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イーヴォ・ポゴレリッチの「ラ・ヴァルス」 ピアノ・リサイタル2017 [音楽]

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 サントリーホールにてイーヴォ・ポゴレリッチのピアノリサイタルを聴いた。ポゴレリッチの演奏会に足を運んだのは今回で3度目。初めに断っておくと、私はクラシック音楽については素人だ。演奏技術や様式、音楽史についての知識はあまりない。そのため、以下に書くことは印象に基づいており、かなり主観的だ。言葉の不足は、私が携わっている絵画を例にしながら補ってみたい。

 ピアノ音楽の歴史の厚みを受け継ぎつつ「壊すことの中から新しい音楽を創り出す」。ポゴレリッチが目指すのはそういうことではないのか、と私には思える。彼はロシアやヨーロッパに流れるピアノ音楽の後継者としての修練を重ねたうえで、なにかを壊し、そこからより確かなもの、より堅牢なものを創り出そうとしているように感じられるのだ。この場合の壊すというのは、表面的な解釈にとどまらず、常にいまよりも深く楽曲を掘り下げ、演奏することを指す。

 美しさと品格。どれほど秀でた演奏であろうが、曲の斬新な解釈であろうが、憧憬と呼べるほどの美しさがなければ音楽とはいえない。そして、演奏者としての品格。品格という言葉が適切かはわからないが、ここには演奏家の孤高なる精神や厳しさが含まれる。私がポゴレリッチの演奏に惹かれたのは、なによりもまずこの二つが際立っているからだ。それを支えているもの、会場で起きていることを、彼が放つ圧倒的な音楽を聴きながら理解したい気持ちが湧き上がる。もっとも、彼の演奏に拒絶反応を示す人もいるだろう。従来のピアノ音楽からすれば、彼の音楽は特異な次元にあることは確かだ。

 音楽を評価する際に「音の粒立ち」という表現がときおり使われるが、ポゴレリッチの場合、厳密にいうと「粒」ではない。その演奏を聴くと、一つひとつの音がなにか、立体的なブロックのようなかたちに見えてくる。絵画においては、セザンヌやゴッホなどのポスト印象派に見られる「筆触」「タッチ」「色斑」というものに相当するだろうか。それは、彼の演奏の一音一音が非常に明確であるがゆえなのかもしれない。ホールに弾き放たれる大小の立方体は、それぞれが代替え不可能で確信的な真実、本物だ。それらが暗闇のなかから明瞭に耳に届き、心の中に音楽を創りあげる。彼の音楽は「現象」としてその場に立ち現れるかのようだ。聴衆はその現象の場に立ち会う。現代アートのインスタレーションのように、「目撃する」といったほうがふさわしい気がする。

 私はたくさんのピアノ演奏を聴いてきたわけではないが、ポゴレリッチほど一音一音を大切にしているピアニストはいないのではないかと思う。それでなければ、あれほど明確な音を紡ぐことは不可能だ。すべては曲の解釈と指のコントロールにかかっている。そのコントロールは才能はもちろんだが、特別なメソッドと相当な練習量がなければ実現しないだろう。頭脳と身体の両方で出来る限り譜面を吸収し、演奏しているように見える。

 一音を大切にすることは、音楽のテンポと密接に関係しているように思う。彼は無意味な「速弾き」はしない。遅いテンポは時代に逆行しているようだが、実際には音楽をゆっくり奏でることは相当難しいだろう。素人目には「間が持たない」。ゆっくりとしたテンポで演奏できるということは、それだけ楽譜に刻まれた音を把握しているからではないか。絵画も同様に、画面を筆致で埋め尽くすことは容易だが一筆一筆に緊張感をもたせた場合、描かない部分が非常に重要になる。つまり絵画は「塗り絵」ではないといいことだ。

 画家はモチーフを見て、それをいったん頭の中(感覚)に通し、変換したうえでキャンバスに対象を実現する。同じことをポゴレリッチも行っているのではないか。110年前の絵画の巨匠が語ったように、自然において「水平」は広がりを、「垂直」は深さを示す。自然の追究では、特に深さが重要になる。ポゴレリッチの音楽はこの深さを追究しているように思える。もちろん、そのような意識をもった演奏家はほかにいるはずだ。ポゴレリッチがそれらと異なるのは、時間と深さをコントロールすること、つまり自律性がきわめて高い点にある。自律性は、時間と深さの表現に大きく影響する。たぶん、彼の演奏において私が強弱や重さ、軽さとして捉えていた音は、実は深さでコントロールされたものなのだろう。その深さ(垂直)は彼が独自に到達した「自然」とさえ呼べるものだ。

 さらに、曲の解釈について触れたい。静物画や風景画、あるいは肖像画でも同じだが、モチーフというのは光線の具合はもちろん、見る時間や位置によって、都度変化する。現象として、同じことは二度と起きない。そのような中において重要なのは、表層の変化に惑わされず、モチーフをいかに見る(読み込む)かだ。普遍性の追究。これはたぶん、音楽の解釈にもいえることではないだろうか。楽譜に記録された記号と空白の組み合わせの間には、時間的かつ空間的なさまざまな可能性やEmotion、霊感が無数に張り巡らされ、幾通りもの解釈が存在するのかもしれない。しかし十分な思考アプローチを行ない続ければ、作曲者の意図に限りなく近づくことは可能だろう。

 解釈は無限にある。ただし、人間は既存の価値観や様式、印象に染まりやすい。そして多くの場合、染まっていることに気がつかない。この罠にはまらないようにするにはいくつかの方法がある。そのひとつが、すでに出来上がった表現様式や印象を、自らのメソッドあるいは身体性で壊すことだ。楽譜をピアノの下にバサッと無造作に置くポゴレリッチだが、楽譜の追究には相当注力しているのではないだろうか。そして常に更新(壊すこと)を続けている。体験的にいえば、いちど出来上がったものを壊し続け、さらに掘り進むことは容易なことではない。ポゴレリッチはそれに耐えうるだけの強い頭脳と身体性をもった演奏家だと思う。実際に彼の身体は大きい。

 常に大きな進化を続けるとすれば、とどまることはありえず、ある地点の成果をCDというかたちにすることを拒絶するだろう。そしてその進化には相当な時間を要する。自他に限らず、すでに出来上がった表現を壊したところから新しいなにかが生まれる。ポゴレリッチはその仕事を実直かつ確信的に行なっている演奏家の一人だ。ピアノ音楽の文脈をたどるような今夜の曲目と、圧巻の「超絶技巧練習曲」、換骨奪胎し霊感に満ち、あるいは静かなる狂気にさえ触れた「ラ・ヴァルス」[*]を聴き、その感を強くした。特に「ラ・ヴァルス」は、作曲者が目指していたものにかなり肉薄していたように感じる。混沌とした低音の中から沸き起こる大輪の花のような舞踊の世界はラヴェルのいう悪魔を超えた次元へと達し、悦楽的であるとともに、この演奏が永遠に続くのではないかという恐ろしささえ覚えた。低域から高域、強音から弱音まで、すべての音がにごらず明確に響き、調和していた。演奏者にとってはまだ過程だろうが、私は今夜の演奏には、すべての曲において、現時点での完璧に近い高みに達した解釈と表現があったと思う。

イーヴォ・ポゴレリッチピアノ・リサイタル
場所:サントリーホール
日時:2017年10月20日(金) 19:00 開演

[曲目]
  クレメンティ:ソナチネヘ長調op.36-4
  ハイドン:ピアノ・ソナタニ長調Hob.XVI:37
  ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調op.57「熱情」
  ショパン:バラード第3番変イ長調op.47
  リスト:『超絶技巧練習曲集』から第10番ヘ短調、第8番ハ短調「狩り」、
       第5番変ロ長調「鬼火」
  ラヴェル:ラ・ヴァルス
  アンコール ラフマニノフ:「楽興の時」より 第5番
        ショパン:ノクターン ホ長調op.62-2

[*]ラ・ヴァルス――自作曲の中でラヴェルが最も気に入っていたという。彼によれば、ワルツのリズムこそ人間性と密接にかかわるものだという。「なぜなら、これは悪魔のダンスだからだ。とくに悪魔は、創造者の潜在意識につきまとう。創造者は、否定の精神とは対極の存在だからね。創造者の中でも音楽家の位置が一番高いのは、ダンスの音楽を作曲できるからだ。悪魔の役割とはわれわれに芸当をさせる、つまり人間的なダンスをさせることなのだが、人間のほうも悪魔にお返しをしなくてはならない。悪魔とともにできる最高の芸当は、悪魔が抵抗できないようなダンスを踊ることだよ」(春秋社刊「ラヴェル…その素顔と音楽論」より)

{2017.11.26 改訂}
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イーヴォ・ポゴレリッチのピアノリサイタル 2016 [音楽]

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 イーヴォ・ポゴレリッチのピアノリサイタルを水戸芸術館にて聴く。彼の演奏会に足を運んだのは三鷹の芸術文化センター以来21年ぶりになる。三鷹では、体調不良のせいもあって曲目が変更になった。独特の力強さはあったものの、薄暗い舞台上での揺らめくような姿を記憶している。その人はいま、まったく別のピアニストに進化していた。ピアノのポテンシャルを最大限に引き出すような演奏だった。低域の強さと重さ、深さと高み、奥行きと広さ、独自の解釈による楽曲の再構築と時間感覚(テンポ)、意外性のある間、いずれも特別なものだ。

 開場してホールに入ると、ステージ上にはすでにポゴレリッチその人がいた。フリースのようなゆるい服とシャツを重ね着してニットキャップをかぶり、なにかのフレーズを確かめるようにゆっくりとピアノを弾いている。足元には紙コップ。ときどき、客席に目をやる。来場者にはそれがポゴレリッチ本人であることに気付かない人が少なからずいた。開演15分前くらいになっておもむろに立ち上がり、袖に下がった。

 開演は4時。水戸芸術館は収容数680人ほどの中規模のホールだ。客席は三方に分かれ、ステージ奥の上方にも座席がある。木の温かみを生かした設計は演奏者との距離が比較的近く、親近感がもてる。通常のホールにくらべて天井が低い。満席の会場にピアニストは燕尾服でゆっくりと現れた。前半はショパン「バラード第2番ヘ長調」と「スケルツォ第3番嬰ハ短調」、シューマン「ウィーンの謝肉祭の道化」。後半はモーツアルト「幻想曲ハ短調」、ラフマニノフ「ピアノ・ソナタ第2番変ロ長調」。

 驚くべき低域だ。倍音が多重に放たれ、デチューンしているようにさえ聴こえる。それでいて濁りがない。尋常ならざるフォルテッシモからピアニッシモまでが実に明瞭に聴こえる。低域の重みと厚み、これと中高域の輝くような美しい響きが両立する稀有な演奏。「バラード第2番」では、ゆったりと穏やかな第一主題と厳しく激しい第二主題の対比に惹き込まれる。「スケルツォ第3番嬰ハ短調」は強さと大きさ、「幻想曲ハ短調」では息を呑むような一音があった。続く「ピアノ・ソナタ第2番」からは大きな波のような情感を感じた。

 2005年以降の来日時、ポゴレリッチを聴く機会は何度かあったが、私は足を運ばなかった。10分の曲を30分かけて弾く「ポゴレリッチ時間」、原曲をとどめない解釈、緊張を強いられる演奏空間。それを知って怖気づいた。だが、彼のファンは辛抱強くその時期の演奏を聴き続けた。そして現在「ポゴレリッチ時間」と独自の解釈、奏法は一つの結実に至っている。いくつかの不運に遭いながら、10年以上に及ぶ特異な試行を重ねてきた彼の精神力、持続力はどこから来るのか。その巨大なポテンシャルの萌芽に気づいたからこそ、アルゲリッチは彼を支持したのだろう。「解釈」については、ピアノ曲の要素を徹底的に分解し、彼の感覚を基に変換、再構築した仕事だと私は考える。楽譜があっても音楽は写実ではない。いわば抽象表現だ。ピアニストの領分。

 本公演の一週間前に開かれたサントリーホールでの演奏時間は前後半とも50分ほどだったと聞いていたが、水戸ではそれよりもじゃっかん短かったのではないだろうか。私の記憶では前半で45分、後半で48分ほどだ。それは、ホールの響きと関係があるのかもしれない。水戸は天井に円形のパネルが付けられ、3本の大きな柱のほか、後席側の壁は大きく2カ所張り出している。残響時間はサントリーホールよりも短い1.6秒(満席時)。私が聴いたかぎりでは、音の濁りや滞留はなかった。プロの演奏家であれば、ホールの響きに合わせてプレイは精密に変化する。もっとも、数年前に比べ、標準的な演奏時間に近づく傾向にあるらしい。

 アンコールはシベリウスの「悲しきワルツ」。聴衆はそれぞれ、胸に感じるところがあっただろう。ゆっくりと静かに始まるこの曲は、激しい感情の高潮を迎え、消えいるように終わる。私はそこに夢や情景、去来する過去の記憶を見た。深い悲しみの中に光る高みを表した演奏だった。ピアニストが足で椅子をピアノの下に押しやって演奏会は幕を閉じた。

 申し分ないテクニックと精神性。このピアニストが持つ資質が、前述した大きく力強い響きと美しく明瞭な旋律に支えられ、高みに達した。私は、独自の解釈によって構築したモーツァルト「幻想曲ハ短調」とそれに続く「ピアノソナタ第二番」に強く感情を動かされた。あの演奏空間に立ち現れたもの。それこそが彼の音楽のすべてだ。ポゴレリッチは音楽のとらえ方を変える力を持つ。ピアノ演奏あるいはクラシック音楽に対する私の認識は変化した。
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上原ひろみ ザ・トリオ・プロジェクト「SPARK」 [音楽]

 東京国際フォーラムのホールAにて上原ひろみザ・トリオ・プロジェクトのライブ「SPARK」を聴く。この公演は五大陸にわたる世界ツアーの一環であり、日本国内では各地で計23回行なわれる。そのうち、東京国際フォーラムは3日間。私が行った日は満席だった。三十代くらいの客が多かった気がする。

 上原ひろみの演奏はこれまで、テレビやラジオでときどき聴いており、そのアグレッシブで超絶技巧的なプレイは実を言うとあまり好みではなかった。そのため、「速弾き技巧派」「ラテン系?」「チック・コリアや矢野顕子と共演」程度の認識だった。私はジャズという音楽においては、響き重視で間のある演奏のほうが好きなのだ。

 いちどは聴いておこう、どうせならアンソニー・ジャクソン(Bass)とサイモン・フィリップス(Drums)でのトリオがいいーー。そのくらいの気持ちでチケットを購入して会場に足を運んだ(ただしアンソニー・ジャクソンは健康上の都合で今回は不参加。代役はアドリアン・フェロー)。

 公演は新譜のタイトルであり、本ツアーのテーマ曲ともいえる「SPARK」で始まる。予想どおり、いきなり飛ばす。非常に速いテンポとフレーズ、ダイナミックな展開。それは、たしかにホールAを満席にするのが頷ける演奏だった。曲目が進むにつれ、その感は強くなる。まず、ピアノの音とフレーズが立っている。テクニックは申し分ない。短いフレーズのシーケンスやトレモロが聴衆の意識をぐいぐいと引っ張るのが分かる(上原ひろみの音楽において、繰り返しは非常に重要)。サウンドは明快で、驚きや発見で世界を切り開いていくような高揚感があり、ときに、ジャズというジャンルの存在を忘れさせた。これまで抱いていたイメージとは異なり、高域を弾き鳴らさず、抑制された重心がある。曲の構成や構造自体はフュージョンに近い気もするが、要するに表現として分かりやすい。相当高度なことをしているにもかかわらず、分かりやすく聴こえるのは大切なことだ。そして、3人のインタープレイは新しいひらめきに満ちていた。

 聴衆の感情に変化を与えることができる稀有なジャズミュージシャンの一人だ。現在の多くのジャズミュージシャンやバンドは既成のパターンを並べてジャズ的な演奏してみせるが、多くの聴衆の感情に変化を起こすまでに至らない。5000人の来場者の感情を動かすトリオ演奏というのはそうそうできるものではない。一方で、ジャズの「方言」はあまり含んでいない。それが新しさを感じるともいえるが、この点は好みが分かれるところだろう。

 左右に設置されたスクリーンにアップで映し出される上原ひろみの顔は喜びに満ちていた。彼女の輝く目や表情が、驚きや発見を生み出す演奏を成し遂げていることを物語る。「弾くのが楽しくて仕方ない」という姿勢は以前と変わらず、さらに、聴く人を引き込む力が備わったように思う。それは「Wake Up And Dream」のような静かなソロピアノ曲にも現れている。聴衆は感情の変化を求めて会場を訪れ、上原ひろみのパフォーマンスは終始それに応えた。加えて、サイモン・フィリップスとアドリアン・フェローによる連係は非常に完成度が高く、インタープレイの次元を高く押し上げている。

 幅広い表現力と大きなスケール、パワーを持ったジャズピアニストだ。速弾きラテン系どころではなかった。これは彼女の強靭な腕力と身体性によるところが大きい。なによりも強いのは、彼女はピアノを弾くのがとにかく好きであるということ。それが全身に、演奏に現れている。これほどの身体性をともなったジャズピアニストは私の知るかぎりミシェル・ペトルチアーニ以来ではないだろうか。五大陸ツアーが組まれる事実がそれを証明する。圧倒的な体験だった。

 このライブを見た後、CD「SPARK」を買ってあらためて近作を聴いた。残念ながらCDには、会場で感じた、世界を切り開くような高揚感はあまり含まれていない。感情の変化という体験は同じ場所、同じ空間を共有することで生じるらしい。いま、音楽界においてライブに人気があるのはそれが理由だろう。上原ひろみが目の前でプレイすること。彼女が彼女の身体性を駆使して生み出す偶発性は記録媒体に収めることはできない。ステージでしか生まれないなにかがある。未知の音楽はたしかにそこに存在していた。

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故入野義朗 生誕95周年記念コンサート [音楽]

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入野義朗

 東京オペラシティリサイタルホールで「故入野義朗 生誕95周年記念コンサート」を聴く。入野義朗(いりのよしろう・1921-1980)は日本における十二音技法の第一人者。日本で最初の十二音技法による作品「七つの楽器のための室内協奏曲」を1951年に発表している。また、桐朋学園音楽科の設立に参加したメンバーの一人であり、その運営と教育に当たったという。

 本公演はすべての曲(下記の演目)、演奏ともクオリティが高かった。実行委員による選曲と人選がよかったのだと思う。実行委員には入野禮子夫人も参画している。楽曲は現代音楽特有の無調性や不協和音、難解さが前面に出てこず、いままで私が持っていた十二音技法音楽の印象を変える内容だった。

 全体的に若手の演奏者が多かった。それゆえ、演奏に新鮮さがあり、「ピアノのための変奏曲」などの戦前に書かれた曲であっても、瑞々しい感覚と解釈、今のテクニックで現代に蘇らせていた。

 ピアノ独奏、管弦五重奏、ヴァイオリンとピアノ、合唱、フルート独奏、そして最後の伝統楽器による「四大(しだい)」、いずれも聴き応えがあり、また近年の現代音楽にはない温かみを感じた。「管楽五重奏のためのパルティータ」は、異なる性格を持つ5つの楽器でバランスよく構成し、上質な合奏曲に仕上がっていた。各楽章の終わりの余韻が美しい。「ヴァイオリンとピアノのための音楽」は第2楽章の「枯れた」趣きが印象深い。「独奏フルートのための3つのインプロヴィゼーション」は、天と地をつなぐようにフルートを鳴らす。それはさながら尺八のようだった。「四大」は二十絃箏、十七弦箏、尺八、三絃の4つの伝統楽器による晩年の曲。尺八という楽器の音は縦の役割を果たし、これに対して箏のシーケンスは横、三線はそれらをつなぐ斜めの役を果たしていたように感じた。ときに尺八奏者が拍子木を響かせ、要所を引き締める。無調による緊張感のある音楽は音の濁りがない。4人のアンサンブルが絶妙だった。

 十二音技法をベースに置きながら、そのうえに静謐な独自の音楽世界を構成し表現している。厳しさと戦後の時代的安定性(多様性を取り戻す力)が共存する構造は味わいがあり、もういちど聴いてみたいと思わせた。

 記念コンサートだが、司会などの挨拶、MCはいっさいなく、終始演奏に徹していた点は潔い。平日に開かれた現代音楽のコンサートにもかかわらずほぼ満席。来場者層はさまざまな世代に渡っていた。今後、入野義朗氏再評価の機運がさらに高まることを祈る。

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日時:2016年11月14日
会場:東京オペラシティリサイタルホール

プログラム:すべて入野義朗作品

■ピアノのための変奏曲 (1943)
Variations for piano solo
田中一結(pf)

■管楽五重奏のためのパルティータ (1962)
Partita for wind quintet
鷹羽弘晃 指揮、下村祐輔(fl)、鈴木かなで(ob)、前山佑太(cl)、河野陽子(hn)、木村卓巳(bn)

■ヴァイオリンとピアノのための音楽 (1957)
Music for violin and piano
中澤沙央里(vn)、佐々木絵理(pf)

■凍る庭 (1961)
Frozen Garden for mixed chorus and piano
西川竜太 指揮、ヴォクスマーナ、篠田昌伸(pf)

■独奏フルートのための3つのインプロヴィゼーション (1972)
Three Improvisations for flute solo
多久潤一朗(fl)

■四大 (1979)
SHI-DAI (The four elements: earth, water, fire and wind) for shakuhachi/shinobue, 20-stringed koto, 17-stringed koto and san-gen
藤原道山(尺八)、黒澤有美(二十絃箏)、本條秀慈郎(三絃)、平田紀子(十七絃箏)

*本公演の録音を収録したCDが後日発売される予定

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高橋悠治の耳 Vol.9~HIKA・悲歌~ [音楽]

 高橋悠治のピアノコンサート「高橋悠治の耳 Vol.9~HIKA・悲歌~」を聴く。ゲストはギタリストの笹久保伸。会場は三軒茶屋のサロン・テッセラ。<2016年11月6日>

 今回はピアニストに近い席で聴いた。間近で聴くピアノは、音の拡散や指向性が、低音や高音、弾き方などによってさまざまだ。いうなれば散漫で不定形。耳は意識に応じてそれらの音を捕まえ、脳に届ける。リアルタイムでマルチ。その点でCDの音楽というのは、ならして整理・統合されている。スピーカーから出る音はリニアだ。

 レオ・ブローウェルの「10のスケッチ ピアノ曲」は聴きどころの多い、いうなれば多彩な面を持った曲集だった。調性のあるところないところ、情緒的なフレーズ、即興部など、いろいろ興味深い内容。もういちど聴いてみたいが、CDなどは発売されていないもよう。

 高橋悠治の音は、たんたんとした演奏ながらも純度が高い。音楽の核のようなものを的確にとらえている。この人はたぶん若い頃からこのような音を響かせていのではないかと思える。これは音楽に対する姿勢、あるいはそれ以外の思想などから来ている。その姿勢が老練になり、さらに音楽の存在を高めている。

 ギターの笹久保伸は適度な密度をもった演奏を披露した。うち3曲ではギターを弾きながら詩や俳句を読んだ。現代音楽とアンデス音楽を演奏するギタリストとのこと。世界各地の空気を吸収したような響きがあった。ある種の音楽家特有の器用さを備えた人だ。

 高橋悠治は最後に武満徹作曲の「ピアノ・ディスタンス」を弾いた。今年は没後20年。曲目リストには記載されていなかったので、アンコール曲になるだろうか。短い曲だが、高橋悠治が武満音楽をどう解釈したかがわかった気がした。武満徹が江ノ電車内で学生の高橋悠治を見かけたときのエピソードを思い出した。

 小規模なホールは落ち着いた雰囲気でくつろげる。休憩時間に別室でお茶がふるまわれた。いいコンサートだった。

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曲目は以下のとおり。

1. Leo Brouwer「Diez Bocetos」(1961-2007)
レオ・ブローウェル「10のスケッチ ピアノ曲」(キューバの画家10人の肖像)

2. Leo Brouwer「HIKA in memoriam Toru Takemitsu」(1996)

 ピアノ:高橋悠治

3. 高橋悠治「Guitarra」 ギター(詩:セサル・バジェホ)(2013)
4. 高橋悠治「Trans Puerta」 (詩:笹久保伸)(2016)
5. 高橋悠治「柳蛙五句(りゅうあごく)」(俳句:井上伝蔵)(2014)
6. 高橋悠治「653 en cursiva」(向山一崩し書き)(gtr.pno.)(初演)

7. 武満徹「ピアノ・ディスタンス」

 3, 4, 5 ギター弾き語り:笹久保伸
 6 ピアノ:高橋悠治、ギター:笹久保伸
 7 ピアノ:高橋悠治

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没後20年 武満徹オーケストラ・コンサート [音楽]

 武満徹が亡くなって20年が過ぎた。今年は各所で節目のコンサートがいくつか企画された。東京オペラシティコンサートホールでの「没後20年 武満徹オーケストラ・コンサート」はその一つ。同ホールの名称は「東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル」。追悼公演の企画としては大きなものといっていいだろう。公演日は10月13日。

 私は以前に、三鷹市芸術文化センターにて沼尻竜典指揮東京モーツァルトプレイヤーズによる武満作品演奏会(『武満、モーツァルトの「レクイエム」』を聴く)に足を運んだ。いつものごとくそのときの音の記憶はすでに残っていないが、今回はホールとオーケストラが違うせいか、あらたな体験をした心持ちだった。

 指揮は武満作品を多く手がけ、友人でもあったというオリヴァー・ナッセン。曲目は以下のとおり(演奏順)。

地平線のドーリア(1966・約11分)
環礁ーーソプラノとオーケストラのための(1962・約17分)
テクスチュアズーーピアノとオーケストラのための(1964・約8分)
グリーン(1967・約6分)
夢の引用ーSay sea, take me!ー ーー2台のピアノとオーケストラのための(1991・約17分)

 本公演を聴いてまずはじめに感じたのは、武満徹が作曲したオーケストラ音楽の繊細さだ。単に音量の小ささや音の弱さではなく、楽器の鳴らし方自体が特別であり、音楽の成り立ちがほかの作曲家と異なる。「強さ」やボリュームを目指すのではなく、草木や土、風、空などのうつろう自然現象による不確定さと厳しさ、鋭さを備えた音楽とでもいえばいいだろうか。それから、この繊細さを包み込む静寂、静謐なる空間(間)の存在を強く感じさせる。特にその傾向が強かったのは「地平線のドーリア」だ。プレイヤーが発した音が「演奏」としてやってくるのではなく、こちらからその「場」へと向かう必要がある。そして、ここはいったいどこなのか、なにが起きているのか。ほの暗い林の中でつむがれた音を追う。ひとつだけ言えるのは、自分がいるのは日本のような場所だということ。それが過去か未来はわからない。

 「環礁」で女性歌手が歌いだす。最初は気づかなかったが、よく聴くと日本語だった。大岡 信の詩。ソプラノはクレア・ブース。神話的な静寂の場に立ち現れるものはなにか。「テクスチュアズ」は張りつめた緊張感をダイナミックに構成した秀作。ピアノは高橋悠治(ピーター・ゼルキン体調不良のため変更)。「グリーン」は比較的調性感があった。青空と雲のある風景を想起させるような美しさがときおりやってくる。さまざまな映像を想起させ、その連鎖は聴くものをどこへ導くのか。「夢の引用」のピアノは高橋悠治とジュリア・スー。ここではピアノの響きが美しい。ときに、ドビュッシーの「海」や武満自身の作品が引用として現れる。武満徹という作曲家のスケールの大きさを感じる一曲。

 2階の側面の座席から俯瞰で聴いたせいか、音がまとまって聴こえるのではなく、各パートが個別に耳に届いた。これは演奏者がよく見えたせいなのか、武満作品がもともとそういう構造なのかはわからない。そのため、全体の流れよりも、一つひとつの音をつかまえることが容易だった。以前三鷹で聴いた「弦楽のためのレクイエム」とは異なる印象を受けた。とはいえ、曲中の大きな盛り上がりに向かうエネルギーの集中は恐るべきものがあった。ストラヴィンスキーが「厳しい音楽」と評した武満の音楽にある機微を的確にとらえた演奏だったと思う。

 私の知る限り、今年開かれる武満徹コンサートで見逃せないのは、本公演と世田谷美術館講堂での高橋アキ「武満徹 ピアノ独奏曲演奏会」だろう。残念ながら後者を知ったときにはチケットはすでに完売だった。高橋アキが弾く武満作品の確かさはCD「高橋アキ plays 武満」を聴けばわかる。できれば20年といわず、ときどき演奏してほしい。

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東京オペラシティコンサートホールに掲示された宇佐美圭司作の武満徹肖像画レリーフ
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デジタルリマスター版「男と女」 [映画]

 デジタルリマスター版の「男と女」を立川シネマシティで観た。
クロード・ルルーシュ監督の名作。同監督が撮った短編「ランデヴー」との二本立て。

 最初に上映されたのは「ランデヴー」。全編フェラーリのエンジン音、駆動系の軋む音が耳を直撃する過激な映画だった。シネマシティお得意の爆音上映。ただし、少し手加減しているらしい。早朝のパリをたぶん100kmは出ているであろう速度で疾走するクルマのノーズに取り付けられたカメラによる映像。なぜ走るのか、説明はいっさいない。ただひたすら街を走る。信号はすべて無視。ほかのクルマをプロレーサー並みのテクニックでよけ、鳩を蹴散らし、道行く人とぎりぎりすれ違う。本作はその危険な内容ゆえ上映禁止になったという。見ているうちに頭がフラフラしてきた。街の高台に到着し、おもむろにクルマは止まりドアが開く。出てきたのは一人の男。意外なラストシーン。驚愕の8分間。

 いまさら「男と女」についての評価を語るのは野暮だろう。1966年当時の恋愛映画のスタンダード。フランス映画独特の空気感、ストーリー展開はいま見ても新鮮だ。リマスター版は、色彩と鮮明さ、音質の点で現在の映画スクリーンでの上映に耐えうるクオリティを備えている。特に、浜辺沿いのデッキをカメラが進み、テーマ曲が流れる冒頭のシーンは、わずかに褪せた色調に情緒があり、魅力的だ。風景を包む、なんともいえない微妙な夕暮れの色合いが美しい。夕暮れシーンはほかにもいくつか撮られ、それがこの映画特有の甘い雰囲気を醸し出している。

 本作は、場面によってモノクロとカラーを使い分けているが、じゃっかん青みがかったり、赤っぽかったり、ニュートラルだったりするモノクロシーンの色味もそれぞれいい演出だった。この映画のヤマ場である終盤のベッドシーンは適度な粒状感があり、光の回り方が柔らかい。これはフィルムだからこそ撮れたものだろう。女優の表情をとらえるフレームが秀逸。また音声も明瞭で、映画全体の輪郭を際立たせる効果がある。クルマの使い方に時代を感じた。フランス車ではなく、ムスタングという選択がうまい。

 男がすでに死んでいても、基本的には三角関係を描いた作品だ。クロード・ルルーシュ29歳のときの作品とのことだが、脚本、演出、カメラワーク、音楽のいずれも卓越したものがある。アヌーク・エーメはこれ以上の適役はないくらいにはまっていたと思うし、主人公であるレーサー役ジャン=ルイ・トランティニャンの切れと、死んだ男を演じたピエール・バルーの素朴さの対比の間での揺らぎがよかった。そして、名作には名曲。ゆったりと体を委ねて観る時間は貴重だった。

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山岸凉子展 「光 -てらす-」 [マンガ]

 弥生美術館で”山岸凉子展 「光 -てらす-」”を見た。
主に、扉絵とマンガの原画が、デビュー作(「レフトアンドライト」)から近作(「レベレーション」)にかけて展示された。

 私は高校生時代に雑誌「LaLa」に連載された山岸凉子の「日出処の天子」を読んで、この作家のファンになり、その後「マンガ少年」などに掲載された短編から長編までさまざまな作品を読んできた。山岸凉子の作品は、細線が冴え、余白が生きている。画面に独特の緊張感があり、物語の底流に異次元ともいえる時間がつねに流れ、ラストで深い穴の底に吸い込まれるような感覚を味わう。

 この作家は新しい視点による発想と大胆な構想力が魅力だ。
「日出処の天子」では、固定した肖像画イメージを持つ聖徳太子を中性的な超能力者に仕立て上げ、厳しいほどの自律性をもって描き、少女漫画誌に掲載した。当初は編集部に反対された[*1]というそのキャラクターは、マンガに十分親しんできた高校生が読んでも驚くべきものだった。妖艶で美しい聖徳太子など、だれが想像できただろう。しかもその人物像を、神話的な背景をふまえ、苦悩させ、高いレベルを保ちながら描ききっている。たしかに、マンガとは本来そのような跳躍する想像力を基にしたものだが、山岸凉子はそれまでのマンガにはなかった独特の描画力によって画面をつくり、物語性を高めた。

 独特の描画力をかたちづくっているのは緊張感をもった細線だ。緊張感を「厳しさ」と言い換えてもいい。比較するならば、手塚治虫の柔らかさとはまったく位相が異なる描線といえる。丸ペンによる張りつめた細線で描かれた人物が放つ身体性が第一にこの作家の作品を特徴付ける。つねに人物に焦点をあてており、極力省かれた背景は舞台説明のための小道具にすぎない。そのうえ、時間や空間を自在にあやつる手法はダイナミックである。視点やコマ割りはシンプルにもかかわらず、登場人物の深層心理をつくりこみ、ほんのわずかな線や空間が物語の深淵を暗示する。例えるなら、能や狂言に通じる世界観とでもいえばいいだろうか。山岸凉子は、強い身体性を簡素な描写によって表現できる稀有なマンガ家だ。ただし、テンションを外す所作がどこかに織り込まれている点もまた山岸マンガの魅力でもある。

 今回の展示は点数は多くないが、「アラベスク」や「妖精王」「メタモルフォシス伝」など各作品の扉絵や原画をガラス越しにじっくりながめることができる。私は細部に目を凝らし、山岸作品の秘密がなにかわかるかもしれないと思いながら見た。原画を目にし、大胆な筆致に加え、ベタを効果的に使い、衣装などの文様をていねいに描いているのがあらためてわかった。丸ペンの背で描いたのだろうか、想像以上に細い細線もあった。緻密さと緊張感に満ちた余白が高い表現レベルで共存する。描線や構図の確かさからして、日本の古典絵画や古典芸能の舞台に通じるといっても決して大げさではないだろう。さらに物語性の点でも、神話や古典(日本に限らず)に結びつく普遍性をもつ作家であることを再認識した。

山岸凉子展 「光 -てらす-」 ―メタモルフォーゼの世界―
場所:弥生美術館
会期:2016年9月30日(金)~12月25日(日)

山岸展チラシ.jpg

[*1]これ以前にも、すでに多くのバレエマンガが登場した後だっため「バレエマンガは古い」との編集者の反対を押し切って掲載した「アラベスク」が大ヒットした。さらにこの系譜はダヴィンチに連載された「テレプシコーラ」へとつながっていく。

デッサンと荘子 [制作]

 このところ、制作で行き詰まっている。なにに行き詰まっているのかは言葉では明確に説明できない。絵を描いている人なら、個展のあとなどに訪れるこのなんとも制御のきかない、気持ちが停滞するような経験があるはずだ。もっとも、ゆるぎないテーマや不動のモチーフを持っているのであれば別だが。

 いわゆる具象と抽象、私は長年このはざまで揺れ動いている。見るほうは面食らうだろう。水彩で風景画のようなものを描いていたかと思えば、70年代アメリカのミニマルアートのようなものを展示する。展示を重ねるごとに、感想を開く口数がだんだんと減っていくのが分かる。

 具象と抽象の区別論は別の機会にすることにして、前者の場合、室内で描く静物や人体、屋外で描く風景など、プロセスを含め、始めてみないとどうなるか毎度分からない。しかし、冒険したつもりあってもたいていは予定調和的な地点にたどりつく。一部でも自分の枠を超えたものが表れれば手応えを感じるが、自分の力の範囲を知らされる結果になり、というか、結局は自己模倣を壊せない自分がいて、いつも不満が募る。

 いっぽうの抽象作品を制作する時は、コンセプトから始まり素材選びまで、計画を練るようにして思考を煮詰めていく。到達点が決まれば、それに向けて材料を用意し、作業を「遂行」するだけだ。途中で予想外の問題が起きたりするが、それは解決できない類のものではない。出来上がった作品はテクスチャーや見え方などで意外な面をもつにせよ、大枠はイメージどおりになる。それははたしていいことなのかどうか。

 両者の間でにっちもさっちも行かなくなると、こんどは鉛筆デッサンを始める。コンテンポラリーだとか現代美術とか言っているのに、いまさらデッサンなんかやっているとは時代遅れ、との指摘もあるだろう。しかし、絵画はものごとの本質に迫る行為だと思っている私は、ときどきデッサンに立ち返る。本当は毎日するべきプラクティスなのだが、凡人はその重要性をすぐに忘れてしまう。

 デッサンでなにが大切なのかといえば、それはとりもなおさず「壊すこと」だ。壊しながら描く。かっこつけた言い方をするなら、「再構築」だろうか。ものをそっくりに描写することではなく、感覚と技術における修正作業の繰り返しだ。創作は凝り固まったなにかをいったん壊した先の仕事になる。そう、頭では理解しているつもりだ。

 そんなことを考えていたら、福島に住む玄侑宗久さんがラジオ番組で、荘子の思想を紹介していた。福島では、放射能汚染に対して「危ない」「大丈夫」と意見が二分している。それぞれに肯定バイアスがかかっており、自分の意見の正しさを補填する材料を集め、対立している状況だという。荘子のいうように「これが自分だ」(自分はこうだ)という固定した思考をいったん壊し、組み立て直すことが必要ではないか、と玄侑さんは説いた。デッサンの解釈は広いが、その真髄は2300年前の思想にすでに表わされている。
タグ:絵画
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松田松雄展 [美術]

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 盛岡の岩手県立美術館で開催中の松田松雄展を見る。
 東京から盛岡までは東北新幹線で2時間10分ほど。ときどきうたた寝しながら車窓を眺めていると風景がめまぐるしく変わり、埼玉、栃木、福島、宮城を抜け、あっという間に到着した。東京と東北北部の距離は思った以上に縮まっていた。

 松田氏の作品に対面するのは、記憶にあるかぎり高校生のときに文化センターあるいはいわき市立美術館で見て以来だ。私はかつていわき市にあった市民による美術グループで同氏に会っている。今年刊行された氏の著作「四角との対話」を読み、あらたな発見があった。そこには、絵を描く者としての共感以上の身に迫る言葉が綴られていた。松田氏は岩手県陸前高田市で生まれ、20代半ばにいわき市に移り住み、制作活動を行なった。残念ながら2001年に亡くなり、今回は没後初の大規模な回顧展となる。

 展示は、画家に転身した翌年の1968年の作品から始まる。松田氏の主要モチーフとなった人物像は初期作品(風景「人」)にすでに登場していた。当初は黄または赤、青などで表されている。それが1975年に、黒い二人の人物を描いた「風景(川のほとり…)」を発表し、さらに1977年の作品「風景」では群像になる(年代は今回の展示作品を基にした場合)。画家としてスタートした30歳でこのような主要モチーフ(かたち)に出会えたのは幸運と言える。自己にまっとうに向き合わなければ、長く付き合えるモチーフはやってこない。

 本展のクライマックスは、美術館の大空間にまとめて展示された「風景」シリーズだろう。作品が並ぶ空間はこの画家ならではの存在感に満ちていた。あらためて作品を丹念に見ると、キャンバスの布地の凹凸を巧みに使って人物や風景のマチエルを表していることが分かる。また、黒の調子を表現する力量は並ではない。こする、鋭利なもので引っ掻く、白で周囲を塗る。それらの手法を適宜使い、つや消しの黒による独特の具象的描写を実現した。そこに非凡さがある。特にいわき市立美術館蔵の3点(「風景(民-A,B,C)」)は完成度が高いように思う。艶消しの黒はたぶんアイボリーブラックなのだろう。ひび割れなどが起きていないところをみると、艶のある背景にそのまま載せてはいないようだ。背景を表す白が人物の黒の際まで塗られている。さらに、人物の肌の部分はキャンバス地が見える。印刷物では判別できないが、群像を構成する各人の黒の階調を変え、全体として幅をもたせている。

 さて、これらの人物や群像は何を表しているのだろう。松田氏自身は著作の中で、幼少時に暮らした津波常襲地帯だった村での避難の夜に見た村民たちの黒い姿、あるいは行商人について触れている。いまのわれわれにとっては、原発の避難民、外国の難民、あるいは日常生活で孤立した人々か、すべての物や財産を取り払ったあとの人間本来の姿か。そして彼らがいる場所は浜辺なのか、砂漠だろうか。嘆き、悲しむ人々は次々と斃れてゆき、そのまま岩になってしまうようにも思える。画家は、分断されていく人間たちの姿を'60年代にすでに予見していた。しかし、なぜか白い風景や遠くの海は柔らかく、包容力さえ感じさせる。この絵画空間を目にしたとき、人々の内に溢れるのは悲しみや絶望と同時に、いたわりや慈しみなのかもしれないと思う。来場者は描かれた家族や群像にさまざまな感慨をいだくだろう。その点で、松田氏の「風景」はいま見るべき作品だ。

 今回の展示では、作家の主題の変化を明示的に見て取ることができる。主要モチーフであった人物はさらに黒く、物体のようになってゆき、ついには消え、代わりに抽象的なタッチや面が現れ、躍動的なストロークに変わる。人物による抑制的な表現から、即興的な筆致による解放へ。風景シリーズでは白と黒を分けて描いているが、「風景デッサン」シリーズでは黒のタッチの上に白を重ねている。引っ掻きこそなくなったが、黒と白による相互作用的な表現は変わらないのかもしれない。
 松田氏は、
「自分に才能があるとかないとかも、私は一切自分に問わない。才能があるから絵を描いているわけではない。『私』という人間の存在と可能性に関心があるだけなのである」
「私は今でも、画家になるための勉強とは、ただ日常的に自分自身と直面することに耐えられる、ごくあたりまえの精神をもつことだと思っている」(「四角との対話」)
と語った。これは、創作に携わる人間の世界において普遍性をもつ言葉だろう。常に自己と対峙し、才能や技術とは別の場所で厳しい仕事を続けた画家、それが松田松雄なのだと思う。


〔追記〕本展の開催期間中、盛岡市内にあり、松田氏と縁が深いMORIOKA第一画廊でも同氏の小品を中心とした個展が開催されていた。
タグ:松田松雄
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