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戦略爆撃 [世界]

 ここ数日、朝日新聞に太平洋戦争時の東京大空襲の記事が掲載されている。1945年3月10日夜に始まった米軍による大規模空爆で、およそ10万人もの東京市民が亡くなった。私は常々思うのだが、一夜にして数万人の民間人が殺害されたこの事件を日本人は、特に東京に住む人々は忘れてはいけない。東京のおよそ1/3が焦土と化し、長引く戦争で疲弊しきった多数の家族が亡くなった。太平洋戦争では、アジアへの侵略行為と原爆投下が特に取り上げられるが、東京大空襲もまた筆舌に尽くしがたい出来事だ。
 焼夷弾による市街地への「戦略」爆撃は軍事施設ではなく、市民を狙ったものであることに間違いない。戦略爆撃機B29による当夜の「戦略」は、なるべく多くの市民を焼き殺すために組まれた計画であることは、戦後の調査で明らかになった。この米国の思考は、ベトナム戦争における米軍のナパーム弾攻撃に続く。米軍の行為は、毒ガスが炎に変わっただけで、ドイツ軍が強制収容所で行ったことと変わりない。
 原爆投下同様、戦争を終結させるためという大儀は名ばかり。それを思うのは、終戦が近づくにつれ、米軍の民間人への攻撃が激しさを増していた事実に基づく。日本の敗戦が明らかになった時期、度重なる空爆とは別に、米海軍の艦載機による民間人への機銃攻撃も相当な数に上ったと私はみている。戦争当時のことが書かれた古い資料を読むと、米軍艦載機による日本各地への攻撃には、決まったルートがあることが分かる。
 私の小学校時代の担任だったY先生はある日、自らの戦争体験を生徒たちに語った。Y先生は子供のころ、米軍艦載機の機銃掃射で友達を失ったという。田のあぜ道を友人数人と歩いていて突如グラマンの銃撃に遭い、身を伏せた。気がつくと、友達の一人が腹を撃たれ、腸が飛び出て即死状態だったという。Y先生は飛び出た腸を手で押さえて、すでに息絶えた体をリヤカーに乗せ数人で友人の家に運んだ。図画工作が担当で、私がいちばん信頼していたY先生が涙しながら語ったその話は衝撃的だったことを今でも覚えている。
 子供をはじめとする市民への無差別攻撃。終戦間際の米軍艦載機による同様の行為はときどき新聞などにも掲載され、NHKの戦争特集番組でも体験として話されることがある。かなりの日本人が被害に遭ったことだろう。また海上でも漁船が被弾し、たくさんの漁師が亡くなっている。その際の米軍人の行為は戦争終結という一線を越えた、まぎれもない侵略だ。前述の東京大空襲も戦略ではなく、覇権をにぎるための侵略爆撃といっていいだろう。その延長線上に、いまの沖縄や横田、横須賀基地などがある。日本に駐留する米軍には、あの侵略の血が流れている。
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