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マン・レイ展 [美術]

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 国立新美術館でマン・レイ展を見る。スペインをはじめ、フランスやドイツなど各国を巡回している展覧会が日本に来た。彼が生きた時代を、ニューヨーク、パリ、ロサンゼルス、パリ——の4つに分け、多数の作品を時系列に見る企画。日本での出品総数は約400点で、これには日本だけで特別展示された作品70点が含まれる。これだけたくさんのマン・レイ作品をまとめて見られる機会はめったにないだろう。初めて見る作品が多かった。それらはニューヨーク州ロングアイランドの金庫に長い間眠っていた、マン・レイ財団のコレクションだという。初めて見た作品は新鮮でいずれも興味深い。
 写真や映画のほか、ドローイングやリトグラフ、油彩画、彫刻、チェス、レイヨグラフで使った物、身の回りの品などが展示され、じっくり見ると3時間はかかる。会場で最初に目についたのはニューヨーク時代のカラフルなリトグラフ「伝説」(1916年)。マン・レイというとモノトーンのイメージが強いが、このリトグラフでは明るく鮮やかな色を使っている。そして今回多くのボリュームを占めたのが、ポートレート写真。マン・レイは、コクトーやデュシャン、サティ、ピカソなどのほか、イサム・ノグチや宮脇愛子なども撮っていた。なんとも豊潤な時代だ。ライティングは単純そうだが、独特の視点から被写体の真実をとらえている。あるいはその逆か。彼が被写体になにかを埋め込んだ。ソラリゼーションでなくても、十分独創性のある写真だ。
 ポートレート以外に目をやると、彼の作品のモチーフは至ってシンプルだ。日用品なども多い。この単純さは日常に通じ、この人物はそこに「芸術」を埋め込む。永続性と謎。それを作品という固形物に封じ込める仕事(少しのユーモアとエロスを加えて)。デュシャンと双璧をなす永続性と謎の芸術家。
 私が気になった写真が1点ある。一見なんでもない空き地を撮った「空き地のための習作」(1929年)。ここには、なにかが写っている。子どもが遊んだのであろうか、金属のパイプでできたベッドのような物が斜面に放置され、手前に背の高い木、中景にこれも高い板塀、さらにその奥に建物がある。実のところ、なにが写っているのか私にはわからない。しかし、この風景写真はマン・レイ芸術の視点の秘密が確かに内包されている。
 マン・レイは画家として出発し、写真で表現の幅を広げた。写真やオブジェなどが示すとおり、この人は目の作家だ。日常の中に芸術の視点があり、彼が視線を落とした物がそのまま作品と化す。それはひとつのアイデアであり、後世になってはもはやオリジナルでなく、複製でもかまわない。
 まとめて見ることに意味があるのが展覧会だが、やはりマン・レイ作品は画廊で単品で見たほうが謎めいていい気もした。ともあれ、本展のことは脳裏からいったん消し去ろう。そして、またいつか偶然のようにマン・レイ作品に出会いたい。本展のテーマにもなった「無頓着、しかし無関心ではなく」(妻・ジュリエットによる)のごとく。
 
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画家のかたち 情熱のかたち [美術]

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 三鷹市美術ギャラリーで「画家のかたち 情熱のかたち」展を見た。桜井浜江、田中田鶴子、高島野十郎、ラインハルト・サビエの4人の画家の作品による展覧会。出品されたのは三鷹市の収蔵作品だ。
 桜井浜江は三鷹市に住んで制作を続けた人で、2007年に亡くなっている(享年98歳)。住んでいたのは、禅林寺通りの竹で囲まれたあの風変わりな家だ。緑の竹の葉で周囲をすっぽり囲まれた住宅は不思議なたたずまいで、私も何度か写真に収めた。そのときは、そこが桜井浜江の住居兼アトリエだとは知らなかった。東美堂の店主によれば、晩年はなかなか筆をとることが難しくなっていたという。
 三岸節子とともに女流画家協会を立ち上げた桜井は、三岸同様、大きく大胆な絵を精力的に描いた。かたちがダイナミックに動き、厚塗りで直感的。情熱か、衝動か、ナイフで強く絵の具を定着させている。「波」や「海」といったタイトルの作品がいくつかあった。いずれも自然のダイナミズムに根ざした絵だ。大胆だがたんねんに色を置いている。40代に描いた人物画2点は、深みのある色彩でヨーロッパの宗教画のようでもあり、異彩を放っていた。
 田中田鶴子はモダンだ。初期は、不思議な形態と抑制した色彩を探求している。今回は紙にアクリルの作品が多く展示された。形態と色彩が自由に動く。この世代の人らしく、力の抜け方がいい。
 高島野十郎は、蝋燭の連作で知られるようになった画家。千葉の住み処で描いた、1本の蝋燭の炎を描いた絵。テーブルとモチーフと背景のシンプルな構図。実はこれがけっこう難しい。2点のリンゴの絵に、画家の力量が現れている。対象に向かう姿勢。見る仕事。
 ラインハルト・サビエの「キリストの顔」は以前もどこかで見た。男の顔をリアリスティックな技法で大きく描き、実物のセーターを張り付けている。顔は苦悩でゆがんでいるのか、悲しみか、思い煩うような表情。黒い額縁。彼の絵に刻まれているものはなにか。世界で起きた、あるいは現在も進行する行為において、人間が作り出す冷たさ。荒涼たる空間と不安定な時間。
 まったく世界が異なる4人の作家なので、展覧会のタイトルの枠には収まらない展示内容となった。同美術館としては、実験的な試みだったのだろう。じっくり滞留して作品を見るような来場者は少なく、市民受けするとは思えないが、このような展示を続けることは重要だ。若い市民に衝撃を与える展示ができるようになればいいと思う。
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マネとモダン・パリ展 [美術]

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 今春オープンした三菱一号館美術館で、開館記念の「マネとモダン・パリ」展を見る。明治期に建てられた洋風事務所建築(三菱一号館)を復元し、美術館にしたという。その外観は真新しいレンガ造り。内装は白壁で仕上げられ、木製の建具は背が高く、明治の建物を忠実に再現している。展示室をはじめ、館内は全体に薄暗かった。暑い真昼の屋外からこのような室内に入ると、体が慣れるまでに時間を要する。
 展示はマネの作品だけではなく、彼が活躍した時代(1860年代〜80年代)のパリに関する建築資料(主に線画のパース図)や写真、書籍、同時代の作家の作品なども織り交ぜられていた。展示会のタイトルどおり、マネはパリに生まれ、パリに生きた画家。いうなれば、都市の中で活躍した画家だ。その点で同時代の印象派と呼ばれた画家たちと異なる点が多い。
 マネは色彩や構図の追究を主としなかった。どう描くかより、なにを描くか。人物背景や都市、風俗に目が行っている。今回来た人物画では、暗めの背景と明度が高い顔や手の肌色のコントラストが特徴だ。古典的な手法といえるだろう。私は、シェンナやアンバーの色合いと明るい肌の色調の段差が気になった。さらに、シェンナやアンバーの使い方は決して美しくない。
 マネの黒は単色の黒に見える。ほかの画家がさまざまな色を混ぜて最暗部の色を作っていたのに対し、かれはあっさりと単調な黒を使う。「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」のスカーフや帽子、服などがそうだ。「ベルト・モリゾ」からは、色調の少なさと速い筆が見える。構造というよりはバランスが絶妙の肖像画。
 今回、「エミール・ゾラの肖像」や「死せる闘牛士」も来ていた。28歳のエミール・ゾラは近代都市パリに住む作家然とした佇まい。双方の絵とも主題が明確で筆さばきが簡潔だ。サロン会場での見え方を意識しているようにも思え、それが私には少々退屈に感じられた。
 一方、今回の出品で時間をかけて見たのは「温室のマネ夫人」「散歩」「イザベル・ルモニエ嬢の肖像」の3点。いずれも、前述の色調の段差が解決している。より多くの色を使っているからだろう。中でも、「散歩」の色調からは自然が感じられた。粗いタッチによる背景の緑と服の黒の対比、女性の造型がうまくいっている。
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ヘルベルト・ハマック展 [美術]

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 Kenji Taki Galleryでヘルベルト・ハマック展を見る。鋳型に樹脂やワックス、顔料を混ぜて流し込み、固めて制作した作品。半透明立方体のそれは、色彩であり、物質であり、光でもある。
 基材は粗めのキャンバス。立方体はその基材に載っている。これはあくまでも色彩による絵画なのだ。「固着」がこの仕事の核か。樹脂とワックスによる色彩は発色せず、内に向かう。表面はつや消しで、光さえ固めてしまったかに見える。ヘルベルト・ハマックは、色彩や光は物質でもあると語っているようだ。画家なら誰でもその誘惑に引き込まれる。その真偽はともかくとして、私は本展を2度訪れた。魅力的な作品である。

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アルフォンス・ミュシャ展 [美術]

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 三鷹市美術ギャラリーで開催中のアルフォンス・ミュシャ展に行く。夕方の館内は、同ギャラリーとしては珍しく混雑していた。来館者のうち、半分ほどは若い女性だ。物販コーナーには行列ができ、最後尾を示す看板を持つ係員がいたことに驚く。
 アール・ヌーボーにおける代表的な作家としてのミュシャの絵は書籍などで見ていた。あらためてその作品をまとめて見ると、緻密かつ大胆な装飾紋様や、現代のマンガやイラストレーションの祖ともいえるタッチと構図が新鮮だった。すでに1890年代には、現代に通じる表現力を持った作家が存在していたことになる(あるいは、後世の作家がミュシャを目指した)。
 今回の展覧会は出品数が多く、彼が広告やポスター、パネル、挿絵、壁画、油彩画(「少女の像」など)と、精力的に活動していたことを知る。ポスターや広告作品における装飾の優雅さと独自性は周知のとおり。彼が持つ、装飾された人物画の資質は天性のものだ。一方で、油彩の色彩、モノクロリトグラフの宗教画に表れたデッサン力も興味深い。彼が表現した世界がスラブ民族の文化や歴史に根ざしたものであるこを示す作品も展示され、装飾や女性はもとより、特に背景の空間表現に宗教的で幻想的なものを感じた。
 それにしても、ミュシャはどうしてこれほど若い女性たちに好かれているのだろう。現在では、アール・ヌーボーのような装飾は存在しない。一般的な服飾や書籍、電化製品のデザイン、建築においても、機能とコストを優先し装飾は極力排除する傾向にある。その半面、装飾的な素材集が密かに売れ続けていたり、「デコ」と呼ばれる趣向があることも事実だ。自分の住居を見回すと、装飾があるのはふすまと布団、食器くらいなもの。生活における装飾はゆとりや楽しさであり、豊かさだ。ミュシャの絵には、コンクリートとガラス、ビニールに囲まれた現代では忘れられてしまった「夢想」があるのかもしれない。

アルフォンス・ミュシャ展は7月4日終了
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オルセー美術館展2010 [美術]

 雨の六本木・国立新美術館。再びオルセー美術館展に行く。先日飛ばした作品をあらためて見て回る。私はモネがよかった。「日傘の女」と「睡蓮の池・緑のハーモニー」。「日傘の女」は高校の国語の教科書の口絵に載っていて、私は授業中ずっとそれを見ていたことを思い出す。モネの眼は色彩の効果をよく知っている。彼の視覚は人並み外れたものだ。ドガの眼は広角レンズをつけた一眼レフカメラのよう。スーラがたくさん来ていたが、私は点描の絵画は好きではない。光学や色彩学などの科学的な知識を応用したとのことだが、絵画としてどうも退屈。編み物でも見るかのようだ。
 セザンヌの「サント・ヴィクトワール山」は3mくらいの距離から見ると、驚くほどの奥行きが立ち現れてくる。これは、いまどきの3Dどころではない。頭の奥のほうで見る絵画。この画家のそれぞれの絵には、鑑賞に適した位置がある。試みの成果を見ることができるポジション。「ギュスターブ・ジェフロワ」も同様の立体感だった。遠近法などという小手先の技術は不要だということがだれでも理解できる。
 1800年代後半のフランスで描かれた油彩画は、絵の具の発色がいい。フランスの土地で採った顔料でつくられた絵の具なのだろう。言い訳になるが、いまの日本製の油絵の具ではあの色彩は出ない。土の色、果物の色、壁の色。それらを現代の絵の具で再現しようとしても必ず濁ってしまう。もっとも、欧州の色彩は日本には存在しないが。
 ロートレックの絵には彼の人生が投影されている。「赤毛の女」の白い背中。女たちの顔と服。この画家にとって、女は特別な存在だったのだろう。ゴーギャンはタッチこそ違えど、どこかゴッホに似ている。しかし装飾的だ。絵画構造はゴッホにより多くあり、ゴーギャンは構造から逃げている。
 今回、ピカソの静物画が1点来ていたが、この絵の前で足を止める来館者は少なかった。多くの人が集まって見ていたのは、ゴッホの「星降る夜」。日本人はロマンチストだ。ピカソの天才力の効力はそろそろ薄まってきたもよう。簡単に絵を描きすぎだ、と言いたい。
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水浴の男たち [美術]

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 「オルセー美術館展2010」でセザンヌの「水浴の男たち」を見る。先日、絵画においては人間と自然のとらえ方が日本人とヨーロッパ人で異なると書いたが、この絵をじっくりと見てあらためて感じたことがあった。それは、人間と自然の調和だ。大地と池と草木、雲、空、そしてさまざまなポーズをとる男達。彼方の雲には陽光があたり、黄金色に輝いている。この画面で彼が試みたのは、人間と自然の精神的な調和を表すことだったのではないだろうか。リンゴや静物、風景を描くといった、セザンヌが追求を続けていた対象の本質を実現する仕事とは別の仕事。あるいは水浴のシリーズは、もはや「仕事」ではないのかもしれない。

 「水浴の男たち」は実際のモデルや風景を基にせずに想像で描かれている。彼は少年時代、友人達と南仏の自然の中で貴重な時間を過ごした。そこで語らい、詩を読み、絵を描いたという。水浴シリーズの一部はその体験がベースになっていることは確かだろう。しかしそれ以上に、画家が求め続けた調和という主題を、絵画の手法を超えて人体によって描き表そうとしたように思う。

 構造を見れば、前景の4人とその間に置かれた2人、垂直を強調した木々や人体、三角形の構図など、着目すべき点もある。重要なのは、非常に単純な三角構図による安定感か。中央の木と立ちポーズの2人、斜めをかたちづくる左右の2人、その間に見える遠景の2人。これらの配置は、それまでの西洋絵画にはない構造によるものといえる。非常にグラフィカルであり、現代に通じる感覚だ。

 私は「水浴の男たち」や大作「大水浴」のテーマの深いところを捉えきれないでいる。前述したように、人間と自然の調和が重要であるという点は間違っていないと思う。しかし、それ以上のことは静物や風景画のようには読み取ることができない。宗教からはじまる西洋絵画の歴史を深く学ばなければ、この群像絵画の真髄を理解することは難しいだろう。画家が自分の中に積み上げてきた技法を使いつつ、静物や風景画とはまったく別の次元で描いた作品。ここに描かれた人間たちは生命力にあふれていることだけは確かだ。自然と人間の存在を賛美し、絵画における新しい神話を創造する試みのように思える。
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セザンヌの塗り残し [美術]

 絵画の画面における塗り残しの話。
 絵画の制作においては、色を意図的に置かない場合と置けない場合がある。前者では、キャンバス地あるいは下塗りを意図的に残すことで役割を果たし、後者では置く色が見つけられず、そのままにせざるを得ない。絵を描いたことがあるならだれでも経験するが、描き込むことで作品が失敗に終わることがある。そういうときはたいてい、「あそこで止めておけばよかった」と思うものだ。

 いうまでもなく絵画は、画面を絵の具で埋めつくすために描くのではない。下地をなくすことを目的とするのなら、それは単なる塗り絵だ。塗る前に常にひとつの色斑の価値を考える必要がある。もちろん、ひと筆ひと筆をパターン化して置く点描画のようなつまらない理屈にはまってしまってはならない。いま置くひと筆によって、画面全体が生きもするし、台無しになることもある。

 色斑を考えるときに欠かせないのはセザンヌの絵画だ。そして、残された下地の存在について考えるときもこの画家の仕事を思い出す必要がある。一般的に言われるように、確かにセザンヌの油彩には「塗り残し」があり、晩年になるほどその傾向は強くなった。この塗り残しに関して、これまでさまざまな考察が行われてきた。どういう意図があるのか、なぜ未完成なのかと。

 前述したように、絵画が優先するのは置くほうであり、キャンバス地が見えるだとか下地のままだとかは実はどうでもいいことだ。一般的な誤解は、全体をくまなく塗りつぶすことが完成につながるという認識に端を発する。画家にとっては、自らが目指す画面を構築する仕事こそ重要であり、目の前の表面的な完成などにとらわれてはいけない。エクスの大家がそうであったのだから、その後に続く画家はゆめゆめ「完成」という概念につかまらぬように注意すべきだ。展示するために絵を完成させるということはありえず、未完成で当たり前。その時点でできることを見せるのが展示というものだろう。

 セザンヌの伝記を読むと、職人の仕事の範疇である「仕上がり」は絵画においてなんの意味もないと語っていたようだ。油彩だからすみずみまで塗りつぶさなくてはならないなどという考えは早晩捨てるべきだろう。私はセザンヌの塗り残しは、そこに置く色がそのときには見つからなかったか、置く必要がないと判断したかのいずれかだと思っている。後者に関していえば、私はあるときセザンヌの風景画を前にして、中心点あるいは重心にあたるポイントを見つけたことがある。そのポイントは空白に近く、そこに絵具を載せたら、絵は失敗に終わることが予想できた。描かないことで、画面全体のバランスを保つ。絵画において、これはたいへんに重要なことだ。

 美術史学者の若桑みどり氏はセザンヌの絵画に関して、「絵画は『騙し』のテクニックとしての三次元表現であることをやめ、明暗、立体、質感の克明な技術をやめ、物体の正確な素描をやめる方向に向かった」「セザンヌのタッチは彼が塗っていることを示している」と述べている。これは数多のセザンヌ論の中でも特に重要な指摘だ。騙し(奥行き表現)で骨組みをつくり、仕上げる目的で色を置き、実物らしく見せるためにテクニックに走ったら、真実を追究する仕事はその時点で終わる。仕上げは感動といちばん遠いところにある。セザンヌ以前の絵画において、アカデミックな手法は視覚を欺くために生み出された。大切なのは白いキャンバス(平面)に塗ることであり、なにを構築するか、だ。塗り残しにことさらに注目する必要はない。セザンヌが追求した真実とはなにか、見るべきはそこのみだ。

燕子花図屏風 [美術]

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 改築して開館した根津美術館で、尾形光琳の「燕子花図屏風」を見る。1階の薄暗い展示室に置かれた6曲1双の屏風は、見る者を引き込むような魅力を放っていた。斬新かつ優雅。何度も近寄ったり、離れたりしながら鑑賞する。
 一見して、燕子花が思っていたよりも大きく描かれていたことに感動を覚えた。花びらにはボリューム感があり、大胆さと慎重さによる筆致が柔らかさを生んでいる。花の群青は花弁によって濃淡を使い分けて描かれてあったが、総じて意外に明るい(同館のWebの画像が比較的実物の色に近い>http://www.nezu-muse.or.jp/jp/collection/index.html)。花を引き立たせるために、緑青による葉の塗りは単調。とはいえ、こちらの濃淡の使い分けも雑に見えるがうまい。また、型紙を用いて同じ形を繰り返しているところがあり、それが安定感をもたらしている。
 左右を比べて気がついたのは、花の群青色が右隻側が明るく、左隻側が少し濃い点。屏風の見方というものがあるのかどうかは知らないが、もし右から左に見ていくのであれば、配色がよく考えられている。明るいほうから濃いほうへ。また、重心も右隻はモチーフが上にあって軽やかさがあり、左隻は下にあり重みがでている。目線の流れに沿った絶妙のバランスだ。
 屏風であるから、折って立てられている。山と谷ができ、それが一種の立体感あるいはアクセントを生む。屏風絵はこれまでにも何度か見たが、本作は反復性と立体感がうまくかみあっている。もちろんそれは、西洋的な奥行きとは異なる世界だ。見ていて飽きることがない。画家の構成力に時代の新旧はないことがわかる。色は群青と緑青と金。そして、繰り返しの魅力。必要な要素のみで描く尾形光琳の画力はいうまでもなく確かだ。
 美術館の裏手には草木が茂る庭園があり、ちょうど燕子花が咲いていた。実物を見ると、光琳の表現力があらためて確認できて面白い。
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セザンヌの「池」 [美術]

 現在開催中のボストン美術館展で展示されたセザンヌの「池」。この不思議な絵について、さらに考えてみたい。セザンヌは2つの世界を持つ、と先日書いた。対象を前にして描いた絵とそうではない絵。前者では「サント・ヴィクトワール山」に代表されるように、自然からの感覚を受容し、それを再構築する仕事において、並の修練では到達しえない絵画空間を描き上げた。この仕事は、静物画や人物画にも共通し、近代絵画の一つの到達点と言える。そこに見られる色彩の調和と揺るぎない堅牢さこそが、見る者を魅了する要素であることは確かだろう。調和と構造の堅牢さは後世の画家に大きな影響を与えた。
 一方で、「池」は想像の世界だ。自然を背景にした群像を描いたこの作品は色調が希薄なうえ、なによりもあの堅牢さが組み込まれていない。単純にいえば「ゆるい」のだ。緑の土手と池に配置された、2組の男女と2人の男。人物の大きさがまちまちなうえ、構図やタッチが弛緩している。画面の左右と中央に置かれた3本の木はとってつけたようだ。「サント・ヴィクトワール山」や「庭師ヴァリエ」に見られるような、対象に迫る追求の跡はない。
 とはいえ、なにかが組み込まれているにもかかわらず、私には見えていない可能性もある。マチスは絵が売れず貧しかった時代にセザンヌの「3人の水浴する女」を購入し、「セザンヌの作品中第一級の重要なもの」と語ったという。「3人の水浴する女」は、「池」の流れを汲む作品だ。手前の地面とその奥の池にかけて3人の裸婦が無雑作に置かれ、左右から木の幹がアンバランスに伸びる。画面全体は彼特有の色斑で描かれてはいるが、「池」同様に雑といえるほどのタッチ。この絵のどこが第一級なのか、私にはわからない。マチスに見えて、私に見えないもの。それは何なのだろうか。
 「池」はセザンヌが40歳ごろに描かれた。この絵に見られる不可解さは、実は画家の若き時代の絵画にも連なっている。20〜30代のセザンヌの絵におけるテーマは一般的にあまり知られていないが、非常に重苦しいものが多かった。殺人、暴力、強姦、死体。静物画や肖像画などを描く一方で、およそ後年の仕事からは想像もつかないモチーフを扱っていた。裸の女と黒人の召使いを描いた「モデルヌ・オランピア」においては、これに挑発的な諧謔味が加わる。テーマは大きく変わったが、「池」はその系列にある。このほかの群像画には、男だけのものと女だけのものがあり、それらの人物にはいずれも個人的特徴がなく、その点で抽象的であることが特徴と言える。
 裸の女の群像、セザンヌ晩年の大作「大水浴図」に連なる仕事に何が描かれているのか、それは謎のままだ。実際のモチーフを前にせずに描いたさまざまな群像は、ある意味で古典的なテーマのようでもあり、われわれ日本人には理解できない、ヨーロッパ人特有の精神世界を表しているということもできるだろう。人間と自然のとらえ方。これが根本的に異なるような気がするのだ。ひとつ確かなのは、大水浴に連なる作品群のテーマには、詩あるいは文学的なものが関係している点。それは、対象の本質を追究する仕事と対極をなしている(根底では通じているにせよ)。セザンヌは若いころに、自然の中でよく詩を読んだという。秘密はそのへんにあるのかもしれない。
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