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スケッチ [制作]

 調布の「緑の相談所」(神代植物公園グリーンギャラリー)でスケッチをする。雨上がりで地面の枯葉が濡れていた。モチーフを探してしばらく歩く。入園者は少なく、ときどき出会う程度。韓国人の観光者はこんなところまで来ている。アプローチ両側のイチョウの葉は黄色く光り、園内の木々も紅葉が進んできた。建物正面では、たくさんのトチノキの落ち葉が地面を覆う。手入れのなされていない庭園はしっとりと落ち着いた佇まい。陽が傾いた風景の中、閉鎖された建物と木々を描いた。

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古典 [制作]

 京橋のブリヂストン美術館に行く。古典から学ぶために時々ここを訪れる。いうなれば、美術館参りだ。現在は、海がテーマの企画展「うみのいろ うみのかたち」が開かれ、同館の収蔵品の中から主に海がモチーフの作品を展示していた。その中では、藤島武二の小品「潮岬海景」がよかった。ペインティングナイフで、波と岩、海原と空を鋭く描いている。構成が厳密で、なにより色調がいい。
 この美術館の企画展はいつもほとんど収蔵品で構成されるのだが、それでもかまわない。常設展示に貴重な作品がいくつかあるからだ。芸術はやはり実物を見るに限る。色彩の本当の発色やマチエールが命だ。それらが見えると当然、画面構成も明らかになる。画集や写真では作品の価値の一割も見えない。本物と写真は似て非なるものだ。
 先達の仕事は、見る者に謎を投げかけ、一方で勇気を与えてくれる。いつも絵の前に立つたびに、どうやってこのように描いたのかと問いかけてしまう。その答えは明らかだ。100年前の画家が残した仕事の中に、今日も新しい発見があった。私はその発見を言葉にして持ち帰ろうとするが、それは雲をつかむような話。家に帰って、握った手のひらを広げると、そこには何も残っていない。それでも、なにがしかの影響が体に染みこんだことを信じて今日も筆をとる。
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銀座の画廊 [制作]

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 仕事の合間に銀座に行き、画廊を2つ回る。1軒めは、文具店上階のギャラリーで開かれたAさんの個展。イタリア滞在で制作した水彩画とアクリル画。アクリル画は鮮やかさと深さを兼ね備え、構図を含めて、作家が生来もつ感覚がイタリアの風景によって引き出されている。広いギャラリーを埋めるのに十分な作品数。今年は画集も制作し、販売していた。Aさんとしばらく話をする。
 2軒めは、友人が参加した老舗画廊の10人展。作家は在廊していない。新しい内装の室内に小品が並ぶ。友人の作品は一つの様式をもっている。こちらは小さな画廊だが、マチエールが心に蓄積するような油彩が多かった。じっと見ると、対話を生み出す。
 実を言うと、私は画家と絵の話をするのが苦手だ。以前から感じているのだが、会話がまったくかみ合わない。つながるのは、せいぜい画材の話題ぐらいだろう。あとは言葉の上滑り。その原因は、私の絵の見方の狭さのせいもある。「絵の見方は自由であり、どう感じてもいい」などとよくいわれる。しかし私は、非常に限られた要素と、ある一つの視点から画家の仕事を見る。それはもちろん、言葉で判断しているのではない。一方、はたで見ていると、画家同士ではけっこう話のやり取りが進むことが多い。彼らが何を話しているのか、私にはさっぱりわからない。無理をして話すと、いつも自己嫌悪に陥る。
 画家自身は、他人から作品をほめられて悪い気はしないだろう。ただし、作品の出来に満足していない作家は、賞賛を素直には受け取らない。たいていの場合、賞賛される要素と本人が目指す地点がまったく異なるからだ。それがわかるから、余計と話がしにくい。画廊は本来、黙って見て、黙って立ち去るのがいい。

絵画教室 [制作]

 ここ数年、いくつかの絵画教室や絵を描く市民の会に参加してきた。そこでいつも感じることがある。それは、モチーフのセッティングに対する無頓着さだ。人体しかり、静物しかり。モチーフを重視せずに制作を始める傾向は、どの教室や会場でも同じだ。もっともそれは、教わる側や参加者のせいではない。教える側の問題だ。美大受験のためのトレーニングならまだ理解できるが、期待と不安をいだいてやってくる一般の絵画愛好者にとっては酷な話といえる。
 例えば裸婦。白いクロスの壁で、照明は天井の蛍光灯という環境(場合によっては会議室)において、モデルを描き表すのはなかなかに難しい。プロでさえ苦労するはずだ。私は、蛍光灯で照らされた人体や背景というものが何色を帯びているのか、いまだにつかめない。まして、すみずみまで明るく何もない室内で白い壁と人体との調子の差を出すには高い技術がいる。できるかぎり自然光を利用し、モデルに陰影をつけたい。それが無理なら、背景の調子を落とす工夫が必要だ。また、モデルをパイプ椅子という味気ないものに座らせるのも一考を要する。ボリューム配分の点で考えて、最低でも木の椅子を用意すべきだろう。
 そして静物。学校の美術室にあるような無味乾燥なモチーフ(例えば、ワインの瓶や鏡面の皿、真っ赤なリンゴ、布)を単純に並べて画面を構成させるのは、少々強引すぎる。本当は、モチーフ選びと組み立てから教えるのが正しい。モチーフは自分で(把握しやすいように)組み立てるものだ。平面に無造作にごろりと並べた物体を描くのはかなり難しい仕事だ。多数の参加者がいる関係でやむを得ない面もあるが、なるべく捉えやすくなるよう配慮したい。
 昨今の絵画教室に見られるのは、水深10cmのプールでクロールを教えるような状況だ。それでも皆、四苦八苦してなんとか、絵にしようと試みている。わざわざ難しいものを描く必要はない。教える側は、泳げる深さの水を用意し、描きやすい環境を提供する必要がある。描き手の資質を引き出すために。
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形の悪い果物 [制作]

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 形の悪い果物を探している。都市に住む絵描きにとって、モチーフ探しは切実な問題だ。風景や人物などを見つけるのもたいへんだが、静物もなかなか難しい。人工物ならば、まだ楽だろう。しかし、例えば果物。絵になる果物を見つけるのは至難の業だ。それはなぜか? スーパーで売られている果物は、形や色が整いすぎているからだ。
 例えばリンゴ。売られているのは皆まったく同じ色と形、サイズだ(しかも日本のリンゴは大きい)。これを並べても絵にはならない。よく、絵画教室などで、油彩でリンゴを描いて難しいと悩んでいる人を見かけるが、そんなときそれはあなたの腕のせいだけではありませんよ、と言ってあげたい気持ちになる。日本のリンゴは、油彩のモデルに向かない。大量消費という型にはめるため、人の手が必要以上に加えられた形と色の代物。プラスチック製の偽物と大して変わらない。試しに100年前のフランスの画家によって描かれた絵を見てほしい。そこにあるリンゴは形や色に違いがあり、陽が当たらなかった面が黄色く、色合いが豊富でそれぞれが個性を放っている。絵画制作に必要なのは感動。それを受けるだけの存在感をもったモチーフが、この仕事には必要なのだ。
 今日、道ばたに桃が数個落ちているのを見つけた。見上げると、とある邸宅の庭から広がった木にたくさんの桃がなっている。落ちた桃たちはほとんど傷んでいたが、色、形ともに自然本来の姿を保っている。天からの恵みを3個持ち帰った。

 [制作]

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 この時期に戸外で制作している際、いちばん困るのが蚊だ。彼らが飛び回ると気が散って、ときに筆があらぬ場所に着地してしまう。パレットを持つ手や首の周りにふわふわとまとわりつく縞模様。もっとも、蚊は5月ごろからすでに現れ始め、木立の日陰などに立っているとすぐにやって来る。今日は日差しが照りつける場所にいたにもかかわらず、ずいぶん刺された。虫よけスプレーを手や首などにこすりつけたが、効果はない。耐性でももったのだろうか? 制作を終え、刺されて赤くなった個所を水飲み場で冷やした。
 子供の頃はかゆさに耐えられず、ひっかいてよけいひどくなったものだが、大人になるとがまんできるようになる。すると、はれが引けば跡はなにも残らない。ハチに2度刺されるとショックが大きいといわれるが、蚊はそのへんを心得ている。
 夕方、息子を連れて「まつや」に行き、蕎麦を食べた。蚊に刺された話をすると、「蚊が生きている意味ってあるの?」と息子が訊く。どんな生き物でも生きる意味はあるよ、と答えた。ずいぶん立派な回答だが、昼間の状況ではとてもそのように思うゆとりはない。見つけたらたたく。次回は、腰に蚊取り線香でもぶら下げようか。

抽象画 [制作]

 100年前のフランスの画家が描いた絵画は、印象的であり写実だと思われている。しかし写実にとどまっていたのは、その後を追いかけた後世の画家たちであり、フランスの画家の仕事は極めて抽象的な次元で行われていたと思う。そして抽象といえば、ピカソを始めとするキュビズムの画家やダリ、米国を中心とした現代美術などが挙げられるが、昔のフランスの画家たちが成し遂げた仕事の功績はそれら以上に大きなものだ。100年前の画家は絵画という仕事を、色彩とデッサン、ストロークだけで推し進めた。対象の本質を眼と脳で把握しながら絵画空間を制作することが、もっとも重要である。つまり、対象から得た感覚を、画家の眼と頭脳で変換して表現する。これはすでに写実ではない。風景画にしても、実際の当時の風景(写真)と作品を見比べると、驚くべき変容(変調)と取捨選択が確認できる。言い方を変えれば、写実の意味が違う。私はその変調を知るとき、愕然とするのだ。変調の地平は、想像を超えた場所にあった。その先端の仕事はいまなお解き明かされてはいない。
 現在の人々はピカソやダ・ヴィンチを天才と称するが、彼らの「抽象画」や肖像画から、文学的要素や主義、科学的要素、社会的要素を抜き去ったら、何が残るというのか。そこに絵画はあるのか、はなはだ疑問だ。確かに彼らは天才なのだろう。しかしながら絵画は、つくられた天才や科学者など求めてはいない。
タグ:抽象画

裸婦 [制作]

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 当たり前のことだが、人体は有機的だ。その色彩を面でとらえようとしても、変化が複雑で、見るたびにすべてが異なる。線も同様。この変化は石膏像の比ではない。骨とそれに付く筋肉、それらを覆う皮膚。クロッキーやデッサンを何枚描いても、この固く柔らかいモチーフの本質をつかまえることは困難だ。1本の曲線で人体の輪郭を描く人がいるが、その手法は私にはとうてい受け入れがたい。裸婦は、細いようで太く、豊かなようで華奢なところがある。線や面は幾重にもなり、必然的に、彫刻をつくるように描かざるを得ない。
 裸婦においてさらに難しいのは、モデルが持つ気配だ。この場合の気配には、モデル自体はもちろん、そこに漂う色彩や気質が含まれる。それらがわからなければ、筆を進める仕事は徒労に終わってしまう。なにより、モデルはただの物体(人体)ではないのだから。裸婦画会において多くの人は、見ず知らずの人物を4、5日で描いている。かくいう私も、漂う色彩すらわからぬまま、短期間で筆を置くことになる。モデルと言葉をかわすことで知り得ることは少なく、対象としてとらえるのは容易ではない。数日ほどのポーズでわかることはごくわずか。昔の画家はたくさんの時間ポーズをとらせたというが、それが当たり前なのだ。「短時間でいかに本質に迫るか」というのは、美大受験の話。絵画はそれほど簡単に描けるものではない。
タグ:制作
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