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中学校解体 [学校]

 またもやいじめ(虐待)で中学生が自殺した。亡くなったのは品川区立中学校の1年生。これで何十人目になるのだろう。公にならない自死もあるはずで、まったなしの状況だ。私は、もはや中学校は廃止にしたほうがいいと思っている。これほど子供が自殺する環境は異常だ。そこではなにが起きているのか。国内では毎年3万人近い人間が自殺しているが、ここでは話を中学校に絞って考えてみたい。

 今回の事件でもこれまで同様、加害者生徒は「遊びの延長だった」、先生は「生徒同士の悪ふざけだと思っていた」と自らを弁護した。いままで何度も聞いた台詞だ。実態は、常に「死ね!」の圧力があり、中学校は少数の人間を崖っぷちに追い詰める場所と化している。昔のいじめといまのいじめの大きな違いは、子供たちが「死ね」という非情な言葉を手に入れたことだ。これは殺人に使われる刃物や凶器と同じものだ。14歳前後の未熟な人間がそれを日常的に振り回すことを許してしまった。この凶器によって自分の子供が殺される確率は決して低くはない。

 一人の人間が自死するまでには相当な圧力がかかることは容易に想像できる。まして全国で多くの子供が自殺しているのに、肝心の教師が知らぬはずはない。教師は虐待に気づいている。もし本当に気がつかないのなら、そんな危険意識のない、鈍感な人間は教師になるべきではない。いじめに限らず、いざというときに役に立たず。教師は、子供たちの関係や態度に十分注意をはらうべきで、勉強の進度は二の次でいい。

 私は以前自分の子供が通う中学校で、いじめや暴力、破壊などさまざまな問題が起きた際に、教師と校長に意見した経験がある。やっていることがあまりにも後手で、散漫だったからだ(生徒にパソコンのパスワードを盗まれて、いじめアンケートの内容が生徒の間で回し読みされていた事件、数々の暴力沙汰、不登校の児童を数名生みだしてしまったことなど)。そのときの印象は、彼らはかなり鈍感だということ。また隠蔽体質もあり、暴力事件で学校に救急車を呼んだ事実などを隠していた。事態あるいは時代は鈍い教師や校長では手に負えないところまで来ているように感じた。

 もちろん、教師や校長だけに問題を押しつけてみたところで解決にはならない。中学校のいじめはなぜこれほどまでに多く、深刻なのか。知人のM氏は「学校の難しさ、ダメなところはパワーゲームに目覚める思春期の子たちを1日中同じ教室に6時間も入れておくところ。あれじゃあイジメが発生するに決まっている」と言った。編集者仲間のSさんも同じ考えだ。そのうえで以下のような提案をしている。
「(前略)学級という固定的なグループをなくそう。学校では、目標とする進路や、到達度に応じて、各コマごとに別々の顔合わせで授業をしたらよろしいのでは。なんだったら、別の校舎に通ってもいいと思う。体育は○○中学の校庭、家庭科は△△中学調理室、といった具合。運動会や文化祭も自主参加でよろしいです。
学校とは、学問を身につけると同時に、社会性を身につけるところであります。社会性とは、閉鎖的な空間で嫌いな人間と無理してつきあうことではありません。無名の人々の集まりの中で、場に応じた行動ができることではないでしょうか?」

 私はこの意見に同意する。戦前・戦中から続く古びた「箱」に子供を押し込めやり方ではなく、それをいったん解体し新しい枠組みを作って、生徒同士の関係をゆるやかなものにする。なおかつ、仕組みに合わない場合には、自由に選べる別の進路(たとえば有志の教師と親が作ったチャータースクール、あるいは塾)を用意したい。このくらいの解体・再生を実施しなければ、中学校という閉鎖空間での虐待の犠牲を止めることはできないだろう。このアイデアは小学校や高校にも適用できるはずだ。つまるところ、流動性と多様性を取り入れ、新しい空気を送る。さて、それをどこがやるか。旧態依然の文科省や教育委員会ではない。若い政治家と有志の教師たち、民間企業などが音頭をとるのがいいと思うのだがいかがだろうか。併せて、全国の子どもたちの意見を聞く。もうこれ以上、犠牲者を出してはならない。
 
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