだが、楽譜の追究には相当注力しているのではないだろうか。そして常に更新(壊すこと)を続けている。体験的にいえば、いちど出来上がったものを壊し続け、さらに掘り進むことは容易なことではない。ポゴレリッチはそれに耐えうるだけの強い頭脳と身体性をもった演奏家だと思う。実際に彼の身体は大きい。

 常に大きな進化を続けるとすれば、とどまることはありえず、ある地点の成果をCDというかたちにすることを拒絶するだろう。そしてその進化には相当な時間を要する。自他に限らず、すでに出来上がった表現を壊したところから新しいなにかが生まれる。ポゴレリッチはその仕事を実直かつ確信的に行なっている演奏家の一人だ。ピアノ音楽の文脈をたどるような今夜の曲目と、圧巻の「超絶技巧練習曲」、換骨奪胎し霊感に満ち、あるいは静かなる狂気にさえ触れた「ラ・ヴァルス」[*]を聴き、その感を強くした。特に「ラ・ヴァルス」は、作曲者が目指していたものにかなり肉薄していたように感じる。混沌とした低音の中から沸き起こる大輪の花のような舞踊の世界はラヴェルのいう悪魔を超えた次元へと達し、悦楽的であるとともに、この演奏が永遠に続くのではないかという恐ろしささえ覚えた。低域から高域、強音から弱音まで、すべての音がにごらず明確に響き、調和していた。演奏者にとってはまだ過程だろうが、私は今夜の演奏には、すべての曲において、現時点での完璧に近い高みに達した解釈と表現があったと思う。

イーヴォ・ポゴレリッチピアノ・リサイタル
場所:サントリーホール
日時:2017年10月20日(金) 19:00 開演

[曲目]
  クレメンティ:ソナチネヘ長調op.36-4
  ハイドン:ピアノ・ソナタニ長調Hob.XVI:37
  ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調op.57「熱情」
  ショパン:バラード第3番変イ長調op.47
  リスト:『超絶技巧練習曲集』から第10番ヘ短調、第8番ハ短調「狩り」、
       第5番変ロ長調「鬼火」
  ラヴェル:ラ・ヴァルス
  アンコール ラフマニノフ:「楽興の時」より 第5番
        ショパン:ノクターン ホ長調op.62-2

[*]ラ・ヴァルス――自作曲の中でラヴェルが最も気に入っていたという。彼によれば、ワルツのリズムこそ人間性と密接にかかわるものだという。「なぜなら、これは悪魔のダンスだからだ。とくに悪魔は、創造者の潜在意識につきまとう。創造者は、否定の精神とは対極の存在だからね。創造者の中でも音楽家の位置が一番高いのは、ダンスの音楽を作曲できるからだ。悪魔の役割とはわれわれに芸当をさせる、つまり人間的なダンスをさせることなのだが、人間のほうも悪魔にお返しをしなくてはならない。悪魔とともにできる最高の芸当は、悪魔が抵抗できないようなダンスを踊ることだよ」(春秋社刊「ラヴェル…その素顔と音楽論」より)

{2017.11.26 改訂}
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イーヴォ・ポゴレリッチのピアノリサイタル 2016 [音楽]

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 イーヴォ・ポゴレリッチのピアノリサイタルを水戸芸術館にて聴く。彼の演奏会に足を運んだのは三鷹の芸術文化センター以来21年ぶりになる。三鷹では、体調不良のせいもあって曲目が変更になった。独特の力強さはあったものの、薄暗い舞台上での揺らめくような姿を記憶している。その人はいま、まったく別のピアニストに進化していた。ピアノのポテンシャルを最大限に引き出すような演奏だった。低域の強さと重さ、深さと高み、奥行きと広さ、独自の解釈による楽曲の再構築と時間感覚(テンポ)、意外性のある間、いずれも特別なものだ。

 開場してホールに入ると、ステージ上にはすでにポゴレリッチその人がいた。フリースのようなゆるい服とシャツを重ね着してニットキャップをかぶり、なにかのフレーズを確かめるようにゆっくりとピアノを弾いている。足元には紙コップ。ときどき、客席に目をやる。来場者にはそれがポゴレリッチ本人であることに気付かない人が少なからずいた。開演15分前くらいになっておもむろに立ち上がり、袖に下がった。

 開演は4時。水戸芸術館は収容数680人ほどの中規模のホールだ。客席は三方に分かれ、ステージ奥の上方にも座席がある。木の温かみを生かした設計は演奏者との距離が比較的近く、親近感がもてる。通常のホールにくらべて天井が低い。満席の会場にピアニストは燕尾服でゆっくりと現れた。前半はショパン「バラード第2番ヘ長調」と「スケルツォ第3番嬰ハ短調」、シューマン「ウィーンの謝肉祭の道化」。後半はモーツアルト「幻想曲ハ短調」、ラフマニノフ「ピアノ・ソナタ第2番変ロ長調」。

 驚くべき低域だ。倍音が多重に放たれ、デチューンしているようにさえ聴こえる。それでいて濁りがない。尋常ならざるフォルテッシモからピアニッシモまでが実に明瞭に聴こえる。低域の重みと厚み、これと中高域の輝くような美しい響きが両立する稀有な演奏。「バラード第2番」では、ゆったりと穏やかな第一主題と厳しく激しい第二主題の対比に惹き込まれる。「スケルツォ第3番嬰ハ短調」は強さと大きさ、「幻想曲ハ短調」では息を呑むような一音があった。続く「ピアノ・ソナタ第2番」からは大きな波のような情感を感じた。

 2005年以降の来日時、ポゴレリッチを聴く機会は何度かあったが、私は足を運ばなかった。10分の曲を30分かけて弾く「ポゴレリッチ時間」、原曲をとどめない解釈、緊張を強いられる演奏空間。それを知って怖気づいた。だが、彼のファンは辛抱強くその時期の演奏を聴き続けた。そして現在「ポゴレリッチ時間」と独自の解釈、奏法は一つの結実に至っている。いくつかの不運に遭いながら、10年以上に及ぶ特異な試行を重ねてきた彼の精神力、持続力はどこから来るのか。その巨大なポテンシャルの萌芽に気づいたからこそ、アルゲリッチは彼を支持したのだろう。「解釈」については、ピアノ曲の要素を徹底的に分解し、彼の感覚を基に変換、再構築した仕事だと私は考える。楽譜があっても音楽は写実ではない。いわば抽象表現だ。ピアニストの領分。

 本公演の一週間前に開かれたサントリーホールでの演奏時間は前後半とも50分ほどだったと聞いていたが、水戸ではそれよりもじゃっかん短かったのではないだろうか。私の記憶では前半で45分、後半で48分ほどだ。それは、ホールの響きと関係があるのかもしれない。水戸は天井に円形のパネルが付けられ、3本の大きな柱のほか、後席側の壁は大きく2カ所張り出している。残響時間はサントリーホールよりも短い1.6秒(満席時)。私が聴いたかぎりでは、音の濁りや滞留はなかった。プロの演奏家であれば、ホールの響きに合わせてプレイは精密に変化する。もっとも、数年前に比べ、標準的な演奏時間に近づく傾向にあるらしい。

 アンコールはシベリウスの「悲しきワルツ」。聴衆はそれぞれ、胸に感じるところがあっただろう。ゆっくりと静かに始まるこの曲は、激しい感情の高潮を迎え、消えいるように終わる。私はそこに夢や情景、去来する過去の記憶を見た。深い悲しみの中に光る高みを表した演奏だった。ピアニストが足で椅子をピアノの下に押しやって演奏会は幕を閉じた。

 申し分ないテクニックと精神性。このピアニストが持つ資質が、前述した大きく力強い響きと美しく明瞭な旋律に支えられ、高みに達した。私は、独自の解釈によって構築したモーツァルト「幻想曲ハ短調」とそれに続く「ピアノソナタ第二番」に強く感情を動かされた。あの演奏空間に立ち現れたもの。それこそが彼の音楽のすべてだ。ポゴレリッチは音楽のとらえ方を変える力を持つ。ピアノ演奏あるいはクラシック音楽に対する私の認識は変化した。
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上原ひろみ ザ・トリオ・プロジェクト「SPARK」 [音楽]

 東京国際フォーラムのホールAにて上原ひろみザ・トリオ・プロジェクトのライブ「SPARK」を聴く。この公演は五大陸にわたる世界ツアーの一環であり、日本国内では各地で計23回行なわれる。そのうち、東京国際フォーラムは3日間。私が行った日は満席だった。三十代くらいの客が多かった気がする。

 上原ひろみの演奏はこれまで、テレビやラジオでときどき聴いており、そのアグレッシブで超絶技巧的なプレイは実を言うとあまり好みではなかった。そのため、「速弾き技巧派」「ラテン系?」「チック・コリアや矢野顕子と共演」程度の認識だった。私はジャズという音楽においては、響き重視で間のある演奏のほうが好きなのだ。

 いちどは聴いておこう、どうせならアンソニー・ジャクソン(Bass)とサイモン・フィリップス(Drums)でのトリオがいいーー。そのくらいの気持ちでチケットを購入して会場に足を運んだ(ただしアンソニー・ジャクソンは健康上の都合で今回は不参加。代役はアドリアン・フェロー)。

 公演は新譜のタイトルであり、本ツアーのテーマ曲ともいえる「SPARK」で始まる。予想どおり、いきなり飛ばす。非常に速いテンポとフレーズ、ダイナミックな展開。それは、たしかにホールAを満席にするのが頷ける演奏だった。曲目が進むにつれ、その感は強くなる。まず、ピアノの音とフレーズが立っている。テクニックは申し分ない。短いフレーズのシーケンスやトレモロが聴衆の意識をぐいぐいと引っ張るのが分かる(上原ひろみの音楽において、繰り返しは非常に重要)。サウンドは明快で、驚きや発見で世界を切り開いていくような高揚感があり、ときに、ジャズというジャンルの存在を忘れさせた。これまで抱いていたイメージとは異なり、高域を弾き鳴らさず、抑制された重心がある。曲の構成や構造自体はフュージョンに近い気もするが、要するに表現として分かりやすい。相当高度なことをしているにもかかわらず、分かりやすく聴こえるのは大切なことだ。そして、3人のインタープレイは新しいひらめきに満ちていた。

 聴衆の感情に変化を与えることができる稀有なジャズミュージシャンの一人だ。現在の多くのジャズミュージシャンやバンドは既成のパターンを並べてジャズ的な演奏してみせるが、多くの聴衆の感情に変化を起こすまでに至らない。5000人の来場者の感情を動かすトリオ演奏というのはそうそうできるものではない。一方で、ジャズの「方言」はあまり含んでいない。それが新しさを感じるともいえるが、この点は好みが分かれるところだろう。

 左右に設置されたスクリーンにアップで映し出される上原ひろみの顔は喜びに満ちていた。彼女の輝く目や表情が、驚きや発見を生み出す演奏を成し遂げていることを物語る。「弾くのが楽しくて仕方ない」という姿勢は以前と変わらず、さらに、聴く人を引き込む力が備わったように思う。それは「Wake Up And Dream」のような静かなソロピアノ曲にも現れている。聴衆は感情の変化を求めて会場を訪れ、上原ひろみのパフォーマンスは終始それに応えた。加えて、サイモン・フィリップスとアドリアン・フェローによる連係は非常に完成度が高く、インタープレイの次元を高く押し上げている。

 幅広い表現力と大きなスケール、パワーを持ったジャズピアニストだ。速弾きラテン系どころではなかった。これは彼女の強靭な腕力と身体性によるところが大きい。なによりも強いのは、彼女はピアノを弾くのがとにかく好きであるということ。それが全身に、演奏に現れている。これほどの身体性をともなったジャズピアニストは私の知るかぎりミシェル・ペトルチアーニ以来ではないだろうか。五大陸ツアーが組まれる事実がそれを証明する。圧倒的な体験だった。

 このライブを見た後、CD「SPARK」を買ってあらためて近作を聴いた。残念ながらCDには、会場で感じた、世界を切り開くような高揚感はあまり含まれていない。感情の変化という体験は同じ場所、同じ空間を共有することで生じるらしい。いま、音楽界においてライブに人気があるのはそれが理由だろう。上原ひろみが目の前でプレイすること。彼女が彼女の身体性を駆使して生み出す偶発性は記録媒体に収めることはできない。ステージでしか生まれないなにかがある。未知の音楽はたしかにそこに存在していた。

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故入野義朗 生誕95周年記念コンサート [音楽]

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入野義朗

 東京オペラシティリサイタルホールで「故入野義朗 生誕95周年記念コンサート」を聴く。入野義朗(いりのよしろう・1921-1980)は日本における十二音技法の第一人者。日本で最初の十二音技法による作品「七つの楽器のための室内協奏曲」を1951年に発表している。また、桐朋学園音楽科の設立に参加したメンバーの一人であり、その運営と教育に当たったという。

 本公演はすべての曲(下記の演目)、演奏ともクオリティが高かった。実行委員による選曲と人選がよかったのだと思う。実行委員には入野禮子夫人も参画している。楽曲は現代音楽特有の無調性や不協和音、難解さが前面に出てこず、いままで私が持っていた十二音技法音楽の印象を変える内容だった。

 全体的に若手の演奏者が多かった。それゆえ、演奏に新鮮さがあり、「ピアノのための変奏曲」などの戦前に書かれた曲であっても、瑞々しい感覚と解釈、今のテクニックで現代に蘇らせていた。

 ピアノ独奏、管弦五重奏、ヴァイオリンとピアノ、合唱、フルート独奏、そして最後の伝統楽器による「四大(しだい)」、いずれも聴き応えがあり、また近年の現代音楽にはない温かみを感じた。「管楽五重奏のためのパルティータ」は、異なる性格を持つ5つの楽器でバランスよく構成し、上質な合奏曲に仕上がっていた。各楽章の終わりの余韻が美しい。「ヴァイオリンとピアノのための音楽」は第2楽章の「枯れた」趣きが印象深い。「独奏フルートのための3つのインプロヴィゼーション」は、天と地をつなぐようにフルートを鳴らす。それはさながら尺八のようだった。「四大」は二十絃箏、十七弦箏、尺八、三絃の4つの伝統楽器による晩年の曲。尺八という楽器の音は縦の役割を果たし、これに対して箏のシーケンスは横、三線はそれらをつなぐ斜めの役を果たしていたように感じた。ときに尺八奏者が拍子木を響かせ、要所を引き締める。無調による緊張感のある音楽は音の濁りがない。4人のアンサンブルが絶妙だった。

 十二音技法をベースに置きながら、そのうえに静謐な独自の音楽世界を構成し表現している。厳しさと戦後の時代的安定性(多様性を取り戻す力)が共存する構造は味わいがあり、もういちど聴いてみたいと思わせた。

 記念コンサートだが、司会などの挨拶、MCはいっさいなく、終始演奏に徹していた点は潔い。平日に開かれた現代音楽のコンサートにもかかわらずほぼ満席。来場者層はさまざまな世代に渡っていた。今後、入野義朗氏再評価の機運がさらに高まることを祈る。

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日時:2016年11月14日
会場:東京オペラシティリサイタルホール

プログラム:すべて入野義朗作品

■ピアノのための変奏曲 (1943)
Variations for piano solo
田中一結(pf)

■管楽五重奏のためのパルティータ (1962)
Partita for wind quintet
鷹羽弘晃 指揮、下村祐輔(fl)、鈴木かなで(ob)、前山佑太(cl)、河野陽子(hn)、木村卓巳(bn)

■ヴァイオリンとピアノのための音楽 (1957)
Music for violin and piano
中澤沙央里(vn)、佐々木絵理(pf)

■凍る庭 (1961)
Frozen Garden for mixed chorus and piano
西川竜太 指揮、ヴォクスマーナ、篠田昌伸(pf)

■独奏フルートのための3つのインプロヴィゼーション (1972)
Three Improvisations for flute solo
多久潤一朗(fl)

■四大 (1979)
SHI-DAI (The four elements: earth, water, fire and wind) for shakuhachi/shinobue, 20-stringed koto, 17-stringed koto and san-gen
藤原道山(尺八)、黒澤有美(二十絃箏)、本條秀慈郎(三絃)、平田紀子(十七絃箏)

*本公演の録音を収録したCDが後日発売される予定

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高橋悠治の耳 Vol.9~HIKA・悲歌~ [音楽]

 高橋悠治のピアノコンサート「高橋悠治の耳 Vol.9~HIKA・悲歌~」を聴く。ゲストはギタリストの笹久保伸。会場は三軒茶屋のサロン・テッセラ。<2016年11月6日>

 今回はピアニストに近い席で聴いた。間近で聴くピアノは、音の拡散や指向性が、低音や高音、弾き方などによってさまざまだ。いうなれば散漫で不定形。耳は意識に応じてそれらの音を捕まえ、脳に届ける。リアルタイムでマルチ。その点でCDの音楽というのは、ならして整理・統合されている。スピーカーから出る音はリニアだ。

 レオ・ブローウェルの「10のスケッチ ピアノ曲」は聴きどころの多い、いうなれば多彩な面を持った曲集だった。調性のあるところないところ、情緒的なフレーズ、即興部など、いろいろ興味深い内容。もういちど聴いてみたいが、CDなどは発売されていないもよう。

 高橋悠治の音は、たんたんとした演奏ながらも純度が高い。音楽の核のようなものを的確にとらえている。この人はたぶん若い頃からこのような音を響かせていのではないかと思える。これは音楽に対する姿勢、あるいはそれ以外の思想などから来ている。その姿勢が老練になり、さらに音楽の存在を高めている。

 ギターの笹久保伸は適度な密度をもった演奏を披露した。うち3曲ではギターを弾きながら詩や俳句を読んだ。現代音楽とアンデス音楽を演奏するギタリストとのこと。世界各地の空気を吸収したような響きがあった。ある種の音楽家特有の器用さを備えた人だ。

 高橋悠治は最後に武満徹作曲の「ピアノ・ディスタンス」を弾いた。今年は没後20年。曲目リストには記載されていなかったので、アンコール曲になるだろうか。短い曲だが、高橋悠治が武満音楽をどう解釈したかがわかった気がした。武満徹が江ノ電車内で学生の高橋悠治を見かけたときのエピソードを思い出した。

 小規模なホールは落ち着いた雰囲気でくつろげる。休憩時間に別室でお茶がふるまわれた。いいコンサートだった。

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曲目は以下のとおり。

1. Leo Brouwer「Diez Bocetos」(1961-2007)
レオ・ブローウェル「10のスケッチ ピアノ曲」(キューバの画家10人の肖像)

2. Leo Brouwer「HIKA in memoriam Toru Takemitsu」(1996)

 ピアノ:高橋悠治

3. 高橋悠治「Guitarra」 ギター(詩:セサル・バジェホ)(2013)
4. 高橋悠治「Trans Puerta」 (詩:笹久保伸)(2016)
5. 高橋悠治「柳蛙五句(りゅうあごく)」(俳句:井上伝蔵)(2014)
6. 高橋悠治「653 en cursiva」(向山一崩し書き)(gtr.pno.)(初演)

7. 武満徹「ピアノ・ディスタンス」

 3, 4, 5 ギター弾き語り:笹久保伸
 6 ピアノ:高橋悠治、ギター:笹久保伸
 7 ピアノ:高橋悠治

高橋悠治_サロンテッセラ1.jpg

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