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ノルウェイの森 [映画]

 木曜日の夜、吉祥寺で「ノルウェイの森」を観た。その余韻が身体に残っていて、耳鳴りのように響いている。私はここで批評を語れるほどの映画通ではないが、まだ続いているこの余韻について少し考えてみたい。

 先にこの映画を観た友人のK君は、「ただただ、美しい」と言った。私はその言葉をたよりに、美しさを確かめるように久しぶりに映画館に入った。原作は発売された当時に読んだのだが、いまとなっては内容はまるで覚えていない。性描写が少々際立っていた記憶だけが漠然と残っているにすぎず、原作への興味はとうに蒸発していた。原作のイメージ抜きの素の状態で映画を観た。

 確かに、美しい映像だった。季節や気候を背景にして、若い男女の物語は進む。夏の公園、林、草原、冬の丘陵、海岸の岩場、そして雨、雪、風。カメラが捉えていたのは、光と色彩が豊かな美しさではなく、どこか色あせた日本人の心象そのままの風景。あるいは厳しい自然。その中で浮かび上がるのが役者たちの身体のリアリティーと瑞々しさだ。私は、この身体の表現にいままでの日本映画にはない存在感を感じた(本作を日本映画といっていいのであれば)。

 主人公のワタナベ(松山ケンイチ)をはじめ、登場人物たちの言葉は素朴だ。役者の発する、ときとして棒読みのような声を、不思議なほど耳が味わった。音質調整もいい。監督は1969年当時の人々の口調を借りて、作品の純度を高めている。学生運動で熱い混乱が起きている時代、人々の心にはいまよりも澱みなく風が吹いていた。そんなことを思う。

 この物語の起点になっているのは、一人の青年の死だ。その唐突さと、残された者の喪失感。直子(菊池凛子)の時間が高校時代で止まっているのは、彼女がワタナベの前に再び現れたときから明らかだった。進みそうで進まない時間。いちどはつかまえたかに思えた女。しかしすでに直子は幻だった。私は荒涼たる直子の世界に向かうワタナベに同化した。

 もう一人の女、緑(水原希子)も幻だ。彼女もまたいつ目の前から消えてしまうかわからない存在。この二十歳前後の浮き草のような二人の女の姿に、私は見覚えがある。男にとって女とは幻でしかないのかもしれない。ワタナベは、幻の二人の女の間を行き来する。結局、彼は直子を現世に呼び戻すことはできず、二人が共有する喪失感は埋まるどころかさらに深い穴になってゆく。海の岩場で打ちひしがれるワタナベの姿は強く印象に残った。悲しみと海の情景が見事に結晶化している。トラン・アン・ユン監督はここで、声と言葉を消し、荒れる海と風に代えた。

 この作品における重要な要素はセックスであり、これをどうとらえるかで、本作の見方は大きく異なる。愛しているのに、濡れない。一度は許したが、拒絶する体と心。そして、どうしようもなさ。監督が選んだ直子と緑は二人とも細身だ。彼女らの身体が豊満で肉感的だったら、この映画は成り立たなかったろう。彼女らは性行為や勃起したペニスを、料理の材料を並べるように物質的に話す。監督は、性行為が生命をつなぐことのように描いている。そしてその逆に、生命を断つものとしても。寒さの中でワタナベのペニスを口に含む直子。冬山の厳しい自然の光景に望遠で小さく映し出される二人。人間のセックスとはなんだろうか。生殖行為ではないそれはなにか、生きる理由のようなものを求める生命の交わりのように思えた。それがきわめて自然なこととして映し出され、映画に自由を与えている。生と性にまつわる物語、そしてどうしようもなさ。それが私が本作から受けた印象だ。

 トラン・アン・ユン監督の手法は演技に過度な演出を加えない。そのぶんカメラに写る俳優の生身の純度が高まり、人物存在の本質に迫っているように思えた。私は本作を観て、映画に対する自分の見方に変化が生じた気がしている。透明な湖をのぞいたように、映画表現の深さを見直すことができた。そこには慎重で繊細な美意識がある。「ノルウェイの森」は映画表現の新しい地平を示し、美しいカメラワークで若い男女の透明な時期、性と死を提示した。
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