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没後20年 武満徹オーケストラ・コンサート [音楽]

 武満徹が亡くなって20年が過ぎた。今年は各所で節目のコンサートがいくつか企画された。東京オペラシティコンサートホールでの「没後20年 武満徹オーケストラ・コンサート」はその一つ。同ホールの名称は「東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル」。追悼公演の企画としては大きなものといっていいだろう。公演日は10月13日。

 私は以前に、三鷹市芸術文化センターにて沼尻竜典指揮東京モーツァルトプレイヤーズによる武満作品演奏会(『武満、モーツァルトの「レクイエム」』を聴く)に足を運んだ。いつものごとくそのときの音の記憶はすでに残っていないが、今回はホールとオーケストラが違うせいか、あらたな体験をした心持ちだった。

 指揮は武満作品を多く手がけ、友人でもあったというオリヴァー・ナッセン。曲目は以下のとおり(演奏順)。

地平線のドーリア(1966・約11分)
環礁ーーソプラノとオーケストラのための(1962・約17分)
テクスチュアズーーピアノとオーケストラのための(1964・約8分)
グリーン(1967・約6分)
夢の引用ーSay sea, take me!ー ーー2台のピアノとオーケストラのための(1991・約17分)

 本公演を聴いてまずはじめに感じたのは、武満徹が作曲したオーケストラ音楽の繊細さだ。単に音量の小ささや音の弱さではなく、楽器の鳴らし方自体が特別であり、音楽の成り立ちがほかの作曲家と異なる。「強さ」やボリュームを目指すのではなく、草木や土、風、空などのうつろう自然現象による不確定さと厳しさ、鋭さを備えた音楽とでもいえばいいだろうか。それから、この繊細さを包み込む静寂、静謐なる空間(間)の存在を強く感じさせる。特にその傾向が強かったのは「地平線のドーリア」だ。プレイヤーが発した音が「演奏」としてやってくるのではなく、こちらからその「場」へと向かう必要がある。そして、ここはいったいどこなのか、なにが起きているのか。ほの暗い林の中でつむがれた音を追う。ひとつだけ言えるのは、自分がいるのは日本のような場所だということ。それが過去か未来はわからない。

 「環礁」で女性歌手が歌いだす。最初は気づかなかったが、よく聴くと日本語だった。大岡 信の詩。ソプラノはクレア・ブース。神話的な静寂の場に立ち現れるものはなにか。「テクスチュアズ」は張りつめた緊張感をダイナミックに構成した秀作。ピアノは高橋悠治(ピーター・ゼルキン体調不良のため変更)。「グリーン」は比較的調性感があった。青空と雲のある風景を想起させるような美しさがときおりやってくる。さまざまな映像を想起させ、その連鎖は聴くものをどこへ導くのか。「夢の引用」のピアノは高橋悠治とジュリア・スー。ここではピアノの響きが美しい。ときに、ドビュッシーの「海」や武満自身の作品が引用として現れる。武満徹という作曲家のスケールの大きさを感じる一曲。

 2階の側面の座席から俯瞰で聴いたせいか、音がまとまって聴こえるのではなく、各パートが個別に耳に届いた。これは演奏者がよく見えたせいなのか、武満作品がもともとそういう構造なのかはわからない。そのため、全体の流れよりも、一つひとつの音をつかまえることが容易だった。以前三鷹で聴いた「弦楽のためのレクイエム」とは異なる印象を受けた。とはいえ、曲中の大きな盛り上がりに向かうエネルギーの集中は恐るべきものがあった。ストラヴィンスキーが「厳しい音楽」と評した武満の音楽にある機微を的確にとらえた演奏だったと思う。

 私の知る限り、今年開かれる武満徹コンサートで見逃せないのは、本公演と世田谷美術館講堂での高橋アキ「武満徹 ピアノ独奏曲演奏会」だろう。残念ながら後者を知ったときにはチケットはすでに完売だった。高橋アキが弾く武満作品の確かさはCD「高橋アキ plays 武満」を聴けばわかる。できれば20年といわず、ときどき演奏してほしい。

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東京オペラシティコンサートホールに掲示された宇佐美圭司作の武満徹肖像画レリーフ

鈴木大介 ギター・リサイタル [音楽]

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 「映画名曲コンサート」と題した鈴木大介のギター・リサイタルを聴く。会場は三鷹市芸術文化センター。

 2006年に彼のアルバム「カタロニア賛歌〜鳥のうた/禁じられた遊び〜」を聴いたとき、武満徹が言ったように、私もまた「今までに聴いたことがないようなギタリスト」という感想をもった。今回実際にホールで演奏を聴き、以前感じたことの理由が分かった気がした。

 「カタロニア賛歌」はスペイン音楽を演奏したアルバムだが、このギタリストのレパートリーは幅広い。今日のプログラムは前半が映画で使われたクープラン、スカルラッティ、バッハなどのバロック音楽、後半が映画音楽集だった。卓越した技術と演奏表現力をもち、ギター本来の音楽性を最大限に引き出す。ライブではCDで聴くよりも音質が柔らかく、表現に柔軟性があった。

 鈴木大介の音楽には温かい血が通っている。特に、スペインやイタリアの血統が色濃い。これは、それらの土地から影響を受けたというよりも、彼が本来持っている資質なのではないだろうか。より正確にいえば、スペインやイタリア的なもの、ということになろうか。気質や悲しみを備え、これまでの日本人にはなかった感覚で表現する。プログラムの後半で演奏されたエンニオ・モリコーネ「ニュー・シネマ・パラダイス」やニーノ・ロータ「ゴッド・ファーザー」、フランシスコ・タレガ「アルハンブラの思い出」で彼の特性が十分に発揮される。

 彼が奏でる音楽には人々がまだ文化芸術への希望を保っていた近代の記憶が刻まれている。それは決して古くさいものではなく、文化が熟成しつつある時代の空気が違和感なく新鮮な状態のまま織り込まれ、一つひとつの音に確かな手応えがあった。

 今日演奏したすべての曲が輝きをもっていた。プログラムの終盤で弾いた武満徹の『ワルツ〜「他人の顔」』は、さまざまな音楽家が取り上げているが、鈴木大介による解釈、アレンジもいい。曲想をきちんと捉えているということだろう。技術や表現力、体温、解釈する力のいずれをも備えた演奏家だと思う。特に、一音一音に血を通わすことを大切にし、これを成し得る希少なギタリストであるのは間違いない。次は、「カタロニア賛歌」のような張りつめた演奏を聴いてみたい。

【曲 目】
 フランソワ・クープラン(A.ディアス編):神秘の障壁
 ドメニコ・スカルラッティ:ソナタ K.213/544/263
 ヨハン・セバスチャン・バッハ(D.ラッセル編):G線上のアリア
 ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル:サラバンド
 ヨハン・セバスチャン・バッハ:シャコンヌ

 ルイス・バカロフ:イル・ポスティーノ
 ヘンリー・マンシーニ:ひまわり〜シャレード
 エンニオ・モリコーネ:ニュー・シネマ・パラダイス
 ニーノ・ロータ:ゴッド・ファーザー・メドレー
 フレデリック・ショパン(F.タレガ編):ノクターン
 フランシスコ・タレガ:アルハンブラの思い出
 ジョージ・ガーシュウィン:ス・ワンダフル
 林光:裸の島
 武満徹:ワルツ〜他人の顔
 伊福部昭:サンタ・マリア
 アンヘル・ビジョルド(R.ディアンス編):エル・チョクロ
 アントニオ・カルロス・ジョビン:イパネマの娘

アンコール
 J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番 BWV1007より プレリュード
 禁じられた遊び~A.トロイロ:スール
タグ:鈴木大介

武満徹とモーツァルトの「レクイエム」 [音楽]

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 トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズの第67回定期演奏会『武満、モーツァルトの「レクイエム」』を聴く。沼尻竜典指揮、会場は三鷹市芸術文化センター・風のホール。プログラムは武満徹の「MI・YO・TA」「翼」「弦楽のためのレクイエム」、三善晃の「弦の星たち」、モーツァルトの「レクイエム K.626」(演奏順)。この楽団、このホールならではの選曲だったので、足を運んだ。
 あらためて辞書で「レクイエム」をひくと、『カトリック教会で、死者のためのミサ。死者が天国へ迎えられるよう神に祈る。入祭文が「レクイエム(安息を)」という言葉で始まるところからいう』あるいは、「死者の鎮魂を願う入祭文を含めて作曲した,死者のためのミサ曲。鎮魂曲。鎮魂ミサ曲」と書かれている。レクイエムは、理不尽な出来事で命を落とす人が絶えない現代において、まるで洞窟の中で響き続けるように奏でられる死者のための音楽といえるだろう。もっとも、この理不尽さはいまに始まったことではなく、太古から続く。そして死者に限らず、生きている者もまた常に安息を求めている。
 武満徹が遺したのは、魂にかかわる音楽とでもいえばいいだろうか。善悪を超えた、ただ生きることのみに焦点をあてた音楽だ。前2曲はポピュラー音楽的なコード進行の曲。幸福感に満ち、これまで多くの歌手によって歌われてきた。彼の音楽は演奏者の生命を借りて復活する。あるときはピアノや歌で、そして管弦楽や和楽器を通して。その印象がほかの作曲家よりも強い。「弦楽のためのレクイエム」は、悩み、苦しみながら歩き、彷徨い続ける人々の姿をさまざまなアングルで捉えた映像を見るかのような作品だった。このような表象は、われわれの心からいつの間にか消え去り、世界は物質と情報に占拠されている。
 三善晃は生命の美しさや生きる喜びを震えるように書き綴った作曲家だ。作品は、高度な構造の中に、どこかフランス的な明るさがある。それは、印象派が見つけ出した光や色彩のようなものでできている。沼尻竜典は過去にも三善晃の曲を指揮している。特に、2008年に開かれた「三善晃作品展」において「弦の星たち」を指揮した。作曲者から「完璧な解釈」と称されただけあって、今回の演奏も緻密でありながら、絶妙のスピード感でホールを包む。バイオリン独奏の水谷晃の腕も確かだ。
 モーツアルトのレクイエムは歴史そのもの。ミサの情景を浮かび上がらせ、その長大な道程を見るかのような演奏だった。ヨーロッパの長い歴史の層から染み出る湧水のような音楽。それは、人々の希望を求める心と悲しみだ。幾度も輪唱される言葉の積み重ねは、西洋的なパースペクティブをかたちづくり、宗教的な祈りへと昇華する。この祈りを通してモーツァルトがその両腕の中に捉えたかったもの、それこそが安息なのだろうか。作曲家が残り少ない時間の中で、到達したであろう地平を考える。
 「弦楽のためのレクイエム」は小沢征爾指揮のCDで何度か聴いていたが、やはりライブの演奏は素晴らしい。生演奏では、音の減衰と出現が手に取るように肌で感じることができる。ある音が消えゆく陰から新しい音が生まれ、音が交差したり、ぶつかったり、交わったりするのを体験する。音楽が湧き出る源泉を見た。今日の演奏で私は単純にそんなことを思ったし、実際にそのような演奏だった。

細野晴臣コンサート2014 [音楽]

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 「細野晴臣コンサート2014」に行く。会場は新宿文化センターの大ホール。
 7時開演。細野さんはハットに黒いサングラス、グレーのシャツを腕まくりし、ベストを着て登場。主にカントリー&ウエスタン、そしてR&B、フォークソング、ポップスなどを立て続け歌う。3、4曲ほど歌って、帽子とサングラスを外した。ライブを愉しんでいて、調子はよさそうだ。途中にMCをはさんで次々に演奏した。
 細野さんはボーカルとギター。バックメンバーは、ギターとスチールギターが高田漣、ドラムスが伊藤大地、ウッドベース/ベースが伊賀航と、みな若手だ。バックのギターとベース以外はアコースティック。バンド・サウンドはこなれており、このメンバー編成ですでに5年だという(高田と伊賀の組み合わせでは9年)。途中からピアノとアコーデオンのコシミハル、ギターの徳武弘文が加わった。1曲の長さは2分半から3分ほどと短い。
 さて、とにかくこの夜の細野さんは渋くてかっこよかった。そしてどことなく軽妙洒脱。本人が「どうしても明るくなっちゃうんですよね」と言っていたとおり、グレーの色彩を放ちながらポジティブなスピリットがみなぎる。私は、はっぴいえんどやティン・パン・アレー、YMOとその前後のソロ、さまざまなアーチストのアルバムで担当したベースや作曲など、細野さんのいろいろな仕事を30年以上聴いてきた。それでも、新宿文化センターでこの音楽家の新たな面を見た気がした。根っからの音楽家であり、エレクトリックからアコースティックまで相当深い階調をもった多面性を備えている。
 私はカントリーミュージックや古いR&B、フォークソングをほとんど知らない。そのため、曲のジャンルに関してはまったく見当がつかなかった。それでも細野さんが演奏するアメリカのルーツミュージックを受け入れる準備はできていた。ジャンルは少し異なるが、久保田麻琴との共作「Road to Louisiana」(1999年)を長年愛聴していたからだ。今回の演奏を聴いて、アメリカの古い音楽のよさに気がつく。これは細野さんのスピリットと独特の歌声によるところが大きい。また、メンバーに力量があり、この類の音楽が東京でも十分成立することは貴重なことだと思う。
 照明はRYU。ステージに立てられたスタンド型のライトが主で、シンプルなライティングだった。舞台照明というのはときどき、目を見張るような美しい明暗をつくり出す。RYUの照明は細野さんの渋くて豊かな音楽の輪郭を際立たせた。ホリゾントの色もよかった。
 演奏した曲は前述したジャンルのほか、2001年宇宙の旅でも使われた「Daisy Bell」、ボブ・ディランの「Too Much Of Nothing」、ビートルズの「Dear Prudence」、アンコールで「香港Blues」「はらいそ」など。細野さんのオリジナル曲は「ラッキスター」「POM POM JOKI」「BODY SNATCHERS」「香港Blues」「はらいそ」だっただろうか。毎回のMCもユーモアがあり、はっぴいえんどのころの驚きのエピソードなどを含め、観客を愉しませた。細野流のエンターテインメントはエキゾチックで和やか。粋な東京人が奏でる上質な音楽を味わう夜だった。

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バート・バカラックのコンサート [音楽]

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 バート・バカラックのコンサートに行く。会場はNHKホール。編成はザ・バートバカラック・バンド&シンガーズと東京ニューシティ管弦楽団。シンガーズは男性一人、女性二人。中央にバカラック用のピアノと電子ピアノ。
 私の中でバカラックは特別な存在だ。この作曲家の名前を知ったのはカーペンターズを通してだったと記憶している。その後ディオンヌ・ワーウィックやダスティ・スプリングフィールドの歌に出会う。いずれも名曲ぞろいだ。彼の曲は子供のころからすでに耳に入っていたはずだが、意識して聞くようになったのはいつごろからだったろうか。一時期かなり聴き込んだ。カーペンターズも聴いたが、やはりディオンヌ・ワーウィックだ。あるとき、彼女の2枚組のアルバムを中古で買った。伸びのある魅力的な声で名曲に磨きをかけるように歌う、特別の表現力をもつ歌手。バカラックと彼女が'81年に来日公演を行なったことを最近知り、聴けなかったことをいまさらながら残念に思う。また、ダスティ・スプリングフィールドも私にとって特別な歌手だ。バカラックと二人の女性歌手の組み合わせは絶妙。しかもいい録音がたくさんある。
 私は今夜の演奏を聴くにあたり、今回と同じくオーケストラ編成による1971年来日時の録音盤「LIVE IN JAPAN」をイメージしていた。その読みは外れず、実際に「LIVE IN JAPAN」と同じような曲目の構成だった。メドレーで始まり、歌手一人ずつ、バカラックのソロ。バカラックの弾くピアノはときどきあの独特の和声を力強く響かせる。それにちょっとした弾き振り。作詞、作曲、編曲、演奏、歌いずれもいい。サン・ホセへの道、Walk on by、The Look of love、Don't make me Over、ディス・ガイなど、名曲が次々に登場し、夢のような時間だった。85歳のバカラックが終盤で「Alfie」と「A house is not a home」を通しで歌う。「Alfie」は特に好きな曲だ。「A house is not a home」では思わず涙腺が緩む。年齢のため、歌声は途切れがちだったが、私にとってはそれでも十分だった。
 バカラックの音楽は、世界が素晴らしい場所になることを気づかせてくれる。'60年〜'70年代に思い描いたビジョンが甦る。そこにはポップスならではの豊かさ、すでに使われなくなって久しい「夢」がある。ポップスがわれわれ一人ひとりに提供してくれるのは精神の豊かさ、あるいは光だ。彼がつくりだした価値はいまの時代でも色あせない。人間や世界がいくら変わってしまっても、音楽だけは変わりはしない。アンコール曲が数曲演奏され、彼の姿が袖に消えてもスタンディングオベーションはしばらくやまなかった。
 

高橋悠治のピアノ・リサイタル [音楽]

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 木曜日の夜、浜離宮朝日ホールで「高橋悠治ピアノ・リサイタル」を聴く。
この人の演奏を生で聴くのは今回で二度目。最初に聴いたのは新宿ピットインでのライブだった。富樫雅彦の追悼ライブで、山下洋輔などさまざまなジャズミュージシャンが順に演奏した最後のほうに高橋悠治が登場し、その音を聴いて驚いた記憶がある。ジャズ畑の人ではないし、ジャズミュージシャンとはスタイルや経歴も異なるが、フリーなどいろいろなジャズミュージシャンとのセッションに参加してきた人。もちろん浮いていたのではない。彼のプレイは音楽の成り立ちそのものが独自であり、生のピアノ音はそれまで聴いたことのない類のものだったのだ。一聴すると硬質でロジカル。テクニックや正確さ、独創性というよりも、このピアニストが捉えている音楽、音楽への理解は明らかにほかのプレーヤーとは異なっていた。初めの1音が響いた瞬間にそれが分かる。イメージとしては、荒川修作のドローイングに似ている。突き詰めれば数学的な難解さを伴うが、荒川修作の場合は精神をドローイングに、高橋悠治の場合は音に変換する作業に徹したといえばいいだろうか。あの晩のことはいまだに記憶に残っている。
 高橋悠治は現代音楽、電子音楽、クラシック、フリー、楽団など、さまざまな音楽フィールドで作曲/演奏を横断的に仕事をこなし、活動の幅は非常に広い。それは、音楽の理解力ゆえだろう。勝手な想像だが、この人は経験や訓練を重ねてここにたどり着いたのではなく、最初からそのような音楽家だったのだ。音楽を理解、解釈する能力や感覚に優れている。それゆえ演奏会では、間を置かずすぐに演奏に入ることができる。MCを終えてマイクを置いた瞬間に演奏が始まるのだ。
 作曲家であり、ピアニストでもある点は必然といえるかもしれない。音楽を理解すること、理解して変換する際の純度が極めて高く、それを正確に演奏する希有な技術を備えている。ピアニストとしては、作曲者が刻み込んだ音楽の精神を理解し、一切の無駄なく構造をコンパイルする。音楽が通る神経回路の処理速度が並みではない。
 浜離宮朝日ホールの音響は、朝の陽光のように明るかった。響きのかたちが見えるようで、特に響きの終わりが美しい。今回のコンサートは、作曲家を2人組み合わせて、そこから新しい音楽の文脈を導き出すのがテーマだ。演奏したのは、ガルッピとモーツァルト、映画音楽の作曲家ハジダキスとサティ、高橋悠治の自作曲とバッハだ。それぞれの対比が独特の共通点あるいは違いを浮き彫りにし、その重なりが物語になっていた。このあたりの選曲や趣向も高橋悠治のゆるぎない音楽解釈に起因するものだろう。コンサートの中心点はサティのグノシェンヌ7番だったように思う。高橋悠治のサティは定評のあるところで、私も何度かCDで聴いたが(たしか、7番はCD化されていない)、今回の演奏はやはり、サティの精神を深いところで読み込んでいる点が秀逸だった。この曲への拍手がいちばん大きかった。

曲目:

ガルッピ/ソナ イ短調 作品1の3
モーツァルト/ロンド イ短調 KV.511

ハジダキス/小さい白い貝殻に Op.1
サティ/ゴシック舞曲、グノシェンヌ7番

高橋悠治/アフロ・アジア風バッハ
バッハ/パルティータ6番 BWV830

アンコール:
モンポウ/歌と踊り 第1番
 

武満 徹「ソングブック・コンサート」 [音楽]

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 武満 徹の曲を歌う「ソングブック・コンサート」と題した公演を三鷹市芸術文化センターで聴く。出演は、6人の歌い手とショーロクラブ(ギター・バンドリン・コントラバス)。ステージ向かって右手にショーロクラブの3人が並び、左手にイスが用意され6人の歌い手が座り、交互に中央に立って歌うスタイル。照明を落とした舞台の背面に7つの電球が灯る。
 1曲目はショーロクラブによるインストゥルメンタル「翼」。少し南国の雰囲気を漂わせるゆったりとした、夏に合う曲調。3人のアンサンブルはこなれており、完成度が高い。編曲は秋岡 欧。2曲目の「めぐり逢い」を聴いて、この公演に来てよかったと冒頭から思う。歌ったのはアン・サリー。ほんのりとした哀切、豊かで心地よい開放感のある曲。この心地よさを言葉で表すとすれば、それは「夢」だろうか。アン・サリーの歌を初めて生で聴いた。決して厚みのある声ではないが、ホールの響きとあいまってこころにすうっと入ってくる。CDで聴くよりもライブで生きる歌声だ。3曲目は沢 知恵による「うたうだけ」。詞は谷川俊太郎だ。曲がもつリズムのはね具合のせいかもしれないが、彼女は昭和の時代がもっていた愉しさ、イマジネーションと響きをうまく表現していた。4曲目はおおたか清流(しずる)による「明日ハ晴レカナ、曇リカナ」。詞は武満 徹。夕空が広がるような歌声は魅力があった。
 このコンサートでいちばん聴きたかったのは、アン・サリーの「死んだ男の残したものは」(作詞:谷川俊太郎)だった。期待どおりの内容で、アレンジもよく、この歌に込められた乾いたさみしさが伝わってきて、いまの時代にこのような歌を聴けるとは思わなかった。彼女の声にはどこか母性的な芯がある。最後の3曲、おおたか清流「三月のうた」、沢 知恵「燃える秋」、松田美緒「翼」のいずれも聴きごたえがあり、曲のよさを十分に引き出していた。
 武満 徹の歌は、戦前から続くポップスや歌謡曲の文脈とつながっているように見えるが、実は何もない時代の日本、それは例えば戦後の風景のような、荒涼たる世界に彼独自の創造性によってつくられたもののように思える。時代に左右されず、風化しない情景や感性をしっかりと含んでいる、そんなイマジネーションに支えられた音楽なのだ。個人のイマジネーションほど強いものはない。いまの私にとっては憧憬とさえいってもいいだろう。昭和を生きた人なので、当然その空気がメロディーやハーモニーに色濃く反映されている。武満徹の歌の底に流れるテーマは希望だろうか。
 歌い手の女性は皆、それぞれ独自の雰囲気と声質を持っており、最近のテレビやラジオなどに出てくる底の浅い歌手にはない歌声が印象に残った。特にアン・サリーは、作曲者と作詞者のこころを美しい声と安定した音程にのせて聴衆に届ける。夏の暑さを和らげる、清涼で夢見るような歌の会だった。

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平田王子 Live at Blue moon [音楽]

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(写真は6月29日撮影)

 金曜の夜、三鷹のバー「Blue moon」で平田王子(きみこ)さんのライブを聴く。自らギターも弾くボサノバのシンガー。ジョビンのほか、自作曲やハワイアンも歌う。実は昨年の夏、同じ店で開かれた平田さんのライブを聴き逃した。それが気になって、私はAmazonで彼女のCDを2枚買った。これが予想どおりよかった。そのうちの1枚は渋谷 毅(ピアノ)とのデュオだ。
 ボサノバの生演奏を聴いたのは今回で2度目。1度目は、恵比寿で聴いた小野リサ。もう10年近く前になる。平田さんは同じスタイルのプレイヤーだ。今回はサックス(千葉 章)とドラム(大澤基弘)のトリオ。彼女は気さくで、演奏は終始ゆったりとした雰囲気の中で行われた。また、この緩さはBlue moonというバーによるところも大きい。店内は長方形で、スペースの半分以上がカウンター席になっており、演奏者は入り口を背にして客席に向く。ステージというものはない。入り口はガラス張りのため、演奏者ごしに道行く人やクルマが見え、ちょっと変わった背景のライブになる。
 私はアントニオ・カルロス・ジョビンを中心にボサノバを聴いてきた。この、社会のあわただしさやばかばかしさから抜け出た、避暑地で響くような平穏な音楽は、ある種の平静を与えてくれる。都市で生まれた音楽なのに、無軌道さがなく、自然に根ざしているように感じられる。私はボサノバに関する歴史や知識などはなにも持たず、水を飲むようにこの音楽を聴く。まさに「おいしい水」のごとく。
 平田さんは、ギターの音色のよさと確かなテクニックの上に、微妙なゆらぎを持った歌をのせる。ゆらぎがうつろいを呼び起こす。抑揚がなく、遠くブラジルから届いているかのような声の粒子。それはまぎれもなく、ボサノバなのだ。いうまでもなく、うまいとかへただとかの世界とは無縁。そこに感覚があるかないか。トリオ構成のせいか、今夜の曲目はややポピュラー音楽よりのものが多かった。客層や気分に合わせて自由にやっている感じ。それもまたライブの味になる。
 演奏が終了し客が引けた後、平田さんとパレードの店主、マスターたちと話をした。平田さんは歌の印象とはちょっと違って、ちゃきちゃきした感じの女性だった。初対面の人間の問いかけにも気さくに応えてくれる。もっぱら、日本を代表するジャズピアニスト兼作曲家、渋谷毅さんの話題になる。彼が凝ったアマチュア無線、クルマ、囲碁、サーバー運用のことなど。先日渋谷さんとも演奏後この店で飲んだのだが、彼の平田さんに対する評価は高い。二人は近年各地で演奏を行っている。明日は朝早くから渋谷さんと新潟に行くとのこと。プロのミュージシャンは基本的に旅仕事なのだ。
 真夜中に雨が降り出し、ギターを共演者のクルマに積んで彼女は帰路についた。音楽に生きる人間の世界を垣間見た気がした。私はミュージシャンに憧憬をよせる。

沼尻竜典バルトークを振る [音楽]

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沼尻竜典&トウキョウ・モーツァルト・プレーヤーズ 第60回定期演奏会
2012年6月24日三鷹市芸術文化センター・風のホール


 ベラ・バルトークは私の好きな作曲家のうちの一人だ。独特の緊張感と民族音楽の精神をもった音楽は独創的で美しい。三鷹市芸術文化センターで定期公演を行っている沼尻竜典とトウキョウ・モーツァルト・プレーヤーズ(TMP)が、そのバルトークを演奏するという。メインとなる演目はいわゆる「弦チェレ」(弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽)。好きな曲だけに、期待して聴きに行った。
 演奏前のMCで沼尻さんは、普段あまり選ばれないこのような曲の演奏会に来てくれる皆さんが本当のTMPのファンです、というようなことを冗談まじりで言った。聴衆は笑ったが、そのとおりなのだろう。モーツアルトやベートーベンで客は集められるが、バルトークを聴きに来る客はある意味で通だ。鑑賞の幅が広い。私の勝手な感想だが。
 また、話の途中で沼尻さんは、ハンガリーで4年間勉強したというチェリストを舞台に呼び、ハンガリー語のアクセントなどについて紹介させた。バルトークはハンガリー出身。実はこれと同じ場面は、以前NHKで放映した小澤征爾の特集番組でも見た。小澤さんもそのときオーケストラ(米国マサチューセッツ州タングルウッド音楽祭のマスタークラス)の若い学生演奏家たちにバルトークの音楽を理解してもらおうと、ハンガリーから来た学生演奏家にハンガリー語のアクセントを紹介させている。つまり、バルトークに限らず、特定の国や地域の音楽には言語表現の影響が表れるということだ。特にアクセント。言葉のアクセントが前にあるのか、後ろにあるのかが音楽のフレーズのアクセントにも色濃く出るらしい。ちなみに、ハンガリー語はアクセントが前にある。その重心がバルトークの音楽のひとつの味になっているのは間違いない。
 演目1曲目は「弦楽のためのディベルティメント」。第一楽章アレグロ・ノン・トロッポこそ、バルトーク音楽のエッセンスが凝縮した曲。緊張と緩和による美しさ、ハンガリーのアクセントとリズム、モダンなフレーズ。さらに具体的にいえば、弦のふくらみが絶妙だ。TMPの演奏と音響もよかった。第三楽章アレグロ・アッサイは躍動感と力強い言葉、ゆるぎないピチカートが響き、民族的な律動感が出色の作品。
 間にモーツァルトの「音楽の冗談」をはさみ、後半は「弦チェレ」。戦争が忍び寄る不気味な足音のような第一楽章、ピアノと打楽器による強いエネルギーを放出する第二楽章、不安と狂気の始まりを予感させるような第三楽章、そして生き生きとした第四楽章は民族の祭典か。バルトークの「なまり」と独創性をうまく表現したいい演奏だった。なかでも私が特に好きなのは、チェレスタで始まる展開。それはなにか、夢の世界に入り込む合図のようなのだ(似たような展開は「舞踏組曲」でも聴くことができる)。このチェレスタの「予兆」がことのほか美しい。
 聴衆の拍手を聞く限り、みな大いに満足したようだ。このホールでは弦と打楽器の音量バランスを取るのが難しいと思われるが、バルトーク好きも納得できる出来だったと思う。本当は全曲バルトークでまとめてほしかったところだが、ぜいたくは言うまい。沼尻さんは、自分の思うままに演目を決めていけばいい。そうして、聴衆を育ててほしい。名曲はまだまだたくさんある。

ドビュッシーと筆致 [音楽]

 三鷹市芸術文化センターで横山幸雄によるピアノリサイタル、ドビュッシーの「前奏曲集第2巻」を聴く。演目はドビュッシーがメインで、休憩をはさみ、スクリャービン、ラフマニノフそれぞれの前奏曲と続いた。横山幸雄が演奏前に舞台で語ったところでは、このようなプログラムは珍しいのだという。やはり日本の聴衆向けとしては、ショパンやベートーベン、モーツアルトが演目の主流であり、ドビュッシーそれも前奏曲集第2巻がメインというのは、クラシックの本流というか、主な聴衆の嗜好から外れるということなのだろう。今年はドビュッシーの生誕150年とのこと。それを記念して実現したのが今回のプログラムらしい。
 前回のこのホールでのリサイタルで横山幸雄は前奏曲集第1巻を弾いた。私はそれがよかったので、今回のコンサートにも足を運んだ。本人もいちどぜひ取り組みたいプログラムだったらしく、演奏は最初から気持ちの入ったものとなった。1曲目の「霧」からドビュッシー独自の音楽空間をつくりだし、私はその世界に包まれた。
 ドビュッシーの音楽は、和音が絵画の色彩のようであり、セザンヌの筆致を連想させる。この場合は油彩ではなく、水彩のほうだろうか。国内でセザンヌの水彩を見る機会はかなり希少だが、実は油彩に匹敵する仕事をしている。いくつもの淡い色斑による重なりや響きあいが霊感を感じさせるような世界をつくり、見る者は一つひとつの筆致と対話ができる。それは印象派のような単純なタッチの反復ではなく、ダイナミックかつ緻密な構造を含んでいる。ドビュッシーの音楽も同様だ。
 横山幸雄は、音をていねいに置いていた。彼がドビュッシーを好きなのはよくわかった。それには共感を覚える。欲を言えば、響きにさらに深みがほしい。これはホールの残響のせいもあるだろう。私には、芸文の「風のホール」は演奏者の意図を無視して音が安易に響いてしまうように感じられる。あれをコントロールするのは相当な技術が必要になるはずだ。その点で、特徴的なメロディーが少なく、技巧的な側面の強い第2巻をここで弾くのは難しいことだと思う。それでも、同ホールでの演奏経験が豊富な横山幸雄だからこそできることも多い。また、ドビュッシーはいまよりもわずかにテンポを落とし、ためがあってもいいかもしれない。あくまでも、私の勝手な感想だが。
 いずれにせよ、地元のホールで優れた演奏家によるドビュッシーのピアノ曲が聴けるのはありがたい。横山幸雄にはいつか、オールドビュッシープログラムを組んでほしい。もっとも、それでは客が集まらないか。

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