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ゴッホの筆致と光 [美術]

 東京都美術館でゴッホ展「巡りゆく日本の夢」を見た。ゴッホが南仏のアルルに赴くと同時に、日本への傾倒を高めた1888年前後の作品を中心に展示し、ゴッホが影響を受けた浮世絵や本なども出品された。

 ゴッホの展覧会は国内でこれまでも度々開かれ、私も多くの作品を見てきた。また、新宿の損保ジャパン日本興亜美術館に行けば、「ひまわり」の大作を常設展示で見ることができる。いつも思うのは、この画家の作品には見るたびに新しい発見があるということだ。色彩の鮮やかさだったり、モチーフの新しさや構図の大胆さだったり。実物の油彩画を前にして、こり固まったイメージが崩れる。

 今回の展示では、ゴッホが想像以上に日本に傾倒していたことをあらためて知った。浮世絵の収集や作品への引用にとどまらず、日本の風景と日本の画家に大いなる理想を描いていた。その理想と南仏の風景を重ねながら精力的に制作しており、それは熱中と形容してもいいだろう。

 実を言うと私は以前、この画家の作品をあまりよく思っていなかった。精神を病んだ人間の描く絵、という目で見ていた。麦畑の暗い空を飛ぶカラスの群れの絵など、筆の運びがどこか異常で狂っているように思えるからだ。絵画は病的な心理を基にするのではなく、正常な意識で描かなければならないと考える。しかし正常と異常の切り分けは難しく、紙一重だ。ゴッホの絵において目覚ましい仕事は多いが、明らかにおかしい(病的である)と感じる晩年の作品に関しては、いまでも読み飛ばすようにしている。私の感覚では受容できない部分があるからだ。

 本展では浮世絵などの日本絵画の影響が大きい、あるいはそれに関連すると思われる40点ほどのゴッホ作品が展示された。ただし、具体的に浮世絵を模したのは「花魁」(1887)のみだ。有名な名所江戸百景「大はしあたけの夕立」の模写などは来ていない。そのため、ボリューム的には少々物足りなさもあった。

 私が特に注目したのは、「カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ」「雪景色」「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」「麦畑」「アルルの女(ジヌー夫人)」の5点(下図参照※ただし色味は実物と異なる)。「アゴスティーナ・セガトーリ」は女主人の造形もさることながら、青緑の色彩が漂う店内空間の表現に非凡さを感じる。右上に花魁の絵がわずかに描かれている。南仏に積もった雪を描いた「雪景色」は、ゴッホと雪という意外な結びつきによる作品。画家は雪景色を描くに当たり、日本の画家が描いた冬景色に言及していたという。白い絵具の塗りが無造作のようでいて的確だ。遠くに見える町並みがモダンに見え、前景にある板囲いと葦?の長いストロークがいい。遠景の淡いブルーグレーの配置が、冷たく澄んだ空気感を見事に表わす。ゴッホは19世紀を生きた人間の目と、現代のわれわれと同じ目の両方を持っている。

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「カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ」(1887)

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「雪景色」(1888)

 「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」から感じる明るさや透明感はどうしたものだろう。川面の手前には濃い青、そして奥に行くにつれ、空とともに淡い青になる。眼鏡橋の二つの空間が抜けるような空気感を生み出している(「アルルの跳ね橋」と同様の手法)。橋の上の赤い服の人物と洗濯女たちがいなければ、この絵は成り立たない。

「麦畑」は「グレーズ橋」と同様に平坦な風景画だが、前景から中景に向かう斜めに進む藁の切れ端のような筆致の並びに目を奪われる。全体のトーンを見ると、濃い色は中景にわずかにある水平の帯のみ。きわめて理性的だ。本作でも、遠景と空の淡い青が空気感を表すのに効果的に使われている。画面中央付近の筆致がいちばん盛り上がっていた。厚塗りのイエローオーカーを自分の目がつかんでいるのがわかる。単純な筆の運びの組み合わせだが構造にリズムがあり、ここにもまた非凡な資質を感じる。

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「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」(1888)

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「麦畑」(1888)

 「アルルの女(ジヌー夫人)」は背景をつくっている斜めの筆致が巧みだ。筆の上側にわずかに赤を入れ、規則的な斜線のようなピンク色の筆致を際立たせている。この背景と髪、顔、胸元の白い服における筆致との呼応がいい。それを机のエメラルドグリーンが受け止めていた。構図は浮世絵の役者絵などの影響を受けているのだろう。

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「アルルの女(ジヌー夫人)」(1890)

 ゴッホの絵をかたちづくる筆致はセザンヌのような厳密な置き方ではなく、素朴で荒く、単純なものだ。今回やってきた作品中の「男の肖像」のように、筆致が強調されていないものもあり、規則的な筆致の強調は意図的なものと言えるだろう。筆致はモチーフの本質を捕まえる仕事の成果だ。ゴッホの作品を前にすると、見るだけにとどまらず、目が触覚の役割も果たすようになる(絵画とは本来そういうものだが)。作品を写真で見ると、筆が少なく、とても淡白に見えてしまう。それだけ、絵具の盛りの効果は大きい。乾性油を多く含んだ絵具の場合、光沢が増し、物質感が高まる。'89-'90年ごろになると筆致がさらに強まり、ゆらめき、あるいは渦巻くようになっていく。

 画面の一筆一筆にはこの画家が絵画に込めたなにものかが宿っている。その何割かは画家が自然から受けた感動、そして芸術家としての強い意識だろう。では、残りはなにか? それを具体的な言葉で表すのは難しい。しいて言えば、キャンバスに塗り込められた色彩とはゴッホにとっての「光」だ。いわゆる光学的な光ではなく、画家が求めた夢や理想のようなものか。彼は色彩とともに光を求めて南仏にやって来た。唯一無二の筆致を見つめるとき、われわれはゴッホが創り出した光による理想世界に引き込まれているのだ。


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