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日本人の未来 [原発]

 三島由紀夫が「見たくない」と語っていた日本の姿がいまわれわれの前に、亡霊のようにゆらゆらと立ち現れている。日本の将来を案じていた司馬遼太郎もこの姿を見ずに逝った。それは幸いなことだったかもしれない。いまやこの国の人間は、平然と子供を見殺しにするところまで堕ちた。内戦が続く南アフリカや飢えに苦しむ北朝鮮と変わりがない。司馬遼太郎が言った、日本人に流れているはずの「微弱なる武士の電流」はついに途絶えたといっていいだろう。

 文部科学省は福島の子供に対して、年間20ミリシーベルトまでであれば校庭や園庭で被曝してもかまわないとの放射線許容量を設けた。これは、米国やドイツの原子力関連施設で作業する人の年間被曝上限値と同じだという。チェルノブイリの事故で周知のとおり、子供は大人よりも放射能の影響を受けやすい。まして、降下した放射性物質を吸い込む危険性は大人よりも高い。文科省の役人は狂ったか。いや、受験勉強の秀才たちが会議室で顔つき合わせ、無表情な顔と冷えた頭で考え出した薄ら寒い結論だ。子供たちは身の置きどころを選べない。学校の先生たちはこの通達に素直に従うのだろうか。子供たちの健康に対する先生の信条を問うてみたい。

 また、いわき市の渡辺市長は、「福島産の牛乳や食材は危険だという風評を払拭する」ため、市内の学校給食に福島産の牛乳と食材を使うことを認めたらしい。率先して子供に食べさせることが果たしていいことなのか。ここでも、子供に拒否する権利はない。先月、福島県の放射線健康リスク管理アドバイザーとなった長崎大学の山下という教授は講演で、放射能や放射性物質は危険ではなく避難する必要はまったくない、心配ないと、大勢の県民を前に豪語していた。そのうえ、「いまやフクシマは、ナガサキやヒロシマよりも有名になった。これを利用しない手はありません!」などと、間抜けな発言までしている(http://rfcgamba.blog60.fc2.com/blog-entry-106.html)。このような人物をアドバイザーに迎えた行政側の見識を疑う。同じく、総理や大臣、官僚もこういう手合いの意見を参考にしていることだろう。

 日本の野党はなにをしているのか? こういうときに身体を張って子供を守るのが、社民党や共産党ではないのか。いまだ具体的なアクションが見えてこないのはどうしたことか。どこそこに行って抗議してきたとか、意見書や署名を渡してきた、だけでは政治とは言えない。自民党は原発を推進してきた張本人だけに、なにもいえず。この期に及んで、隙あらば政権奪回を狙う情けなさ。

 福島第一原発の非常用電源が落ちてこのかた、正常な判断ができない現在の日本人の本質が次々と明らかになっている。少しのミスも許されない厳しい状況であるにもかかわらず、政府も東電も安全・保安院も謝ってばかりだ。こと原発に関して言えば、明日へつなぐ「仕事」をしているのは苛酷な放射能の渦中にいる事故現場の人間だけだろう。

 「自民党がだめだから、民主党にでもやらせてみるか」という判断の結果に誕生した菅内閣だが、「にでも」で選んだ政党がいい仕事をするはずもない。われわれの見込みは甘かった。政治がオペレーションを誤れば、人が死ぬこともあるのだ。政府の言葉を聞くと、事故を他人事のようにとらえていることがわかる。原発から250kmも離れた場所で会議を行い、企業のように内部調整に労力を使って、経済界や産業界との連携にも余念がないことだろう。状況は日増しに悪くなっている。そのうえ、日々これだけ地震が発生している中で、浜岡原発を止める気は毛頭ないらしい。

 私が怖れているのは、電力会社や政府、御用学者たちが放射能に対する恐怖心をまったく持ち合わせていないことだ。「国民に無用な不安を与える」「パニックを招く」といった理由で、放射線量や放射能に関する情報を公開・告知しない姿勢は、犯罪行為に等しい。年間7億円を投じている「SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)」もまったく活用されておらず、これを運用する文科省原子力安全課も税金泥棒の一味だろう。情報隠蔽は市民のためではなく、自分たちに都合が悪い状況をつくらないための姑息な行為だ。最低でも、放射線量の高まりに合わせて、外出を控えるなどの広報をしなければ、政府自らが被害の拡大を助長していることになる。

 毎日、通勤電車の車中の顔を観察する。皆、福島の危機的な状況のことなどまるで考えていないように映る。それは私の目にバイアスがかかっているせいだろうか。彼らは放射性物質が襟元に降り注いでも、まだ携帯やスマートフォンの画面を眺め、人を押しのけて電車を乗り降りしているにちがいない。身近に危機が迫っても、「粛々」と群衆に埋没するのか。

 原発についてインターネット上の意見を読むと、反対でも賛成でもないという人が意外に多い。反対もせず、推進でもないとはどういうことなのか。仕方がないという諦めか。その中立的な姿勢は私には理解できない。また、新聞の調査によると、日本人の半分近くがいまだに原発を容認している。電力に支えられている贅沢はそう簡単に手放せるものではないだろう。その贅沢が幻だとしても。大量の放射性廃棄物は贅沢の代償として、受け入れられるものなのか。

 日本人は戦うことを忘れてしまった。戦いといっても、戦争や争いごとではない。自由や安全、安心は、黙っていては得られない。自主的、自律的な精神を維持する末に手に入れるものだ。なにもせずに安穏としていると、欲望という名の怪物に浸食されて、根本から崩壊する。

 福島の子供は、日本人の「欲望」と「怠惰」の犠牲となって、毎日命を削られている。文部科学省のようなでたらめな判断を下すのであれば、いっそのこと外国からの助言に従ったほうがましだろう。東電や産業界のひずみ、広く言えば、文明の矛盾を子供たちに押しつけていることは、見逃せない。しかし、ほとんどの人々はこの事実に向き合わず、どこかのだれかにたよりきった日常に生きている。日本の政治家や官僚はおろか、日本人全体が根無し草になっていた。この島国で起きている事態や迫り来る危機のほどがのみ込めず、子供の命さえ救えないならば、この国の将来はあまりにも暗い。

 



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