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吉本隆明 [生活]

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 「ほぼ日」で、「吉本隆明の五十度の講演」の録音の一部を試聴した。'88年の講演の中で吉本氏は、原発問題をどう思うかという質問に対する発言をしている。それを要約すると、「農業問題と同じで切実とは思えない。推進でも反対でもない(笑)。原子力発電は危険だと、いたずらに脅かしてはいけない。専門の科学者と技術者が純技術的に論議することこそ重要。それ以外の論議はただパニックを起こすのみ。人間としてではなく、専門家として双方が責任ある賛成と責任ある反対をすべきだ」——と語る。推進でも反対でもないとは、この人らしい立場だ。しかし、知識のない者が口出しする問題ではないとも受け取れる。
 さらに「本当の技術や科学は、厳しさと責任を持っている。純技術的な論議をすべき。人間として言ったら、原発は確かに怖い。ただしムードで反対するのは困る。小さな事故はいつでもある。それが常識。原発であっても当然事故はありうる」という。東海村の臨界事故が起きたのは'99年で、この講演はそれより11年前に行われた。東海村の事故後の同氏の話は知らないが、スタンスはまったく変わらないだろう。戦争を経験した人間にとって、声高な反対や賛成はうさんくさく映るのかもしれない。
 落としどころは、人のやることを信じられるか否かのように思われる。それならば、いまの私は「不信」側だ。大きな利権が絡む点において、科学者や技術者がとる行動を信用できない。「純技術的な論議」を行う機会はないと見込んでいる。なぜ、否定してしまうのか。それは、現代の社会全般で進んでいることからくる不信だ。金が第一となり、優先すべき物事をはき違えている。大事故の際の判断も誤るだろう。吉本氏は、蒙昧なる不信ならばそれを払拭するように努力すべき、というだろうか。確かに蒙昧であってはいけないとは思うのだが、核施設の耐震構造や、再処理工場の作業プロセスを突き詰めることなど、一般人には不可能。また、一企業の事業ゆえ情報公開はなく、公開できる類の技術でもない。もし純技術的な解決点があるならば、原子力発電所は早晩東京に建設できるだろう。とはいえそれよりも最大の問題は、「敵」が目に見えない代物である点だ。純技術だろうが新技術だろうが、放射能という存在を人間が飼い慣らせると思っていること自体が大きな間違いだ。
 吉本氏は工業系の学校を出て、工業系の職場で働いた経験を持っている。技術に対する同氏の見方は以下の発言で知ることができる。「技術は思いがけない方向で解決の道を開く。超伝導の開発が進めば原子力はいらなくなる。宇宙空間に太陽エネルギー発電所を設置すれば原子力発電所は不要となるだろう」。これに反論すれば、「思いがけない方向で破滅を招く」こともあるということだ。遠くの施設にある放射能の怖さを敏感に感じ取っている人を、ただの心配性で片付けてほしくはない。
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