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武満徹とモーツァルトの「レクイエム」 [音楽]

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 トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズの第67回定期演奏会『武満、モーツァルトの「レクイエム」』を聴く。沼尻竜典指揮、会場は三鷹市芸術文化センター・風のホール。プログラムは武満徹の「MI・YO・TA」「翼」「弦楽のためのレクイエム」、三善晃の「弦の星たち」、モーツァルトの「レクイエム K.626」(演奏順)。この楽団、このホールならではの選曲だったので、足を運んだ。
 あらためて辞書で「レクイエム」をひくと、『カトリック教会で、死者のためのミサ。死者が天国へ迎えられるよう神に祈る。入祭文が「レクイエム(安息を)」という言葉で始まるところからいう』あるいは、「死者の鎮魂を願う入祭文を含めて作曲した,死者のためのミサ曲。鎮魂曲。鎮魂ミサ曲」と書かれている。レクイエムは、理不尽な出来事で命を落とす人が絶えない現代において、まるで洞窟の中で響き続けるように奏でられる死者のための音楽といえるだろう。もっとも、この理不尽さはいまに始まったことではなく、太古から続く。そして死者に限らず、生きている者もまた常に安息を求めている。
 武満徹が遺したのは、魂にかかわる音楽とでもいえばいいだろうか。善悪を超えた、ただ生きることのみに焦点をあてた音楽だ。前2曲はポピュラー音楽的なコード進行の曲。幸福感に満ち、これまで多くの歌手によって歌われてきた。彼の音楽は演奏者の生命を借りて復活する。あるときはピアノや歌で、そして管弦楽や和楽器を通して。その印象がほかの作曲家よりも強い。「弦楽のためのレクイエム」は、悩み、苦しみながら歩き、彷徨い続ける人々の姿をさまざまなアングルで捉えた映像を見るかのような作品だった。このような表象は、われわれの心からいつの間にか消え去り、世界は物質と情報に占拠されている。
 三善晃は生命の美しさや生きる喜びを震えるように書き綴った作曲家だ。作品は、高度な構造の中に、どこかフランス的な明るさがある。それは、印象派が見つけ出した光や色彩のようなものでできている。沼尻竜典は過去にも三善晃の曲を指揮している。特に、2008年に開かれた「三善晃作品展」において「弦の星たち」を指揮した。作曲者から「完璧な解釈」と称されただけあって、今回の演奏も緻密でありながら、絶妙のスピード感でホールを包む。バイオリン独奏の水谷晃の腕も確かだ。
 モーツアルトのレクイエムは歴史そのもの。ミサの情景を浮かび上がらせ、その長大な道程を見るかのような演奏だった。ヨーロッパの長い歴史の層から染み出る湧水のような音楽。それは、人々の希望を求める心と悲しみだ。幾度も輪唱される言葉の積み重ねは、西洋的なパースペクティブをかたちづくり、宗教的な祈りへと昇華する。この祈りを通してモーツァルトがその両腕の中に捉えたかったもの、それこそが安息なのだろうか。作曲家が残り少ない時間の中で、到達したであろう地平を考える。
 「弦楽のためのレクイエム」は小沢征爾指揮のCDで何度か聴いていたが、やはりライブの演奏は素晴らしい。生演奏では、音の減衰と出現が手に取るように肌で感じることができる。ある音が消えゆく陰から新しい音が生まれ、音が交差したり、ぶつかったり、交わったりするのを体験する。音楽が湧き出る源泉を見た。今日の演奏で私は単純にそんなことを思ったし、実際にそのような演奏だった。
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