iPadその後 [ハードウェア]
iPadを使い始めて、約2カ月が過ぎた。その間、各種のアプリや電子書籍、写真集などをダウンロードして、このタブレットコンピューターの面白さを探ってみた。それほどたくさんのアプリを試した訳ではないが、いま感じるのは率直にいって物足りなさだ。
確かに、内蔵センサーを用いた動画(「Alice in Wonderland」など)やGPSを利用した天体アプリ(「Star Walk」)には新鮮な驚きがあった。村上龍の小説「歌うクジラ」は坂本龍一の音楽がBGMとなっており(ごく一部に挿入)、この試みも新しい。また、液晶の画質が高いので、写真集はとても見栄えがする。しかし、いずれも私にとっては決定打になっていない。
音楽アプリでリズムパターンや曲を作っても、外部の音源との連動はかなわず。そもそもMIDIで接続する術がないからだ。作成したオーディオデータは、メール添付でパソコンに送るか、サーバーにアップロードする必要がある。また、以前も書いたがiPadの日本語入力プログラムは、まだまだ原始的なレベル。もちろん、キー入力はやりにくく(iPhoneよりはましだが)、文章作成には適さない。
これまでのコンピューターの場合、「入出力」が仕事(動作)の基本となり、面白さのベースでもあった。インプットは、キーボードやマウス、ペンタブレットなどを使って行う。ユーザーがマウスやアプリケーションを使ってなにかしらインプットすると、コンピューターがそれを処理して、結果をアウトプットするという流れだ。アウトプットというのは、画面に表示する/プリンターで印刷する/音を再生する/接続された周辺機器を動作させる——など。入出力などというと、どうも堅苦しい表現であり、いまどきそんなことをいっているのは私くらいなものだろう。
iPadのインプットはもっぱら指。そして、アウトプットに必要となるインターフェースが少ない。要するにiPadは、そのような古い流れを超えた使い方をするように設計されている。しかし、それに応えたアプリはまだ登場していないように思うのだ。その昔にもてはやされた「マルチメディア」の域を出ていない。とはいえ、人によってはiPadを高く評価している。ペイントソフトなども人気が高いようだ。ただしそのレベルであれば、パソコン+ペンタブレットという組み合わせで代用できる。
可能性という点では、やはり教育用だろうか。文章、写真、動画、地図、GPS、音声など、教材を面白くする要素はたくさんある。宮崎駿氏が指摘するように、PCで本当の教育はできないという懸念は残ると思う。タッチパネルを指でなぞり、「リンク」や「検索」で得た知識がどれほどのものか、いまはまだだれもわからない。少なくとも、現在使われている教科書や教材よりはマシかもしれないということくらいだ。教育において圧倒的に不足しているのは感性の体験であり、創造性を育むことだろう。
例えば、シンセサイザーが一般の人々の手に届く存在になった時代のことを振り返ってみる。この新しい楽器は、それまで聴いたことのない音を合成して作り出すことができた。そしてさまざまな音や音楽が生まれ、作曲において「電子」あるいはデジタルのメリットが生かされたのは記憶に新しい。しかし、現実はどうだろう。各種の音源や合成方式、テクノロジーが投入されたシンセサイザーだったが、最近ではサンプリング音源が主流となり、ただの再生機のような存在になってしまった。つまり、われわれが当初描いていたイメージとは異なる場所に落ち着いている。これを考えたとき、果たして今後iPadが使われるのか否か、容易には予想できない気がする。重要なことはネットワークやクラウドの側とその使い方にあって、もはやデバイス(ハードウェア)の時代ではないのかもしれない。
確かに、内蔵センサーを用いた動画(「Alice in Wonderland」など)やGPSを利用した天体アプリ(「Star Walk」)には新鮮な驚きがあった。村上龍の小説「歌うクジラ」は坂本龍一の音楽がBGMとなっており(ごく一部に挿入)、この試みも新しい。また、液晶の画質が高いので、写真集はとても見栄えがする。しかし、いずれも私にとっては決定打になっていない。
音楽アプリでリズムパターンや曲を作っても、外部の音源との連動はかなわず。そもそもMIDIで接続する術がないからだ。作成したオーディオデータは、メール添付でパソコンに送るか、サーバーにアップロードする必要がある。また、以前も書いたがiPadの日本語入力プログラムは、まだまだ原始的なレベル。もちろん、キー入力はやりにくく(iPhoneよりはましだが)、文章作成には適さない。
これまでのコンピューターの場合、「入出力」が仕事(動作)の基本となり、面白さのベースでもあった。インプットは、キーボードやマウス、ペンタブレットなどを使って行う。ユーザーがマウスやアプリケーションを使ってなにかしらインプットすると、コンピューターがそれを処理して、結果をアウトプットするという流れだ。アウトプットというのは、画面に表示する/プリンターで印刷する/音を再生する/接続された周辺機器を動作させる——など。入出力などというと、どうも堅苦しい表現であり、いまどきそんなことをいっているのは私くらいなものだろう。
iPadのインプットはもっぱら指。そして、アウトプットに必要となるインターフェースが少ない。要するにiPadは、そのような古い流れを超えた使い方をするように設計されている。しかし、それに応えたアプリはまだ登場していないように思うのだ。その昔にもてはやされた「マルチメディア」の域を出ていない。とはいえ、人によってはiPadを高く評価している。ペイントソフトなども人気が高いようだ。ただしそのレベルであれば、パソコン+ペンタブレットという組み合わせで代用できる。
可能性という点では、やはり教育用だろうか。文章、写真、動画、地図、GPS、音声など、教材を面白くする要素はたくさんある。宮崎駿氏が指摘するように、PCで本当の教育はできないという懸念は残ると思う。タッチパネルを指でなぞり、「リンク」や「検索」で得た知識がどれほどのものか、いまはまだだれもわからない。少なくとも、現在使われている教科書や教材よりはマシかもしれないということくらいだ。教育において圧倒的に不足しているのは感性の体験であり、創造性を育むことだろう。
例えば、シンセサイザーが一般の人々の手に届く存在になった時代のことを振り返ってみる。この新しい楽器は、それまで聴いたことのない音を合成して作り出すことができた。そしてさまざまな音や音楽が生まれ、作曲において「電子」あるいはデジタルのメリットが生かされたのは記憶に新しい。しかし、現実はどうだろう。各種の音源や合成方式、テクノロジーが投入されたシンセサイザーだったが、最近ではサンプリング音源が主流となり、ただの再生機のような存在になってしまった。つまり、われわれが当初描いていたイメージとは異なる場所に落ち着いている。これを考えたとき、果たして今後iPadが使われるのか否か、容易には予想できない気がする。重要なことはネットワークやクラウドの側とその使い方にあって、もはやデバイス(ハードウェア)の時代ではないのかもしれない。
2010-08-09 22:31
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