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裸婦 [制作]

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 当たり前のことだが、人体は有機的だ。その色彩を面でとらえようとしても、変化が複雑で、見るたびにすべてが異なる。線も同様。この変化は石膏像の比ではない。骨とそれに付く筋肉、それらを覆う皮膚。クロッキーやデッサンを何枚描いても、この固く柔らかいモチーフの本質をつかまえることは困難だ。1本の曲線で人体の輪郭を描く人がいるが、その手法は私にはとうてい受け入れがたい。裸婦は、細いようで太く、豊かなようで華奢なところがある。線や面は幾重にもなり、必然的に、彫刻をつくるように描かざるを得ない。
 裸婦においてさらに難しいのは、モデルが持つ気配だ。この場合の気配には、モデル自体はもちろん、そこに漂う色彩や気質が含まれる。それらがわからなければ、筆を進める仕事は徒労に終わってしまう。なにより、モデルはただの物体(人体)ではないのだから。裸婦画会において多くの人は、見ず知らずの人物を4、5日で描いている。かくいう私も、漂う色彩すらわからぬまま、短期間で筆を置くことになる。モデルと言葉をかわすことで知り得ることは少なく、対象としてとらえるのは容易ではない。数日ほどのポーズでわかることはごくわずか。昔の画家はたくさんの時間ポーズをとらせたというが、それが当たり前なのだ。「短時間でいかに本質に迫るか」というのは、美大受験の話。絵画はそれほど簡単に描けるものではない。
タグ:制作
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