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デッサンと荘子 [制作]

 このところ、制作で行き詰まっている。なにに行き詰まっているのかは言葉では明確に説明できない。絵を描いている人なら、個展のあとなどに訪れるこのなんとも制御のきかない、気持ちが停滞するような経験があるはずだ。もっとも、ゆるぎないテーマや不動のモチーフを持っているのであれば別だが。

 いわゆる具象と抽象、私は長年このはざまで揺れ動いている。見るほうは面食らうだろう。水彩で風景画のようなものを描いていたかと思えば、70年代アメリカのミニマルアートのようなものを展示する。展示を重ねるごとに、感想を開く口数がだんだんと減っていくのが分かる。

 具象と抽象の区別論は別の機会にすることにして、前者の場合、室内で描く静物や人体、屋外で描く風景など、プロセスを含め、始めてみないとどうなるか毎度分からない。しかし、冒険したつもりあってもたいていは予定調和的な地点にたどりつく。一部でも自分の枠を超えたものが表れれば手応えを感じるが、自分の力の範囲を知らされる結果になり、というか、結局は自己模倣を壊せない自分がいて、いつも不満が募る。

 いっぽうの抽象作品を制作する時は、コンセプトから始まり素材選びまで、計画を練るようにして思考を煮詰めていく。到達点が決まれば、それに向けて材料を用意し、作業を「遂行」するだけだ。途中で予想外の問題が起きたりするが、それは解決できない類のものではない。出来上がった作品はテクスチャーや見え方などで意外な面をもつにせよ、大枠はイメージどおりになる。それははたしていいことなのかどうか。

 両者の間でにっちもさっちも行かなくなると、こんどは鉛筆デッサンを始める。コンテンポラリーだとか現代美術とか言っているのに、いまさらデッサンなんかやっているとは時代遅れ、との指摘もあるだろう。しかし、絵画はものごとの本質に迫る行為だと思っている私は、ときどきデッサンに立ち返る。本当は毎日するべきプラクティスなのだが、凡人はその重要性をすぐに忘れてしまう。

 デッサンでなにが大切なのかといえば、それはとりもなおさず「壊すこと」だ。壊しながら描く。かっこつけた言い方をするなら、「再構築」だろうか。ものをそっくりに描写することではなく、感覚と技術における修正作業の繰り返しだ。創作は凝り固まったなにかをいったん壊した先の仕事になる。そう、頭では理解しているつもりだ。

 そんなことを考えていたら、福島に住む玄侑宗久さんがラジオ番組で、荘子の思想を紹介していた。福島では、放射能汚染に対して「危ない」「大丈夫」と意見が二分している。それぞれに肯定バイアスがかかっており、自分の意見の正しさを補填する材料を集め、対立している状況だという。荘子のいうように「これが自分だ」(自分はこうだ)という固定した思考をいったん壊し、組み立て直すことが必要ではないか、と玄侑さんは説いた。デッサンの解釈は広いが、その真髄は2300年前の思想にすでに表わされている。
タグ:絵画
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