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グローバル化と農耕社会

 夕方の三鷹を散歩をしながら考えた。近所の個人商店が消えてゆく。店を閉めたクリーニング店のあのおばさんは元気だろうか。世間話をしながらのんびり買い物をする機会が減った。これはなぜなのか。もちろん、大型のスーパーやコンビニができたせいではある。個人の買い物の傾向も変わった。
 コンビニはむろん、国内の大型スーパーの成り立ちは米国を手本にしている。80年代半ば、多摩地区の大手スーパーの社長とその取引業者による米国スーパーの視察ツアーに参加したことがある。ロサンゼルス周辺の大型スーパーをバスでいくつも見て回った。そこでわかったのは、日本が米国の手法を習得していく過程。大量生産と大量消費における流通と販売、販促の仕組みをそっくりコピーすること。ほかの多くの産業も同じだったのだろう。
 現在は、店のレジで待たされるとほとんどの人が苛立つ。たとえほんの数秒であっても。これは、'90年代ごろから顕著になったように思う。'70〜'80年代はまだ余裕があり、人々は待つことをさほど苦にしなかった。なぜ、これほど急かし、急かされるのだろう。自分を振り返ってみても、肉屋や八百屋、酒屋など個人商店が主流だった時代にはなかった心理だ。日本全体がなにか、大きな力に押されている。もしかしたら、すでに崖っぷちかもしれない。「大きな力」をいま、グローバル化と呼ぶ。日々、商品やサービスが大量に提供され、滞りなくどんどん消費することを要求される世界。ここでは利便性と引き替えに、滞ることが許されない。そして人々はおばさんとの会話をあっさりと捨て、抵抗なくそのシステムを受け入れた。
 街の近郊では、畑や雑木林、ときには公園やグランドをつぶして宅地化が進む。相続税が払えずに、広い屋敷が取り壊される。土地が、建て売り住宅や巨大なマンションで埋め尽くされ、そこに住むのは消費者であり、納税者だ。作家の池澤夏樹氏は、「日本では、“消費者”でいる限りは安全を保証される」と言った。それは官僚が描いた設計図だろう。今に根付く律令制。大昔は豪族や大名、次は地主、そしていまは官僚自身あるいは産業界や資本家。彼らからすれば、税金を納め、物を買う国民が増えることだけが喜ばしい。自然が壊されようが、文化が消えようがかまわない。人々に、決められた場所と時間を与えて徴収するそれは、農耕民族をたばねる考え方といえるだろう。そこに、イノベーションや新しいアイデアは不要だ。
 グローバル化した社会では、自分が探し出した場所と自分の時間で生きる狩猟型、遊牧型は排除される。もともと、弥生時代以降の日本人の大半は農民。固定の田畑が基盤なので、本質的に縄張り意識が強いという。獲物を捕らえて皆で分配する狩猟型とは対極にある。決まった枠の中で単一民族が押し合いへし合いしている。急かし、急かされるのはその辺とも関係がありそうだ。ともあれ、官僚が推し進めている農耕型と米国流のグローバル型は、どうにも相性がいいらしい。
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