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福島第一原発1号機の欠陥 [原発]

 緊迫した状況が続く福島原発。周知のとおり、事態は長期戦になる。現場では東京消防庁の消防士や東電の下請け社員、自衛隊などが命がけの復旧作業を行っており、その姿勢には敬服する。
 これとは別に、地域における放射能の拡散や原子炉のさらなる暴走の危険性を考えたとき、もはや30km圏以上の市民も避難させる段階に来ているのは間違いない。社民党の福島みずほさんやソフトバンクの孫社長たちも提言しているとおり、即刻避難させるべきだ。特に、甲状腺に影響の出やすい乳児、妊婦のいる家庭は猶予がない。放射線を浴びた子供の甲状腺がんは、すぐにではなく4〜5年後から発病するという。政府もNHKもその点にはなぜか言及しない。
 また、すでに40年も稼働している第一原発の1号機原子炉を設計した米国GEの設計者はCNNの番組で、同機(Mark I型)の構造上の欠陥を指摘し、冷却システムに異常があった場合、圧力上昇に耐えきれず非常に高い確率で爆発が起きるだろうと悲痛な面持ちで語っている(Mark I型に関する記事・英文:http://www.nytimes.com/2011/03/16/world/asia/16contain.html)。これを想定した場合、「避難させすぎ」ということはなく、米国が避難範囲を早晩半径80km圏内に設定したのも理解できる。海外のほうが、日本の危機的状況を冷静に把握しているのだ。
 私はいまの日本のリーダーには期待していない。菅直人の顔を見れば明らかだが、ほとんどが鈍感な保身型だからだ。それは悪い意味でのサラリーマンであり、高い志やビジョン、危機意識を持っている人間ではない。自分の立場や組織を守ることが優先で、市民の安全は二の次。企業の社長を含め、こういうタイプの人間が舵取りをする現在の日本においては、多くの局面で責任の所在があいまいになる。事故やうまくいかない事案があった場合、最終的にだれの責任であるかが明らかにならないような構造になってしまっている。皆、失敗を恐れ、他者の失敗を許容しない。それが積もり積もって、さらに大きな事故を生む。
 メディアはどうか。これも周知の事実だが、多くのメディアはいまや骨抜きで、その姿は軟体動物だ。テレビ、新聞、ラジオ、雑誌——これらは皆、広告費を生計の頼りにしている。年間280億円を超える広告費を使う東京電力はどのメディアにとっても大口のクライアント、お客様である。こんな状況でジャーナリストとしての本来の記事をつくれるはずもない。必然、メディアには原発推進派の学者ばかりが登場する。これらの学者もほとんどは「御用学者」だ。彼らの言う言葉はみな決まっている。放射能については「ただちに健康に影響を及ぼすものではない」。原子炉事故については「これ以上ひどくはならない」。津波については「予想外」。
 東京電力と原子力安全・保安院、民主党上層部は同類であり、利権を優先するサラリーマン集団にすぎない。安全・保安院の面々を見ると、東電の付属物であることは明らかだ。彼らにこのような緊急時の判断を任せること自体がすでに危険である。危険予測の意識や放射能への怖れを持たない連中が、深刻な危機への対処などできようはずもない。彼らのやってきたことは、補給を考えずに東南アジアに侵出した太平洋戦争の愚策と同じだ。最後は市民が大勢犠牲になる。
 いまとなっては、政府が発表する避難プランを信用している日本人は一人もいない。放射能の拡散状況を知らせる「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム」(SPEEDI)による測定状況は、昨日になってようやく公表された。国民に知らしめるのに何をためらうことがあるのか、大いに疑問だ。
 放射性物質の拡散は半径○○kmで示せるはずもなく、風向きや地形で変わる。フランスなどは、早々に拡散状況の動画を公開している(http://xenovia.exblog.jp/13226671/)。人々は、政府は信用できない、なにかを隠している——と言うが、そうではないだろう。政府も東電も、この事態を把握できず、なにが起きているのかが分かっていないのだ。もはや、一民間企業にすぎない東電や素人集団の日本政府に任せるレベルの事故ではなくなった。これは世界的な規模の事故だ。早急に米国やフランスなど、国外の第三者機関に協力を要請すべきだ。このままでは、事態は悪化するばかりだろう。GEの技術者の懸念が現実になったとき、残念ながら東日本は第二のチェルノブイリと化す。その確率は現在非常に高い。
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福島第一原発3号機のMOX燃料 [原発]

 これまでメディアで報じられてこなかったが、地震で被災し、制御不能の渦中にある福島原発3号機は、燃料の一部にMOX燃料(ウラン・プルトニウム混合酸化物)を使っている。これは、使用済みの核燃料からプルトニウムを抽出しそれを再利用したもので、いわゆる「プルサーマル」と呼ばれる技術だ。ちなみに、3号機以外の原子炉は燃料としてウランを使っている。
 プルトニウムは、ウランよりも放射線量(中性子)が格段に多く、危険性も高いという。毒性の強いMOX燃料の使用は原発反対派に指摘され、一部の人々の間では大きな問題になったが(世間のほとんどの人は関心を示さなかった)、結局昨年10月から3号機で利用が開始された。この点で、福島第一、第二原発の中では、3号機が最も危険な原子炉と言えるだろう。
 3月12日に1号機、3月14日に3号機の建屋がそれぞれ爆発で吹き飛んだとき、私は本当に背筋が凍る思いがした。200km圏内に高濃度の放射性物質が拡散する大惨事を予感したのだ。発電所付近の人々はほぼ死亡するという予測を反原発グループ作成の資料で以前読んだ。幸い、それはいずれも水素爆発によるものだったことがわかり、とりあえず難を逃れた。不幸中の幸いとはこのことである。
 しかし、いまもって予断を許さない状況である事に変わりはなく、今日3号機およびその中央制御室に外部電源が通電したとはいえ、冷却装置はいまだコントロール下にない。東京消防庁が必死になって続けている貯蔵プールへの注水作業はあくまで一時的な措置だ。圧力容器内にあり、ウラン燃料よりもさらに高熱を発するMOX燃料は手強い敵といえるだろう。もしメルトダウン(炉心溶融)が進み、MOX燃料が圧力容器を漏れ出て、格納容器内の冷却水と接触した場合、水蒸気爆発を起こす。これは最悪のシナリオだ。さすがに、学者も政府もこれまでそこに言及してこなかった。しかし、メディアはこの点をきちんと国民に伝える義務があったと思う。最悪のシナリオが現実になった後で、「実はプルトニウムでした」では済まされない。人命も多く犠牲になる。
 米国が当初、避難地域を80km圏内に設定したのは、同国がこの事故の深刻さを(日本政府よりも)認識し、さらには3号機のMOX燃料使用を知ってのことだったからではと私は思っている。横須賀に駐留する米軍の人員を避難させているという情報も届いた。電磁波の人体への影響問題も同様だが、日本の学者や技術者、産業界、そしてそれにつられて政府機関は、危険の基準を甘く見積もる傾向が強いようだ。それは要するに想像力が欠如し、人命を軽視しているからにほかならない。
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福島県への風評 [原発]

 今日読んだTwitterのつぶやきの中に、福島県に関する風評の話が3つあった。物資を積んだ輸送トラックがいわき市に入るのを拒んだ件や、福島からの製造品(製材)を使わない話など。これは原発という存在の危険性(有事)を考える過程で予想されていたことだ。ひとたび原発事故が起きれば、放射性物質という見えない毒物が拡散する。当然人々はそれを恐れ、国や県外の市民は「自粛」などという言葉を使って、事故が起きた土地に対し出荷品などを制限させるだろう。あるいは市場が受け付けない。たとえ放射性物質の心配がまったくなかったとしても。それが世間というものだ。念を押すが、福島原発で発電した電力はすべて東京を中心とした関東圏に送られ、関東の人々が消費してきた(地元の福島には1Wも供給されず)。東京都民をはじめとする関東圏の市民は原発事故を他人事と思ってはならない。
 今回の原発事故による大きな被害に関して、福島県は東京電力・国に損害賠償を請求することになる(福島県は原子力事業を容認してきたので、原告は周辺の市町村になるだろうか)。それは正当な要求だ。東京電力・国は絶対安全というふれ込みで、反対派住民の指摘を無視ながら、大熊町・双葉町・富岡町・楢葉町に原子力発電所を建設したのだから(一方でこれらの町の町民が原発で働いていた事実も物事を複雑にさせる)。地元住民は将来にわたる損害に関して補償を求めるべきだ。風評被害も含めて、経済的には大きな打撃を受けるだろう。長い戦いになるかもしれない。
 東京電力らに対する賠償請求をする段階では、被害を明確化するために放射性物質の存在を明らかにする必要が出てくる。それは、一方で風評被害を招く行為にもなる。賠償問題が世間の話題に上るたびに、県内の放射能被害状況がクローズアップされるため、地元からすれば、できれば表沙汰にしたくないということになるかもしれない。放射線量に関して県外の人々は敏感に反応するはずだからだ(とはいえ、世界各地で原水爆実験が行われていた1960年代のほうが、われわれは放射能汚染を受けていたらしい)。この点で福島県は茨城県や新潟県を始めとする原発立地地域とともにネットワークをつくるべきだ。
 東京電力・国・保安院は、今回の事故の原因を大津波のせいにするだろう。しかし、いかなる理由にせよ、「安全神話」(どんなことがあっても原子炉をコントロールできるという考え)は崩れ、多大な犠牲を生んだ事故は起きた。これまでも幾度となく問題点・危険性を指摘されてきた施設であるだけに、これは天災ではなく、あくまで人災だ。ちなみに昨年6月17日、第一原発の2号機が今回と同様の外部電源全喪失事故(http://skazuyoshi.exblog.jp/12974707/)を起こしたことを忘れてはならない。東電は今回その教訓を生かしていなかったことになる。
 東電の自滅した原発4基はいまだ危機を脱していない。もはやここまで事態が悪化してしまったら、ただただ好転を願うのみだ。最悪のシナリオはいくらでも描ける。なにがなんでもここで食い止めなければ、東北地方全体が人の住めない土地になってしまうだろう。それを成し遂げるには、作業員や自衛隊員、消防団員たちの生命の危険を引き替えにしなければならない。これまでも原発は、多くの作業員の被曝によって成り立ってきたのだが。
 東京電力は自らの過信とおごりによって原発を廃炉に追い込んだ。事態が収束したならば、地元は原発施設と放射性廃棄物の撤去を東京電力に要請せよ。原子力発電のあらゆる痕跡を残さないように。石棺は許さず。撤収は海路を使い、部材は東京が引き取る。福島県は放射線測定機器をそろえ、同県の生産物や地域の安全性を示すステッカーやサインを貼付・表示できるよう、いまのうちから方策を準備すべきだろう。風評の芽を摘むのは早いほうがいい。困難なことではあるが、福島県からいまわしい核の影をすべて払拭しなければならない。
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福島原発の最期 [原発]

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 以前から懸念、指摘していた危険が現実となった。福島県の浜通りにある東京電力福島第一原子力発電所の地震事故。いまこの発電所で起きている危機に、日本中どころか世界中が注目している。

 このブログでも以前書いたが、私はその浜通りの出身で、20代の半ばごろには第一、第二原発をはじめ各地の原発で仕事をしたこともある。ただし、私は原発に特別詳しいわけではない。科学的に危険性を証明できるほどの知識を持ち合わせてはいないが、ある時期から原発の建設・運用には反対してきた。

 なぜ、反対なのか。その理由は単純だ。「原子の火」は人間の手に負えるものではないと考えるからだ。まず、この発電所で扱う核燃料棒や生成される放射性廃棄物が人間の手に余る危険物であるということ。原発から出た廃棄物をガラス固化で封入して地中深く埋め、数万年もの間眠らせておくという手法がすでに破綻している。危険物を次世代になすりつける行為はつまり、問題を先送りし今さえよければいいという発想だ。

 また道義的な面でも、核を利用することが許せない。日本は世界で唯一核攻撃を受けた国だ。広島、長崎の十数万人の市民は放射能で亡くなり、いまも苦しんでいる。ビキニ環礁沖で被曝した第五福竜丸も忘れてはならない。その国でなぜ、核を利用するのか。しかも核技術を商売にすらしている。この矜持のなさ。

 次に、私は電力会社が信用できない。安全だと言いながら、電力の消費地ではなく、はるか230kmも離れた地方の自然環境を破壊してそこに施設をつくる(福島原発で発電した電力はすべて東京に送られる)。この時点で相当胡散臭い。人間はミスを犯す。原子の火の場合、ミスはすなわち破滅を意味する。修復や後戻りはできない。原子力発電所は閉鎖社会だ。周知のとおり、事故隠しは長い間常態化してきた。私が以前地元で聞いただけでも、年に1、2度は大きな事故が起き、放射能を含んだ水蒸気を浴びた作業員が救急車で運ばれることなどがあったという。それらはニュースにならず、世間に知れることはない。表沙汰になったのは、東海村の臨界事故くらいなものだ。実際には昨年の6月、福島第一原発の2号機で、原子炉が緊急停止する事故(福島第一原発2号機 原子炉外部電源全喪失事故)が発生している。このときも、実は炉心溶融の一歩手前まで行っていたことを知っている人は少ないだろう。そのうえ、先月に公表された、国内各地にある原発施設でのたくさんの点検漏れ。これは日本の各地域における1社独占による閉じられた電力供給事業の弊害でもある。

 ちなみに以前福島第一、第二原発で仕事をしたとき、私は元請けに見積書を提出した。いつものように値引きを要求されるものと思い(かつ中間業者がいない分)、かなり割り増しした金額を提示してみた。すると、それが満額回答で通ってしまった。当然、元請けはその金額にさらに上乗せして発電所の関連会社に請求したはずだ。原子力事業というのは、世間一般とは違い、予算が潤沢にある緩い世界なのだということを知った。チェックが甘いどころか、チェックがない。

 そして、自然。東京電力やGE、東芝、日立などのメーカー、歴代の福島県知事などは、自然を甘く見て、一方で人間の技術を過信してきた。原子炉には二重三重あるいはそれ以上の安全機構があり、バックアップの体制は万全。たとえ巨大地震が来ようと、そう簡単に制御不能になるものではないと思っていたのだろう。昨日も書いたが、自然というのは人間を生かしもするが、殺しもする。自然とは恐ろしい存在なのだ。例えば、海を知る人間ならば、海の怖さは経験済みだ。小さな波が幾度となく続く中で、突如大きな波が来ることがあり、油断している人間を呑み込む。外洋では、高さ十数mに達する三角波という波が発生する場合があると、元船乗りから聞いたことがある。この三角波に乗ってしまったら、大きな船でも二つに折れるという。今回の地震では、高さ約14mの津波が福島原発を襲った。同原発が想定していた津波の高さは7mだという。私が東京電力に言いたいのは、自然というのは常に「想定外」だということだ。

 福島県沖を震源とする少・中規模の地震が、これまでもときどき発生していた。頻度は年に1、2度程度。そのときの震度は3〜4だった。そのため、この地震を気にとめていたのは少数の人間だけだったろう。一見、福島県の海岸部は地震が少なく安定しているように思える。しかしそれは誤りだ。この日本で地震の心配のない地域は存在しない。今回、東北の太平洋側に長さ500kmにおよぶ震源域があることが明らかになった。ほかの地域の電力会社と原発地域住民は肝に銘じておいたほうがいい。

 「FUKUSHIMA」の名前は不名誉な記録として、世界史に刻まれてしまった。チェルノブイリ、スリーマイル、そしてフクシマ。もちろん、原発を受け入れた県民側にも責任はある。それを思うと脱力感を覚える。私はこの数日間、脱力に加えて、身体の芯から疲労を感じている。福島原発に次々と発生する負の連鎖。いわきにいる両親のことを思うと暗たんたる思いだ。いま現在、この連鎖を止める目途は立っていない。人間の手に負えない「核分裂」という怪物が暴れている。この怪物を退治して事態を収拾し、福島原発の最期を迎えることはできるのか。
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上関原発 [原発]

 山口県に計画されている上関(かみのせき)原発の建設工事が、近隣住民の反対を押し切るかたちで強行されたという。大手メディアはこのニュースを報じておらず、私は今朝Twitterで知った。
 原発を建設しようとしているのは中国電力。反対住民は主に対岸の祝島(いわいしま)の人々だ。遠い土地のことなので詳細は不明だが、Twitterのコメントによると、電力量が十分足りている状況にもかかわらず、中国電力が瀬戸内の自然を壊すかたちで沿岸に原発を建設する計画だという。発電した電力は、広島・関西方面に供給される予定。
 原子力発電所については、私もこのブログで福島第一、第二原発の運転反対を表明してきた。福島は私の出身地だ。なぜ反対なのかを簡単に言えば、原発が制御不能の技術だからだ。人間がコントロールできる代物ではないと思っている。まず、どこでも大地震の震源地になり得るこの国で原発という箱物は危険性が高すぎる。次に、技術的に運用に無理がある。閉鎖的な環境での作業ゆえ原子炉のトラブルの報告は後を絶たず、さらには設備の老朽化の処置すら不明だ。また、原子炉附近で作業をする作業員は放射線被爆する。そして、人的ミスは絶対起きないとはいえず、最高度に難しいオペレーションをいまの人間がこなせるとは思えない(参考: http://skazuyoshi.exblog.jp/13651699/ http://skazuyoshi.exblog.jp/14055798 )。
 なによりも、原発の稼働によって排出されるたくさんの放射性廃棄物自体が人間の手に負える物ではないのは明らかだ。地中深く埋めて、放射能が軽減するまで何十万年も放っておくという発想がすでにおかしい。ちなみに、福島県の双葉郡に残る固体放射性廃棄物は2008年の時点で約23万本だ。地中深く埋めれば安全といって、何万年の間、地殻変動がないと言い切れるのだろうか。同時に、何万年後の人間に申し送りができると思っているのか。要するに、原発を推進する人間は自然を侮り、想像力がない。
 原子力発電所でいったん大事故が起きれば、例えば、半径30km圏内にいる人々の多くは即死する。そして半径100km圏内に放射能被害が及び、数十万年にわたり立ち入り禁止だ。故郷には二度と帰れなくなる。
 さて反対しているが、このブログを書いているパソコンを動かしている電力のいくぶんかは、福島県双葉郡などの原発でつくられたものなのだろう。われわれは電気の発電元を選べない。これだから世の中はややこしい。原発の電力を拒否するならば、自宅に太陽光発電装置を備えてそれですべてを賄うか、使用量を上回る電力を東京電力に売るしかないだろう。残念ながら、わが家はアパート。自主的にソーラーパネルを取り付けることはできず。仮に持ち家だったとしても、それだけの出力のパネルを備える金はない。
 上関原発の建設現場では、およそ400人の中国電力社員、作業員、警備員と、数十人の反対派住民が対立しているとのこと。中国電力は数で強行突破しようとしている。このほか、交付金目当ての団体や賛成派住民も多いらしい。司法も中国電力に味方する。これでは、中東の独裁政治や中国の言論弾圧とさほど変わらないだろう。反対派住民は持ちこたえられるか。想像力のない相手は手強い。
 
 
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福島第一原発2号機の憂鬱 [原発]

 子どもの頃、父に連れられて福島県の原子力発電所のPRセンターに行ったことがある。そのときの私は小学校2、3年だったか。今から40年ほど前の話だ。できたばかりのその施設は、地元市民に対し、原子力発電の素晴らしさと安全性を伝えるために造られたものだったのだろう。子どもにとってはちょっと想像できない未来的な技術の説明が、真新しい内照式パネルなどで表示されていた。その中で特に印象に残っているのは、原子炉の断面を示した大きな模型だ。制御棒を中心として、原子炉にはたくさんの配管がつながっていた。少量のウランと蒸気で電気が生まれるのが不思議な気がした。
 それから20年後、仕事で行った福島第一、第二原発。そのときの私はすでに、スリーマイル島やチェルノブイリの事故を知った大人になっていた。クライアントの担当者が広い敷地の中に立てられた四角い建物を指さし、あれが原子炉ですというようなことを言った。あそこに、あの模型で見た原子炉が収められているのか、とクルマの中から眺める。しかし、半分腰が引けていた。発電所にいる間、常に放射能のことが頭を離れなかった。私は原子力発電に疑いの目を向けていたのだ。現場に集まった職人たちに指示を出し、作業の段取りを確認してその場を後にする。敷地内に放射性物質が転がっていることはないのだろうが、そこで1〜2週間ほど仕事をする職人たちを残して立ち去るのはなんだか申し訳ない気がしたのを覚えている。その後は茨城の東海村や原研、新潟県の柏崎刈羽なども回った。後年、東海村において人為的なミスで臨界事故が起きたのは周知のとおりだ。
 故郷の近くに原発があることを考えると憂鬱だ。ときどき福島県沖で地震が発生すると、真っ先に震度を知りたくなる。いまのところは3〜4だが、いつそれ以上の震度になるかはわからない。地震がなくとも、先週は原子炉が自動停止する事故(外部電源喪失事故)が起きた。実は、メルトダウン(炉心溶融)の手前までいっていたらしい。メルトダウンまで行ってしまったら、私の父母の命にかかわる。そして、二度と故郷には帰れない。いまは皆、電子機器や電気自動車に目がいっているが、それらは非常に危険な原子力発電という仕組みのうえで成り立っているのだ。
 先週発生した福島第一原発2号機の外部電源喪失事故について、いわき市議会議員・佐藤かずよし氏が以下のブログで報告している。 http://skazuyoshi.exblog.jp/12828796/

参考:「原発がどんなものか知って欲しい」http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html


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