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裁判員制度 [生活]

 5月21日から裁判員制度が始まる。私はこの制度に反対だ。この制度を施行する本当の目的を、われわれはよくよく考えるべきだろう。
「人は人を裁けない」。だいぶ古い話だが、中学3年のとき、私の坊主頭の中にこの言葉が浮かんだ。期末試験が終わった際、問題用紙の裏にそう書いたことをいまでも覚えている。私は中学時代、陰湿な同級生と部活の先輩、理不尽に体罰を加え生徒の私生活まで規制する教師たちに出会い、人間不信に陥った。人は自分の立場を守るために、あるいは立場を利用して、相当なことをやってのける。人にはいい面と(かなり)悪い面があることを痛切に感じ、こういった二面性を持つ者が他者を裁くことなどとうていできない、と思ったのだ。私は当時、その状況に自分なりに抵抗した。少年のころの経験は、人間の集団と人間を管理する側に対する私の価値観を決めてしまった。そしてそれは、今も基本的に変わらない。
 いうまでもなく、国家は暴力装置としての側面を持っている。国というものは、合法的に殺人が行える機関でもある(たとえば、裁判や戦争)。暴力は国家のためのみに使われる、いわば必要悪だ。裁判員制度への参加はすなわちこの機関に加担することである。自分の人間性を棚に上げて、他者を裁く。灰色になった絵の具を白と黒に分け、他人の運命を決め、ときに死刑を宣告する(しかも、死刑自体は刑務官によって人知れず執行される)。考えただけでもぞっとする。裁判所がいう「司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながる」とはほど遠い話だ。それでも、正当な理由なく辞退した場合は、罰金を科すという。明確な脅しである。主張信条が通らない横暴。およそ法律というものは、市民のためではなく、まずは国家という器を保持するために存在する。
 市民が参加する制度なら、ほかに考えるものはいくらでもある。地方へのゴミの埋め立てや原子力発電所の危険性、環境破壊、スギ花粉、税金の横取りやムダ使い、病院の減少、金融……。刑事事件よりも、これらを監督する市民参加型の制度を立ち上げるほうが、よほど急務なのではないだろうか。それを妨げる高い壁をつくることが、官僚や国家の仕事だ。
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