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大友克洋GENGA展(1) [マンガ]

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 大友克洋が描いた漫画の原画を展示した「大友克洋GENGA展」を見た。初期から現在までの主な作品やテレビ、ポスターなどの原画が多数出品された。展示の中心は「AKIRA」のすべての原画約2300枚。ガラス製の展示ケースに整然と並べられた膨大な原画は圧倒的な存在感を放ち、会場はこの長大な物語を凝縮して体験する場となった。さて、何に圧倒されたのかといえば、その画力、すなわち描き込み、描き続ける力である。高いテンションを保った想像力とたたみかけるような筆致による絵。この作家は、非凡な想像力で構築した世界を淡々と描き表しているように見える。私はAKIRAをヤングマガジン連載第1回から購読し、単行本も購入して何度も読んではいたが、緻密に、そして膨大かつ丹念に描き込まれた原画群をあらためて目にし、この作家のたぐいまれな資質を再認識した。
 比較対象として適切ではないかもしれないが、レオナルド・ダヴィンチの人体解剖デッサンとAKIRAの原画2300枚、そのどちらかを選べと言われたら、私はAKIRAの原画を選ぶ。人類の歴史という線上の価値でみれば、前者なのかもしれない。しかし、今を生きるわれわれにとっての同時代的な「絵」の価値を考えたとき、つまり戦争や2つの原爆投下、水爆実験、殺戮、貧困、内戦が続く、破綻し矛盾した世界を経験するわれわれの現在を通過してきた絵(物語)としてみたとき、大友克洋の仕事はダヴィンチよりも重要だ。大友の想像力と描写力、そして破壊力の前では、ダヴィンチは絵が描ける科学者、あるいは発明者にすぎない。絵で本質を追求する姿勢において大友はダヴィンチに引けを取らず、芸術と同様に最前線で仕事を行ってきた。
 本人は'89年のインタビューで自分の絵について「やればボクぐらいの絵はすぐできるようになる。やろうとしないだけですよ」と言いのけているが、その資質は漫画という手法のポテンシャルを使い切り、推進することができる稀な才能だ。あるときは飄々と、あるときは地道に積み重ねられた膨大な線の存在は実におそるべき仕事だと思う。日本の歴史の流れで見た場合、古典絵画、たとえば応挙や北斎、伊藤若冲などの系譜に連なる。
 大友克洋はさまざまなテーマを取り上げながら、常に「世界」を描いてきた。四畳半に住むさえない男から、破壊された巨大都市あるいは星まで。日本人離れした奥行き表現と斬新な視覚表現でていねいに物語を紡ぐ。自らがこれまで吸収してきたものごとを丸ペンとスクリーントーンによって建築のように構築している。私は2300枚の原画を見ながら、それが建築に通じる仕事であることを感じた。自分が見て感じてきたものや日ごろ考えている構想を絵にし、その積み重ねで漫画空間を表現する。建築もまた、線画と空間で始まりイマジネーションで終わる。そのうえ大友の作品は、建築ばかりではなく、本展のパンフレットに書かれていたとおり、グラフィックやさまざまな映像表現、美術に通じる資質を備えている。
 大友作品は現代の漫画の中にあって、視覚表現が際立って鋭敏だ。この鋭敏さはもはや映画をしのいでいると私は思う。映画は瞬間瞬間に絵が過ぎて行くが、漫画は当然ながら静止画だ。彼の漫画は静止画にもかかわらず、1コマ1コマが映画のように動く。各コマに精密な時間軸がある。実際には、それを観るわれわれの脳が彼の絵を動かしているのだが、そのときの脳の動きを緻密に予測しているのが彼の絵だ。さらに彼は映画のカメラのレンズと同等の眼を持っている。マクロ、広角、望遠、高速度撮影、高感度撮影……。私はこれほどの視野を持つ作家をほかに知らない。
 彼の紡ぎだす線は数種類の丸ペンで描かれているという。その線は、古代文字や彫刻のように刻まれたものであり、すでに均質な普遍性を帯びる。普遍性をもちながら現在進行形のリアリティーを追求している。このような線を持つ漫画家は、私が知る限り彼と山岸凉子くらいだろうか。この線は、ほかのどの漫画家よりも空間と質感を意識して描いたものだ。この2つの認識が、手塚治虫との大きな違いだと思う。手塚治虫はあくまで二次元上に置かれた線であるのに対し、大友のそれは立体空間と視覚的触覚を描くために生み出された線だ。
 特筆すべきは、大友克洋の漫画の触覚性だ。彼の絵は目で触る感覚が強い。読者はストーリーを読み込み、漫画世界に同調しながら、同時にそこに描かれた物体や現象、あらゆるものに触れることができる。この点において私が思いつくのは、松本零士が描く戦闘機や戦車などの触覚性だ。それらは「触れるように描いた」先例といえる。ではなぜ、触覚的な質感で描くのか? ありていにいえば、大友克洋の眼はこの世界の物体や現象を愛しているからといえるのではないだろうか。これは彼の作家としての本質の重要な要素だ。
 大友克洋の作品世界の特徴といえば、際立ったリアリティー。これには2つの側面がある。一つは確かなデッサン力と独自の質感表現、もう一つは再構築された世界と物語のリアリティーだ。絵画表現に比べ、彼が描く物体のリアリティーは、漫画の手法上、表面的に見えるかもしれない。堅牢なデッサン力は表層的な描写に重心を置いているかのようだ。しかし、視覚におけるリアリティーの本質は実はわれわれの脳の中に存在するのであり、物体(漫画)にあるわけではない。その点で、絵画と漫画表現において上下の差はなく、一連のシーンを通してわれわれの脳内に立ち現れる世界は常になんらかの本質を生み出している。その本質におけるスケールの最小化と最大化の自在さが大友の持ち味ともいえるだろう。あるいは、その本質のカギは分解(「Fire-ball」)や再構築(「彼女の想いで…」)、破壊と再生(「童夢」「AKIRA」)にあるのかもしれない。そして、本質と画面全体に神経をゆき届かせたリアリティーの源がいったい何なのか。われわれはその秘密を知りたいと思いながら画面と対話し、同時に、物語の構成力とそれを支える想像力の緻密さに陶酔するのだ。
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