SSブログ

ALFREDO JAAR [ART]

091119_AJ.jpg

 ケンジ・タキ・ギャラリーでアルフレッド・ジャーの個展を見る。'80年代に撮られた、南米チリにある金の採掘現場の写真。泥地の中、たくさんの男達がシャツと半ズボンといった服装で、掘ったり運んだり作業している。山間の谷のような採掘場で働く男達の姿を俯瞰で撮影したカットが2枚並ぶ。ギャラリーの人の話では、ニューヨーク在住のこの作家は、取材をして作品を制作するという。取材先は世界のさまざまな場所に及ぶ。ボートピープルを撮った作品や、その昔虐殺があったアフリカの水辺の写真も展示されていた。
 さて、採掘現場の写真は何を表しているのか。説明を受けなければわからないが、この作品で映し出された男達が採掘した金は、当然それを売買する他国の市場と購入者の元へ届けられる。男達の収入はごくわずかだ。そこに存在するのは、格差という言葉だけでは推し量れない世界の現実。
 ただし彼の行為は取材を基にしているが、ジャーナリズムによるものではなく、現代美術だ。透過フィルム製の写真は内照式ボックスのパネルに貼られ、壁に設置された横長の鏡に映し出される。鑑賞者はボックスの背後から鏡を見るようになるため、写真全体を把握することができない。ボックスの背面に刻まれた+とー。作品は、報道では感じられないイメージを想起させる。

喫茶店 [ART]

 週末、絵画研究所で裸婦を描いている。時間は3時間で6ポーズ。それが終わると、ほかの参加者と連れだって、三鷹の駅前ビルの地下にある喫茶店に行く。喫茶店といってもカウンター席しかなく、周囲は食料品店に囲まれている。デパ地下の食料品売り場の一角にあるような店なのだ。これがヨーロッパだったら、しゃれたカフェのテラス席になるのだろう。
 そこでお茶を飲みながら、絵の話や世間話をする。ほかのメンバーは年上で、最高齢は83歳のO氏。皆プロの絵描きではないが、O氏は麻生三郎などに教わったことがあるベテランだ。昔の自由美術協会や、松本竣介の絵を買った話、中村彝の絵を買い損ねた話などが聞ける。K氏は、バスキアの画集を貸してくれた。K氏の画風はバスキアとはだいぶ異なるので、その名前が出たときは少々驚く。S氏は、色鉛筆で日本画のような絵を描く。どんなモデルであっても、描かれるのは桜色の肌の初々しい女性だ。
 この店がいいのは、いまどき珍しく店員が客の好みを覚えること。若い女性店員は、通って3回目で「紅茶ですか?」と聞いてきた(私はコーヒーが飲めない)。同店の紅茶の味は品がある。そして値段が安い(これが重要)。馴染みの店というのは、気分を落ち着かせてくれる。街に残された数少ない憩いの場だ。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

東京藝大の美術館 [ART]

091012_geidai1.jpg

「異界の風景」というタイトルの展覧会に行く。場所は東京藝術大学大学美術館。副題に「東京藝大油画科の現在と美術資料」とあり、油絵科の現職教員14名の作品約70点と東京藝大美術館収蔵の作品約100点で構成する。そのため、展示品の制作年代や画法はさまざまで、北斎から藤島武二、山崎博まで幅広く取り上げていた。ちなみに藝大では、油絵科といわずに油画科と表記するらしい。
 印象に残った作品を順に挙げていく。まず、藤島武二の「浜辺の朝」と岡田三郎助の「矢口村の朝」。いずれの作品も中間調で淡い。これまでも目にした、日本の古典の油彩に多い色調だが、なにか、色つきのフィルター越しに見る風景のように思える。あるいは、昔の日本は本当にこのような淡い色彩でつつまれた国だったのか。もちろん、欧州と日本では光線が違う。そうであっても、やはり色味が日本画的だ。例えば、フランスの画家の油彩とはどこか質的に異なっている。明治時代ごろの日本の画家は、油彩画を実現するために、独自の色変換を行っていたのかもしれない。
 佐伯祐三の「セーヌ河の見える風景」(1924)。空も街も暗く、河にかかる橋のみが白い。左手前に樹木。この人は、当時のヨーロッパ人と同等の構図感覚を持っている。絵画空間をつくるために、最短距離で絵の具を置く。
 熊谷守一の「風景」(1953)。単純化して構成された独自の画面。輪郭を棒状のもので削って表し、モチーフは色面で表される。中間調の色面が効いている。グレーと朱色、柔らかいかたちが精神の平衡を保つ。
 野田哲也の「Diary:April 22nd '70,in New York(d)」(1970)。この作家には高校時代から注目している。Diaryシリーズはこれまでも見てきた。版画と写真の融合。双方の共通項をとった手法による、日常の標本化とでもいえばいいだろうか。そして、そこに立ち現れる新しい視覚体験。
 山崎博の「水平線採集 III」(1988)。写真美術館などでも見たことがある、海原と空をモノクロで撮影した作品。長時間露光のせいか、波は写っていない。ところどころにかすかな変化はあるが、海は半調で平坦なグレーになっている。大海の水平線と空。遙か太古から続く時間の集積にしばし見入る。現実の海を見るときと同じように、ゼラチン・シルバープリントの前で足が止まった。
 画家の目を通って頭で処理され、表現された「風景」は確かに異界だが、本展が提示する古典と現代との接点がわからなかった。会場全体を横断的に見て「異界の風景」はかろうじて浮かび上がるものの、補助的に掲示されているパネルに記された作家(教員)の言葉の意味は不明だ。東京藝大は日本の油彩画の本流を標榜する大学。それにしては、古典の風景や視点の変遷をアカデミックに解析するわけでもなく、技法や素材の研究過程も説明していない。それならばいっそのこと教員ではなく、最近活躍している卒業生の作品を展示してもよかったのではないだろうか。

091012_geidai2.jpg
美術学部絵画棟は改築中

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

前川 強展 [ART]

091010_yume.jpg

 ギャラリー由芽で前川 強氏の個展を見る。画布の表面を紐状に縫い、横からエアブラシのように絵の具を吹き付ける技法。絵の具を横から吹き付けることで、紐状の部分に影がつくられ立体感がでる。色は茶や原色系。紐は並行に幾重にも連なっている。紐部分のマチエールと色のグラデーションは画面全体に空間をつくった。記憶は薄くなってきたが、これは'70〜’80年代に多く表現され、感じたことのある空間感覚だ。その時代のグラフィックデザインの世界にもこの感覚はあった。ソリッドなのに豊かさをもった表現。久しぶりにそれに出会った気がする。丁寧な仕事だが、大胆に絵の具をたらし込むなど、この作家はさらに新しい試みを行っている。

Gallery 5 [ART]

091003_g5.jpg

 初台のオペラシティー内にあるミュージアムショップ「Gallery 5」に足を運んだ。このショップは、先日書いたアール・ヴィヴァンの流れを汲む「NADiff」(http://www.nadiff.com/home.html)が運営している。店はオペラシティアートギャラリーに隣接する。日本の現代美術関連の書籍が豊富に揃っていて、まとめ買いに向いている。そのほか写真集も充実しており、森山大道の大判の写真集(「記録」などのバックナンバー)が並んでいた。音楽CDは、やはり現代音楽系が中心。品揃えがアールヴィヴァンをほうふつさせる。相変わらず、私の知らない音楽家のCDが多い。ジョン・ケージの「Works for Piano 6」を買う。
 美術家の作った小物を見て、通りすがりの女性がかわいいと言っていた。そういわせるところが、新生アール・ヴィヴァンの狙いなのだろう。HOLGAやAGFAなどのトイカメラを販売している点が、今の価値観を反映している。NADiffの店は現在、Gallery 5のほかに7店舗ある。美術の歩みを見据えつつ進化するミュージアムショップとして、着実に足場を固めているようだ。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

西新宿の現代美術画廊 [ART]

091002_gallery.jpg

 仕事の合間に、西新宿にある2軒の現代美術系ギャラリーに行った。行ったというよりは、通りすがりに見つけたのだ。Wako Works of ArtとKenji Taki Gallery。両ギャラリーとも、同じマンションの1階にある。現代美術のギャラリーが2軒並ぶというのは珍しい。道路側から見ると、双方の部屋がつながっているように見える。ちなみにWakoのほうは、オープンして16年になるといい、すぐ近くにもう1つ展示室があった。会社から歩いてすぐの場所に、コンテンポラリーの画廊が2軒もあるとは意外だった。
 Wako Works of Artでは政田武史の個展。油彩による平面作品が展示されていた。平筆を使った色面的なタッチで画面を構成している。モチーフは、台地のような風景と人物のオーバーラップ、動物の群れ、あるいは人物の顔のアップなど。濃い赤茶色によるコントラストが独特。印象に残ったのは、「もくゆら(mokuyura)」という作品。核爆弾の爆発でできたキノコ雲のようなものと、池の上のたらいに立った人物が重なっている。キノコ雲の「もく」と池の上でゆらめく「ゆら」がタイトルの由来かと思う。不測と不安定さのコラージュ。これは新しい視覚体験だ。
 一方のKenji Taki Galleryで開かれていたのは今村 哲の個展。こちらも平面作品だった。地球と猿のような動物による柔らかなイメージ。人間が宇宙に居住先を移すことについての文章(さまざまな人の話からの抜粋)などが書かれたパネルが展示されていた。
 このところ自分の中で、日本の若い作家による現代美術に対する意識が徐々に変化してきた。これまではけっこう苦手意識があったのだが、彼らが発する「問い」のようなものや、前述した新しい視覚体験を表す作品と対峙したときに、その表現に関心を抱けるようになった(アニメやマンガの要素を取り入れたものはまだ抵抗があるが)。日本独特のコンテンポラリーの土壌が、確かなものとして生み出されつつあるように思う。しかもそれらの作品は偶発的なものではなく、基礎的な修練に裏打ちされている。私としては、奇抜さよりもその点が重要と捉えている。また、画廊というある種の聖域の在り方も、新しい作家とともにこれから変化していくだろう。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

美術展の図録 [ART]

 昨日の話の続きになるが、美術展の会場で売られる図録(カタログ)や書店で販売されている画集には問題がある。それは容易に解決しない欠点であり、私は技術的な改善が図られることを以前から願っている。絵画作品はもちろん実物を見ることが大切だが、海外の貴重な作品を見る機会はそう多くはなく、図録や画集がたよりになる。私は、記録・資料として割り切ってそれらを購入している(入場料と図録を合わせると、たいていは5,000円を超えてしまうのは痛いが)。

 美術展でたんねんに作品を見た後、出口付近のショップで売られている図録を見て、いつも声に出さずに叫ぶ。「こんな色じゃない!」。実物と図録の色味があまりに違いすぎるのだ。もし、昔の画家が自分の作品が印刷された図録を見たら卒倒するだろう。絵画は色彩がなにより重要であり、それが損なわれたとき、構図はおろか作品自体が破綻する。以前開かれたマチス展で、作品と図録の色味の違いにマチスの遺族が抗議し、印刷所が1ページを刷り直して差し込みにしたことがあった。もっともな話だ。マチスの遺族は印刷に対し常に厳しい目を向けているという。

 現代の印刷物はCMYKの4版でプリントされている。Cは青、Mは赤、Yは黄色、Kは黒だ。これらを細かなドット(網点)でかけ合わせてさまざまな色を再現する。現実の色彩や絵画作品の色は極度に複雑だ。本来はそれをCMYKの4色と網点の大きさで表現することに限界がある。また、撮影時のライティングやカメラの設定次第でも正確さは失われるだろう。そして、印刷時に色相や彩度、明るさ、コントラストのいずれかを優先すると、どこかが崩れてしまう。まして、1枚ならともかく、複数の絵画を掲載する図録では作品別に色調を調整するのが難しいことはわかる。それでも、いまの図録の色はあまりに違い過ぎだ。調整の幅はまだ十分にあり、近づける努力が足りない。展覧会の主催者は、図録の色校をていねいに見て、印刷所に指示を出すべきだろう。現状は印刷所の初校のまま、スルーで出版しているように思えてならない。

 相対的にみて、書店で販売されている画集のほうが色味の乖離は激しい。出版社の編集者は無神経だ。刊行することが目的であり、色味の正確さはほとんど無視している。掲載のために取り寄せたフィルムなり画像の色味がすでに崩れている可能性も高いだろう。近年、プリンターメーカーや大手印刷所による絵画作品のデジタルライブラリー化が進み、高い精度でのデジタル化を行っている。望みはそのへんにありそうだ。その成果と技術を応用して、より実物に近い色味の画集を作れないものだろうか。多少高くても売れるはずだ。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

赤い毛糸 [ART]

 ギャラリー由芽で本多真理子展を見る。たくさんの赤い毛糸がギャラリーの白い壁面から縦横に伸び、30kgの重りを床から数センチ浮かせていた。重りは立方体。正面の壁には重りの拓本を貼っている。拓本の色は対照的な青。毛糸は束ねられ、太い針金でできた鹿のオブジェにつながっている。この鹿が毛糸を引いて重りをつり上げているように見える。鹿の体内には皮の鞄が収められ、その中に何が入っているかは不明。赤い毛糸はCGのワイヤフレームのように直線に伸び、一方で毛糸が星のようにも見え、鹿を介在した神話的な作品に思える。ふと、ヨゼフ・ボイスのフェルトを思い出す。作家本人と話をした。毛糸を使ったインスタレーションを野外でも行っている。海外での作品展示の実績もある人だった。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

主体展 [ART]

 友人が出品した作品を見るため、仕事の合間に都美術館へ主体展を見に行く。主体展に足を運んだのはこれで2度目。友人は大胆な原色を使い、色彩と構成、テーマが明確でとらえやすい。社会的なテーマなどは含まず。

 一方、ほかの作家の絵は、暗い色彩や調子のものが多い。場合によってはずいぶん濁っている。油絵の技法に関していえば、本来はもっといい色が出せる。それをあえて使わず彩度や調子を落としているのは、現在の油彩画の風潮なのだろうか。社会的あるいは家族、人間関係をテーマにした作品は色調もさることながら、内容がどんよりと重い。それらは自然から遠く、色彩からも離れた場所にある。感覚に心地よく響かず、無機質なモチーフ。都市に住む人間が描いた絵だ。その半面、夜の団地を正面から描いた作品は重苦しさがなく、印象に残った。

 そういった中でも、自然や木を描いた作品が数点あり、立ち止まってディテールに目をこらす。団体展は最低でも100号の大きさの作品が出品される。自然を描くにあたって、その多くがどうも描き込みすぎ、うますぎのきらいがある。一生懸命緻密に描き込んでいる、という印象を与える絵は秀作ではない。手わざの多さや細かさ、制作時間と、絵画のよさは関係がない。

 色調は似通っているのだが(原色を使う作品がほとんどない)、まったく異なる方向性や独自の空間表現を試みる作品が混在し、作品同士が影響しあっている点で、団体展を見るのは疲れる。画廊での個展であれば、また違って見えるのかもしれないが。100号〜200号程度の大作が延々と並ぶさまは、どうにも圧迫感がある。1階から3階まで、たくさんの作品を少々早足で見て歩いた。展示に閑話休題がほしい。団体展は展示形態を考えるべきだ。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。