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セザンヌの塗り残し [美術]

 絵画の画面における塗り残しの話。
 絵画の制作においては、色を意図的に置かない場合と置けない場合がある。前者では、キャンバス地あるいは下塗りを意図的に残すことで役割を果たし、後者では置く色が見つけられず、そのままにせざるを得ない。絵を描いたことがあるならだれでも経験するが、描き込むことで作品が失敗に終わることがある。そういうときはたいてい、「あそこで止めておけばよかった」と思うものだ。

 いうまでもなく絵画は、画面を絵の具で埋めつくすために描くのではない。下地をなくすことを目的とするのなら、それは単なる塗り絵だ。塗る前に常にひとつの色斑の価値を考える必要がある。もちろん、ひと筆ひと筆をパターン化して置く点描画のようなつまらない理屈にはまってしまってはならない。いま置くひと筆によって、画面全体が生きもするし、台無しになることもある。

 色斑を考えるときに欠かせないのはセザンヌの絵画だ。そして、残された下地の存在について考えるときもこの画家の仕事を思い出す必要がある。一般的に言われるように、確かにセザンヌの油彩には「塗り残し」があり、晩年になるほどその傾向は強くなった。この塗り残しに関して、これまでさまざまな考察が行われてきた。どういう意図があるのか、なぜ未完成なのかと。

 前述したように、絵画が優先するのは置くほうであり、キャンバス地が見えるだとか下地のままだとかは実はどうでもいいことだ。一般的な誤解は、全体をくまなく塗りつぶすことが完成につながるという認識に端を発する。画家にとっては、自らが目指す画面を構築する仕事こそ重要であり、目の前の表面的な完成などにとらわれてはいけない。エクスの大家がそうであったのだから、その後に続く画家はゆめゆめ「完成」という概念につかまらぬように注意すべきだ。展示するために絵を完成させるということはありえず、未完成で当たり前。その時点でできることを見せるのが展示というものだろう。

 セザンヌの伝記を読むと、職人の仕事の範疇である「仕上がり」は絵画においてなんの意味もないと語っていたようだ。油彩だからすみずみまで塗りつぶさなくてはならないなどという考えは早晩捨てるべきだろう。私はセザンヌの塗り残しは、そこに置く色がそのときには見つからなかったか、置く必要がないと判断したかのいずれかだと思っている。後者に関していえば、私はあるときセザンヌの風景画を前にして、中心点あるいは重心にあたるポイントを見つけたことがある。そのポイントは空白に近く、そこに絵具を載せたら、絵は失敗に終わることが予想できた。描かないことで、画面全体のバランスを保つ。絵画において、これはたいへんに重要なことだ。

 美術史学者の若桑みどり氏はセザンヌの絵画に関して、「絵画は『騙し』のテクニックとしての三次元表現であることをやめ、明暗、立体、質感の克明な技術をやめ、物体の正確な素描をやめる方向に向かった」「セザンヌのタッチは彼が塗っていることを示している」と述べている。これは数多のセザンヌ論の中でも特に重要な指摘だ。騙し(奥行き表現)で骨組みをつくり、仕上げる目的で色を置き、実物らしく見せるためにテクニックに走ったら、真実を追究する仕事はその時点で終わる。仕上げは感動といちばん遠いところにある。セザンヌ以前の絵画において、アカデミックな手法は視覚を欺くために生み出された。大切なのは白いキャンバス(平面)に塗ることであり、なにを構築するか、だ。塗り残しにことさらに注目する必要はない。セザンヌが追求した真実とはなにか、見るべきはそこのみだ。
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