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この空の花 [映画]

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 ポレポレ東中野で大林宣彦監督作の映画「この空の花」を見た。今春の公開時に話題になっていたが、見損ねていた。一部で非常に評判が高い映画だったにもかかわらず上映館は少なく、再上映を待っていた。
 副題に「長岡花火物語」とあるように、舞台は新潟県長岡市。山下清氏が語った「みんなが爆弾なんかつくらないできれいな花火ばかりつくっていたらきっと戦争なんか起きなかったんだな」という言葉が物語の骨格になっている。山下氏は1949年に長岡を訪ね、同地の花火大会を描いた貼り絵「長岡の花火」を制作した。
 一言で言えば、不思議な映画だった。映画はもともと不思議なものだが、そう思わせる前に物語がどんどん進んでいく。長岡に行くことになった主人公の女性の旅支度に始まり、男女の別れ、戦時中に長岡に投下された模擬原子爆弾と膨大な焼夷弾、長岡の空襲と母の腕の中で亡くなった花という名の幼子、戊辰戦争と花火づくりのきっかけ、米百俵、三尺玉の誕生、敗戦とシベリア抑留、中越地震、復興祈願花火「フェニックス」、花という名の女生徒が企画・実演した空襲の演劇、映画の中を自在に走り回る一輪車、女性ジャーナリスト、東日本大震災、南相馬市の被災者受け入れ、大雨後の花火大会開催などなど。それらが、速いテンポで時間軸を超えて並列に語られていく。
 長岡の歴史や現代の出来事に入り込みながら、役者が演じるとともに、実在の人物も登場する。演劇的な要素とドキュメンタリー的な手法が交錯している点が不思議さの元になっている。この映画を見終え、戦争と中越地震、東日本大震災、あるいは原発事故という体験を通じてわれわれはなにを考えるべきか、なにをなすべきか、という問いかけがなされているのだと思った。その問いのために大林監督はさまざまな仕掛けをこの映画の各所に仕込んでいる。なにより、長岡の花火は「復興、追悼、祈りの花火」だという。
 私は年間数本程度しか、劇場で映画を観ない。そのため大した話はできないが、本作を観終えて映画館を出たときに気づいたことがある。一部の映画は、その映画の骨子や問い自体で観客を縛ってしまう。いい映画は観客の心を解放し、未来に続きを残す。それは映画以外の世界で顕著だ。世の中に飛び交う問いかけや物語、言葉は、多くの場合人々の心に制約をかけたり、偏向させたりする。われわれは容易にその罠にはまりがちだ。いつの間にか動きが不自由になったり、美しいものが見えなくなっていく。もちろん、自分で自身を縛ってしまうことがいちばん大きい。
 この映画にはエンドマークがなかった。観たあとからなにかが始まる。私は戦争を、昨年の大震災を、そして原発事故をどうとらえ、どう考え直していくのかを自身に改めて聞いてみた。すぐに答えは出るはずもないが、姿勢を柔らかく保ち、常にリフレッシュしていくことが必要だろう。「この空の花」はわれわれの心を縛っている幾本かの縄をほどいてくれる映画だ。物語の続きがある。本作をこの夏、映画館で観てよかったと思う。暗い館内で大輪の花火を観た心もちがした。

タグ:この空の花
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