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曽根裕展 [ART]

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リトル・マンハッタン

 東京オペラシティ アートギャラリーで開かれている「曽根裕展 Perfect Moment」を見た。ビデオ作品と大理石の彫刻、ジャングルを模した植物と植物模型、クリスタル作品が展示された。この作家のことはまったく知らなかったので、いつものように予備知識なしで作品に臨んだ。
 ビデオ作品の1つのタイトルは「バースデイ・パーティ」。作家の誕生日をいろいろな場所とその場に集まった人々で祝う映像。人々に「Happy Birthday to you〜」と歌ってもらい、ケーキの蝋燭を笑顔で吹き消すことを繰り返す。これはなにを表しているのか。感情の置きどころに軽くとまどう。見知らぬ作家の誕生日を気にとめる人はいないだろう。しかも、異なる場所で個別に祝う行為に虚構性が漂う。共感も否定もわき起こらない表現は、見る者を宙ぶらりんにする。
 もう一方のビデオ作品「ナイト・バス」からは一種の共感を感じた。国外各地の知人に依頼して、バスから見える風景を撮影してもらった作品。外国をバス旅行したことがある人であれば感じるであろう、あの見知らぬ土地への憧憬。つまり、バスの窓から見る風景に、たぶん自分(旅行者)は永遠に足を踏み入れることはない。眺めるだけの一過性の世界。それゆえにわき起こる強い憧れ。それは、スクリーンに投影された映像と変わらない世界なのだ。
 本展のメインの作品は、白い大理石を彫りだした彫刻だ。「6階建てジャングル」「大観覧車」「木のあいだの光 #1」「木のあいだの光 #2」「リトル・マンハッタン」。永続的で普遍性のある素材、大理石で作られた5つのテーマ。2つの「木のあいだの光」以外に共通性はない。特に「リトル・マンハッタン」は興味深く見入った。海底までつながるような地形で表されたマンハッタン島は、ビルの一つひとつまで詳細に彫られ、神殿のような趣さえある。「木のあいだの光」が発する、デフォルメされた現代的な形態感も印象に残った。いずれの彫刻もじっくりと彫られている。あとで知ったことだが、これらの作品は非常に長い期間を経て制作されたという。制作場所は中国などの国外で、現地の職人との協業で作品を完成させている。
 クリスタルでできた植物のような作品「木のあいだの光 #3」は、透明さと永続性を感じる質感が魅力的。照明をうまく当てており、作家の仕事に対する姿勢がうかがえた。
 曽根裕はさまざまな表現手段を用い、世界各地で活動している。私はいずれの作品からも言語抜きの身体性の強さを感じた。コンセプチャルな印象が強いせいか、その無国籍さが作家性をかたちづくっているように思える。小さなところに集約しない開放感と拡散性、フットワークの軽さを感じる展示だった。理想的なグローバリズムといえる。

バーネット・ニューマン展 [ART]

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 東京駅八重洲口の近くから出ている直行バスに乗って、千葉県佐倉市にある川村記念美術館に行った。同美術館では現在、「バーネット・ニューマン展」が開催されている。東京駅から佐倉までは高速を使っておよそ1時間。
 川村記念美術館は以前、大規模なマーク・ロスコ展を開いたことで有名になり、一度訪れたいと思っていた。運営しているのはDIC株式会社。自然に囲まれた庭園内に建ち、敷地には大きな「白鳥池」がある。その名のとおり、白鳥が4羽ゆったりと泳いでおり、時間がゆっくりと進むような静かで落ち着いた場所だ。敷地の入り口には佐藤忠良のブロンズ像が、美術館前にはフランク・ステラの巨大な彫刻が立っていた。
 館内に入ると、まずは古典の収蔵作品の展示室になっている。バーネット・ニューマン目当てに来た意気込みがここでいったん静まる。コレクションは、モネ、ルノワール、ピカソ、レンブラント、シャガール、マレービッチなど。このほか、マン・レイの「赤いアイロン」『筒の中の柄または「主なき槌」』「夢・育児法」にも出会える。これらの展示のあとに、マーク・ロスコの部屋に入る。計7点の大きな作品(シーグラム壁画)に囲まれ、瞑想するように作品と対峙する空間だ。描かれているのは単純な矩形の色面。照明が薄暗いため幽玄とも呼べる印象を与え、崇高な精神性のようなものを感じ、しばしたたずむ。
 2階に上がると、ヨゼフ・アルバースの「正方形賛歌」など2点、サムフランシス、アド・ラインハートの「抽象絵画」、モーリス・ルイスの「Gimel」「ガンマ・ツェータ」、フランク・ステラの大作などが展示されおり、予期せぬ現代美術との邂逅に少々驚く。これほどの作品群があるとは思っていなかった。特に、フランク・ステラの大作9点は圧巻だ。平面5点、立体4点。ストライプによる平面から、ハニカム構造のアルミニウムなどを使った立体まで、いずれも重要な作品で、これらを見るだけでも来た甲斐がある。モーリス・ルイスの2点もよかった。
 そしてようやくバーネット・ニューマンの展示にたどり着く。最初の部屋の真正面に置かれたのは「Be I」(存在せよ I)だ。赤い画面のセンターに「Zip」と呼ばれる1本の線(垂直の要素)。1944年に制作されたクレヨンによる幼児の落書きのようなドローイングはまったく感じるものがない。次に、リトグラフによる「18の詩篇」(1963-64)。主に2つの色による色面。厳密に選ばれた色。順番は忘れてしまったが、さらに「The Name I」「Queen of the Night I」「Primordial Light」「Not There - Here」、鋼材による「Here II」と続き、最後に川村記念美術館の重要な収蔵品「Anna's Light」(アンナの光)となる。大型の平面作品は、思索の末に選ばれたであろう色および色面の対比が印象的だ。彼独特の垂直方向の面の置き方。「Anna's Light」はバーネット・ニューマンの作品中最大とのこと。その赤は日本で言えば「金赤」に近いだろうか、その色面の広さに引きつけられる。赤とバーミリオンの混合。キャンバスの両側に白いスペースがあり、右側のほうが広い。近づいたり離れたり、左右に移動したりしながらこの作品の色と大きさ、マチエールを体感した。ただしこの距離感は、古典絵画を見るのとはまったく異なる。見る者はこの絵からどのような光を感じるのだろう。あるいはこの作品は絵である前に色彩であり、もしくはタイトルどおり光なのか。この赤が光か、物質かという点で幻惑的ですらある。ひとつだけ言えるのは、この作品からポジティブな印象を受けるということだ。このような重要な作品が日本にあるのは驚きだった。
 最後の部屋ではバーネット・ニューマンへのインタビューとドキュメンタリーによるテレビ番組2本が上映されていた。ここに記録された彼の言葉が非常に興味深いものだった。作品のサイズについて、毎回まったく新しい気持ちでキャンバスに向かうこと、自然と離れること、一瞬にして忘れられない絵画、感情など。実は常設展示を見る時間が長くなり、この映像を鑑賞する時間があまり残っていなかった。そのため、インタビュー番組は途中までしか見ることができず。通常私は美術館に行った際、このような映像資料はあまり重視していない。しかしバーネット・ニューマンの話は示唆に富んだ内容だった。例えば、サイズはただ大きくしたのではなく、調和を探るための大きさであり、スケールが関係しているといった考え方。
 私が彼の話の中で特に気になったのは、絵画は1940年に死んだという言葉だ。死んだという表現だったのかは記憶があいまいだが、戦争の始まりとともに終わったという。それは、要するにヨーロッパに流れ続けた絵画の歴史の終焉を指摘したのだろう。バーネット・ニューマンを始めとする米国の画家は、歴史の連鎖から解き放たれた位置から新しい絵画を描き始めたということになる。「毎回まったく新しい気持ちでキャンバスに向かうこと」は、それと密接に関わる姿勢だ。ヨーロッパ絵画のメソッドを断ち切り、新しい色の塗り、白、材質、コンポジション、キャンバスのシェイプ、スケールを発見する。
 よくわからなかったのは、彼がいうところの「感情」だ。文学的な要素や歴史的、社会的な要素を排除したかに見える作品であるにもかかわらず、そこに感情を紡ぐというのはどういうことなのか。「感動」ではなく、感情。前述したポジティブな意識もそれに関連しているのか。この点については、今後さらに考えていきたい。いずれにせよバーネット・ニューマンの作品を見るというのは、モチーフや色、材質、スケールなどの要素において、画家にとって大きな飛躍、あるいは思考のリセットを喚起することにつながる。私にとっては非常に大切な体験だった。

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リチャード・ゴーマン展 [ART]

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 三鷹市美術ギャラリーで「リチャード・ゴーマン II」展を見る。同ギャラリーでは2度目の企画展とのこと。作家はアイルランド出身。技法は、アクアチント、木版、油彩。'90年代初めには福井県今立町に長期滞在し、自ら和紙を漉き、作品を制作したという。
 円と四角をベースにした単純なかたちと単色の色面による絵画だ。どの作品も、幼児の玩具に通じるゆるやかなイメージを醸し出す。ここからなにかを探すでもなく、なにかに置き換えるでもなく、ただ目でかたちを追い、色を味わう。
 近年の作品ほど、形態と色彩の均一化と単純化が進む。2005〜2007年ごろの木版作品(「Big Red」「Big Grey」「Big Orange」)には、形態の不定形さや木目、刷りのかすれがあり、目で触れることができた。2008年以降は記号化が強まる。
 この単純な絵を描くとき、作家は自らのポジションをどこに置いているのだろう。自然や人間、あるいは社会、思考——といった対象すら存在しない場所にいるのか。そうではなく、それらを再構成した末の結実なのだろうか。フロアを回りながら、ついあれこれと考えてしまう。読み解きに陥らずに、視覚だけで感じることも大切だ。リチャード・ゴーマンの絵画がだれかの家の居間に飾られたとき、そこにおのずと答えが現れるのかもしれない。

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染谷亜里可さんの「モンスター」 [ART]

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 昨日、銀座のギャラリーを2軒回った。1軒目は、定期的に行われている友人たちのグループ展。皆同じ大学出身。それぞれ作風はまったく異なるが、共通のテーマを作品に盛り込んでいた。もう一つは、浜田 浄氏の個展。場所はギャラリー枝香庵。この人は、刃物でつけたような細長い切れ目から赤い地の見える版画作品が知られている。最近の作品は、点描のような反復や何層か重ねた画面を木彫りの彫刻のように削ったもの。以前、ぎゃらりー由芽で同氏に会った際、「あなたはなぜ絵を描いているのか?」と尋ねられて答えに窮し、いい加減な理由を返した覚えがある。そんなことは簡単に言葉にできるものではない。もっとも、絵を描く理由があったら絵など描かない。とはいえ、その後も自己の中でこの問いがときどき反響する。自分はなぜ筆をとるのか。絵画を目指すのか。今回も本人が在廊していたが、知人と話こんでいたので、質問されずに済んだ。ギャラリー枝香庵はビルの上階にあり、屋上に通じている。屋上のテラスでお茶をごちそうになり、気持ちのいい時間を過ごす。来客の男性が、最近娘が初めて作品を購入したとギャラリーの女性に話していた。Webの記事によれば、先日開かれたアートフェア東京2010でも入場者が5万人を超え、売り上げも上がったという。このところ、作品の新規購入者が増えてきているようだ。
 今日は、会社の近くのケンジタキギャラリーで染谷亜里可さんの「モンスター」を見る。作家に話を聞いた。作品はベルベットを脱色して制作したという。ストイックな作業とのこと。明かりに照らされた影絵のようなモンスターのイメージが興味深かったが、ベルベット特有の深みと光学的な変化もなかなか魅惑的だった。この作家の内面にあるのは、反転あるいは日常の裏側か。非日常的なモチーフとベルベットという組み合わせから、デビット・リンチを思い出した。染谷さんもこの監督の映画が好きだという。過去の作品では、「ブルーベルベット」の1シーンを描いていた。ベルベットというマテリアルをふすま絵のように使う手法は斬新で深みがあり、幻影のようだった。

ゲルハルト・リヒター展 [ART]

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 WAKO WORKS OF ARTでゲルハルト・リヒター展を見る。ポストカードサイズの写真に、いろいろな色が混ざった油絵の具を擦りつけた作品。写真に写っているのは海や林の風景、家族、犬などさまざま。絵の具で描くのではなく、ときにべったりと、ときにこするように付着させている。そこに見えるのは、油彩を描く人ならばよく知る、パレットの絵の具をナイフでこすり取るときにできる偶然の模様と厚みだ。
 写真に絵の具を付けるとはどういうことなのか。対象を完全に写し取る手法という面で考えると、写真は「写実」だ。絵画は本来それと最も遠い行為といえる。この2つの相反するものを重ね合わせて、浮かび上がってくるもの。写真には写真の深さがあり、油彩には油彩(画家)が感じる深さがある。リヒターの作品を見ていると、写真のほうに思考を向けている気がしてくる。絵の具をいかに厚く塗り、表面にマチエールを付けても、写真という写実の表面に付着しているようにしか見えない。浮かび上がるのは、あくまで写真の世界だ。対象を「描いていない」のだから、当然ではあるが。
 私もよく写真を撮る。絵描きにとって写真とはなんなのだろう。ファインダーをのぞき、シャッターボタンを押すだけで、世界の一瞬を切り取る。そこになにもないかといえばそうではなく、絵画とは別の「感覚」が存在する。撮影者はその感覚を受信するゆえ、シャッターを切る。もちろん、絵画と感覚のほうにこそ深いつながりがあると私は思う。リヒターの作品はそれを揺さぶる。そんなことを考えさせられる展示だった。
 ちなみに、WAKO WORKS OF ARTのRoom2では、彼の油彩画を数点展示していた。赤い板塀のようなイメージに青い色を載せている作品(基材はキャンバス)。灰色の写真を思わせるフォルムのない作品。アルミパネルに、物質感たっぷりに絵の具を厚塗りしてナイフで延ばした作品。「感覚」が見えず、自然から遠い。この作家の手法はリバウンドだ。それをいったら、多くの現代美術がそうなのだろうけれど。見る者に直接表現することはなく、なにかに当てて返す。視覚よりも思考。それは、予備知識を必要とする。

望月厚介氏の黒 [ART]

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 ぎゃらりー由芽で望月厚介展を見る。作家本人とも話をすることができた。紙にシルクスクリーンの作品と、ボードにシルクのインクをペイントした作品。タイトルは「Appearance・Disappearance」。すべての作品で、黒の表現が印象に残った。
 シルクスクリーンでは画面の半分から9割近くが黒で占められ、その背後に赤や黄、青が見える。シルクスクリーン用インクの隠蔽力は強い。その物質感はもしかしたら油絵の具以上かもしれない。作家は黒インクを何度か重ねることでさらに深い黒の濃さを生み出していた。また、地ともいえるような赤や青などの色にはテクスチャーを表すようなイメージがあり、なんらかのマチエールを示している。フィルムによる刷版はこの色のイメージの1版だけだという。黒の部分はベタ版であり、そこではインクをのせてスキージー(刷るときに使う道具)の加減でグラデーションをつくるように刷っているとのこと。イメージを静かに想起させる黒。現れることと引き込まれること。
 ボードの作品は、やはり黒のインクをかなり塗り重ねている。そして、削られた部分からわずかに下地の色(赤や青や黄色)が見える。黒を黒として成立させるには、それ以外の色による下地が必要なのだ。いうなれば、スミ1色ではなく、CMYKの掛け合わせのようなもの。ごつごつしたマチエールに線の溝が等間隔で引かれている。フランク・ステラのブラックシリーズを思い出した。しかし、あのミニマルでアメリカ的な質感とは異なる。石に近いような黒。
 おせっかいで軽はずみな光に満ちた現代において、漆黒の闇のような黒は希有だ。黒が表すもの。想像すること。作家と黒についてしばらく話をした。黒への強い希求。やってみたいとは思うのだが、私には手が出ない領域だけに、興味深い仕事だった。

田島秀彦の個展 [ART]

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 ケンジタキギャラリーで田島秀彦の個展を見る。
 ランプシェードにたくさんの小さな蝶が付いた裸電球。それらが連なり、天井からぶら下がっている。その横に、2段に重なって置かれたダイニングテーブル。床とテーブルの上にそれぞれ、テーブルクロスや花瓶、グラス、皿、調味料入れ、ナイフ、箸などが等価的に置かれていた。醸し出されるのは、日常的で明るい色彩と空間。テーブルの中央にいる虫のようなオブジェが1つ、何かの仕掛けで動く。テーブルからはときどきゴトゴトと不思議な音がした。
 壁に展示された数枚のパネルにはタイルを模したような地が描かれ、小さな穴にはめ込まれたグラスファイバーの光が様々な彩りで変化する。パネルの中からは、モーターが回るような音がかすかに聞こえた。タイルの柄は伝統文様的でもあり、遠い世界を表しているようでもある。タイル地の上に細かく描かれているのは、戦艦や戦車、飛行機のイメージだ。それは、子供の頃ひとり遊びしたオモチャの世界に通じる。
 作品のタイトルは、裸電球が「なんてことない思い出」、ダイニングテーブルが「What a wonderful world」、パネルが「playroom」。これらの作品が置かれた空間にあるのは、止まった時間だ。そこには、過去の記憶が過去にも行かず、未来にもならずに滞留している。テーブルから聞こえるゴトゴトという音が、記憶のイメージを増幅させる。普遍化した日常を感じ、ふと思い出したのは「2001年宇宙の旅」の一シーン。おそるべきイメージの洪水から抜け出た主人公がいるのは、静まりかえったモノトーンのダイニングルーム。そこで年老いた男がひとり食事をしている、あの終盤の印象的な場面だ。
 思えばわれわれの精神は、家にいるときは常に、何事かから離れた突き抜けた世界にあるのかもしれない。子供のころは、家に限らずどこにいても、「社会」とは別の立ち位置から世界を把握し毎日を過ごしていた。田島秀彦はその感覚を捉えるモチーフをていねいに見つけ出し、時間を止め、作品としてわれわれの前に提示している。それは、ある種の時間芸術と呼べるものだろう。

木村くんと川見くんと [ART]

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 ケンジタキギャラリーで二人展「木村くんと川見くんと」を見る。木村氏は彫刻、川見氏は主に平面。両者とも'80年代前半の生まれで、愛知県在住。作品はいまの若手作家に多く見られるゆるい?空気感を漂わせていた。木村氏の彫刻は木の幹の断面や角材に猫の顔が付いている。猫の目線が気になる作品。さらに、下向きの荒削りな木彫頭部を壁に設置。そのほか、ポップコーン、スナック、パスタ、柿ピーの実物大オブジェ。
 川見氏の、パネルにペンキで描かれた「地方の家」。省略した色面で表現した、少し前の日本に多く見られたごく普通の家屋。そこから幾何学的な形態を読み取っている点が興味深かった。日本人の持つ、装飾性や様式美のないごくありふれた建物感覚が浮き彫りになっている。ポイントはその「ありふれた」風景に秘められた特異性にあるのだろう。風景に隠された断層を見つけることも芸術家の仕事だ。

「ターナーから印象派へ」展 [ART]

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 府中市美術館で「ターナーから印象派へ」展を見る。主に19世紀の英国で制作された風景画が展示され、そのうちターナーの作品は水彩画4点、油彩1点。まとまった規模の英国風景画の展示として見応えがあった。また、印象派の作品として、ピサロやゴーギャン、ギュスターブ・ロワゾーの作品も展示された。
 英国の風景画の特徴は、大気と雲、空、風を表現する目の確かさにある。アンソニー・ヴァンダイク・コプリー・フィールディングの「海岸風景」(1834年)、ジェイムズ・ベーカー・パインの「コブレンツとエーレンブライトシュタイン」(1848年)。これらの絵でわかるように、英国特有の変わりやすい天候が繊細な筆で描かれ、そこに表れた自然の感じ方には日本人に通じる点もありそうだ。サミュエル・ジョン・ラモーナ・バーチの水彩「木のある風景」は、すでに現代の目で描かれている。
 ターナーの絵では油彩がよかった。「タブリ・ハウスー准男爵J.F.レスター卿の屋敷、風の強い日」(1808-09年)。この大作にも、前述した大気と雲、空、風、そして光が鮮明に描かれている。ほかの作家の作品と大きく異なるのは、白から中間調に至る雲の表現だ。特に、画面左側に描かれた灰色の雲のマチエールと筆跡が非常に堅牢であり、普遍性を感じる。
 ピサロの油彩「ルーヴシエンヌの村道」は、調和を図りつつ置かれた色調の中にも多彩な色合いがあり、相互に作用して深みを生み出している。これはセザンヌも学んだ点だろう。ただし、構成として水平と垂直は意識されているが、強くはない。ゴーギャンの油彩「ディエップの港」(1885年)は、あの輪郭が表れていないぶん、絵画として色調に見るべき点があった。
 英国画家の大気や光の表現と19世紀後半のフランス印象派の仕事には確かに通じるものがあると思う。印象派は、さらに色彩を感じ、色彩とデッサンで表していくという点で発展していった。それと同時に私が最近考えているのは、1890〜1900年ごろを境に、風景を見る画家の目が大きく変わったのではないかということだ。それはとらえ方であり、視点でもある。具体的にいうことは難しいが、たとえば、焦点の合わせ方や構図の切り方、色調の整え方だ。カメラ的な、あるいは現代的な視点とでもいえばいいだろうか。1900年以前と以後では、なにかが決定的に違っていると感じることがある。この点については今後も考察したい。

ヴェルナー・パントン展 [ART]

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ファンタジー・ランドスケープ

 オペラシティアートギャラリーでヴェルナー・パントン展を見た。展示されたのは、彼が設計した椅子と照明器具のほか、ドローイングやテキスタイルなど。'60年代デザインの高揚感とファンタスティックさを感じさせるフォルムと空間、色彩。特にプラスチックの使い方が新鮮だ。パントンはデンマーク生まれ。私は本展で彼の名前を初めて知った。主に椅子や家具、照明、テキスタイルをデザインしたが、自らを建築家と称していたという。よく知られているプロダクトは、プラスチック一体成型の椅子「パントンチェア」だ。
 ヴェルナー・パントンが選ぶ色彩は赤やオレンジ、青など原色に近い。しかしその配色には、安らぎや心地よさを感じさせる暖かみがある。フォルムには過度な刺激がなく、北欧特有の穏やかな佇まいと大胆な形態がうまく融け合っている。照明器具は、ランプを直接見せない配慮がなされていた。
 ギャラリー内に再現された「ファンタジー・ランドスケープ」を体験した。これが本展のいちばんの目玉だろう。赤から青のグラデーションの布張りによる曲面で構成した、洞窟あるいは細胞の中のような空間(インナースペース)。その曲面に身を委ねてみる。時間の流れが遅くなり、色彩と薄暗い照明が心地いい。ただし、曲面は必ずしも自分の体にフィットするわけではない。
 雑味や自然素材を排除し、完全に頭の中で作り出した世界を実現しているにもかかわらず、現代社会を取り囲んでいるような閉鎖的な印象がない点が不思議だった。それは、家具や照明、テキスタイルを作ることにおいて彼が何を目指していたかによるところが大きい。展示されていたドローイングには共感するものがある。パントンの仕事の功績や影響は現在ほとんど見かけないが、'60年代生まれの私の記憶にその感覚が確かに刻まれていることを実感した。

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パントンチェア

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Swimming pool, Spiegel publishing house

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