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会田誠展「天才でごめんなさい」 [ART]

 先日、森美術館で会田誠展を見た。副題は「天才でごめんなさい」。新作を含む約100点が展示された。平面では、いわゆる日本画、マンガ、アニメなどの表現手法と技法を、そのほかでは立体やビデオをはじめとするさまざまなメディアをテーマに応じて用いていた。それは、いまどきは珍しいことではないかもしれない。しかしこの作家の表現は極小から極大までのスケールを操りながら、女子高生、日本、社会問題、戦争などのテーマによってさまざまに変化し、混沌さの中に明確な意図が存在する。

 会場に入ると、いきなりブルータスの石膏デッサンが現れる。しかも巨大だ。日本の美術教育の根幹を担うメソッドがたぶん日本で、世界でいちばん大きなサイズで描かれている。美大受験生には見覚えのある横からの構図。どうやって描いたのか、なかなかいいデッサンに見えた。「BT」と記されている。ここで芸術家や芸術家予備軍は、意表を突かれる。私は、なにか得体の知れない場所に踏み込んでしまったざわつきを感じながら先へ進んだ。

 少女とはなにか、といった問い。私の知る限り、日本では1970年代から芸能界、そしてアニメとマンガの泉により「美少女」が創作されてきた。アイドル時代には希少的な存在の歌手として、そしていまでは集団となり、だれがだれやらわからない膨大な少女のイメージが日本中に拡散している。この不特定多数の美少女と、会田誠の匿名的な美少女は呼応する。

 スクール水着を着た少女達が戯れる「滝の絵」。ここに描かれているのは、見覚えのある少女の仕草だ。われわれはスクール水着を着た少女達を通してなにを見ているのだろうか。性を内在する天真爛漫で無自覚な存在。一人の作家の妄想がわれわれの共有意識にすり替えられる瞬間。ここにはなにか秘密がありそうだ。それは、禁則を伴う対象とそれを破る自分の存在を赦す瞬間なのか。それではあまりに短絡的だ。さまざまなメディアを使う点で明らかなように、この作家の描く絵画は「媒介」であり、モチーフとしての美少女もまたなにかの媒介なのではないだろうか。この二重の媒介性によって会田誠は、現在のわれわれに見えていない現実を提示している。

 中古の襖をつなぎ合わせてつくられた屏風絵には、いくつかの興味深い作品があった。セーラー服の少女が日本の国旗を、チマチョゴリの少女が韓国の国旗を持ち、荒廃した風景の中に凛々しく立つ「美しい旗」。この2枚は対峙するように置かれている。壊滅的絶望的な争いの中で残ったものは虚無ではなく、国の記号を背負った少女。これは見覚えのある「戦争画」の後継だ。しかし、なにかが違う。藤田嗣治をはじめとする幾多の画家が請け負った仕事を現代に再起動させた。それだけではない。描かれているのは兵士ではなく、美少女なのだ。

 会田誠の代表作ともいえる、零戦の攻撃によって燃えさかるビル群を描いた「紐育空爆之図」。ホログラフィによって微妙な光を放ち、ニューヨークの空を八の字(あるいは無限記号)に飛ぶ零戦は、単に歴史の逆転を意味しているのだろうか。ここに政治的、イデオロギー的な意図は見えない。日本の神話にある古典的風景(例えば、「風神雷神図」のような)を「戦勝国」の空に重ねたように思えた。「神の国」である日本は敗れたのか。飛んでいるのはその亡霊なのか、大国を火の海にしている。これをどう解釈するか、絵の前でしばし佇んだ。「美しい旗」同様、本作も戦争画の範疇なのだろうが、やはりそうとは言い切れない。

 そのほか、「巨大フジ隊員vsキングギドラ」、ジューサーミキサーで粉砕される少女たちを描いた作品「ジューサーミキサー」、手足を切られた少女を描いた作品「犬(雪月花のうち“月”)」、「食用人造少女・美味ちゃん」シリーズ、エログロナンセンスなマンガ、ビン・ラディンに扮した映像作品「日本に潜伏中のビン・ラディンと名乗る男からのビデオ」など、多くの「問題作」が展示されたが、ここではあえてそれら各作品については触れないでおこう。特徴的なのは、粉砕されたり、切り刻まれたりしている少女たちが、一様にアニメやマンガ的イメージで表現されている点だ。彼女らは恍惚とした表情を見せ、あるいは微笑んでいる。見るものに痛みや苦しみ、憎しみなどの感情を与えない。それはすべてを「中和」してしまう存在なのかもしれない。

 芸術界(社会における「芸能界」のようなくくり)における最終目的は「天才」になること、あるいは「天才」と呼ばれることだ。これが明治期あたりから現在まで培われた唯一の支柱である。本展はそれを逆手に取り、つまりいまの芸術界の旧態然とした価値観を逆説的にひっくり返そうとした。そういう意図の副題だったのだと思われる。しかしこの展覧会は好評を博し、膨大な入場者数を記録した。それほどの注目を集めたことによって、逆説(アイロニー)がさらに逆説になり、「会田誠は天才」ということが既成事実化した。エロもグロも美も、清濁併せ呑むタイプの新しい天才、ということになってしまった。予想に反して。もしそれすらも計算内だったとすれば、末恐ろしい美術家が登場したものだと思う。
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