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群馬の女の子 [生活]

 群馬県の小学6年生の女の子が自宅で自殺した事実が心に食い込む。その子をそこまで追い詰めたものはなにか。なぜ死ななければならなかったのか。かわいそうでならない。
 いじめという行為はなくならないと私は常々思っている。もちろん、それは子どもだけが引き起こす行動ではなく、大人が素地を作る。これを防ぐには子どもを戒めることだけでは収まらない。大人(親と教師を含むすべての大人)も、子どもが他人を傷つけるような精神を生み出さぬように、相当な努力を重ねるか、あるいは不安のない安定した環境を作り上げる必要がある。しかしそれは現実的に不可能だ。一見怠惰に見えながら、世界はざらついたヤスリのような仕組みの上でギシギシ音を立てながら動いている。大きな矛盾を抱えた人々の生存競争は止まらない。その歪みは子どもに影響を及ぼす。同時に、人間には同類への攻撃衝動が本来的に備わっており、それが強く出る人間が必ずいる。
 次にわれわれが考えなければならないのは、いじめられたり、嫌がらせを受けたりしたときにどう対応するか、ということになる。「いじめ」などとひらがな3文字で簡略して表現されるが、その実体はかなり悪質な行為だ。場合によっては、壮絶な暴力や殺人とさほど変わらない。しつように人格を否定し、疎外する犯罪。残念ながら、学校の先生にこれを防ぐ力はない。
 群馬県の女の子も耐えたのだろう。しかし、それには限界がある。彼女は登校するたびに胸に刃物を刺しこまれ、心を傷つけられた。ライオンが群れからはぐれたシマウマを逃がさないように、彼女に目を付けた「犯人」たちは疎外を繰り返した。新聞を読むと、やはりこの子の親は学校に対策を望みながらも、次の転校が決まるまで頑張ろうと励ましたという。心から血が流れているときに、耐えろと言うのは間違っている。教えるべきは、ほかの道があるということである。追い詰められたとき、「頑張ろう」という一本道の先は崖だ。暴力から逃げる道を伝えるのが親の役目だと私は思う。
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