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セザンヌの「池」 [美術]

 現在開催中のボストン美術館展で展示されたセザンヌの「池」。この不思議な絵について、さらに考えてみたい。セザンヌは2つの世界を持つ、と先日書いた。対象を前にして描いた絵とそうではない絵。前者では「サント・ヴィクトワール山」に代表されるように、自然からの感覚を受容し、それを再構築する仕事において、並の修練では到達しえない絵画空間を描き上げた。この仕事は、静物画や人物画にも共通し、近代絵画の一つの到達点と言える。そこに見られる色彩の調和と揺るぎない堅牢さこそが、見る者を魅了する要素であることは確かだろう。調和と構造の堅牢さは後世の画家に大きな影響を与えた。
 一方で、「池」は想像の世界だ。自然を背景にした群像を描いたこの作品は色調が希薄なうえ、なによりもあの堅牢さが組み込まれていない。単純にいえば「ゆるい」のだ。緑の土手と池に配置された、2組の男女と2人の男。人物の大きさがまちまちなうえ、構図やタッチが弛緩している。画面の左右と中央に置かれた3本の木はとってつけたようだ。「サント・ヴィクトワール山」や「庭師ヴァリエ」に見られるような、対象に迫る追求の跡はない。
 とはいえ、なにかが組み込まれているにもかかわらず、私には見えていない可能性もある。マチスは絵が売れず貧しかった時代にセザンヌの「3人の水浴する女」を購入し、「セザンヌの作品中第一級の重要なもの」と語ったという。「3人の水浴する女」は、「池」の流れを汲む作品だ。手前の地面とその奥の池にかけて3人の裸婦が無雑作に置かれ、左右から木の幹がアンバランスに伸びる。画面全体は彼特有の色斑で描かれてはいるが、「池」同様に雑といえるほどのタッチ。この絵のどこが第一級なのか、私にはわからない。マチスに見えて、私に見えないもの。それは何なのだろうか。
 「池」はセザンヌが40歳ごろに描かれた。この絵に見られる不可解さは、実は画家の若き時代の絵画にも連なっている。20〜30代のセザンヌの絵におけるテーマは一般的にあまり知られていないが、非常に重苦しいものが多かった。殺人、暴力、強姦、死体。静物画や肖像画などを描く一方で、およそ後年の仕事からは想像もつかないモチーフを扱っていた。裸の女と黒人の召使いを描いた「モデルヌ・オランピア」においては、これに挑発的な諧謔味が加わる。テーマは大きく変わったが、「池」はその系列にある。このほかの群像画には、男だけのものと女だけのものがあり、それらの人物にはいずれも個人的特徴がなく、その点で抽象的であることが特徴と言える。
 裸の女の群像、セザンヌ晩年の大作「大水浴図」に連なる仕事に何が描かれているのか、それは謎のままだ。実際のモチーフを前にせずに描いたさまざまな群像は、ある意味で古典的なテーマのようでもあり、われわれ日本人には理解できない、ヨーロッパ人特有の精神世界を表しているということもできるだろう。人間と自然のとらえ方。これが根本的に異なるような気がするのだ。ひとつ確かなのは、大水浴に連なる作品群のテーマには、詩あるいは文学的なものが関係している点。それは、対象の本質を追究する仕事と対極をなしている(根底では通じているにせよ)。セザンヌは若いころに、自然の中でよく詩を読んだという。秘密はそのへんにあるのかもしれない。
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