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刑事コロンボ [テレビ]

 先週から見始めたのだが、NHK BSハイビジョンで「刑事コロンボ」の旧シリーズを放送している。推理小説では、最初に犯行現場を読者に見せて、そこから犯人解明まで書き進む手法を「倒叙物」と呼ぶらしい。コロンボは全話この倒叙形式で描かれていてワンパターンなのだが、その追い込み方が面白い。ネタは殺人にもかかわらず、視聴者は毎回安心して番組を見ることができる。もちろん、コロンボ警部という登場人物の味が最大の魅力だ。
 私は小・中学校時代、コロンボを父親と毎週見ていた。その懐かしさもあるが、いま見ると、この番組が放映されていた時代(1970年代)の、現在から思えばのんびりした空気がじんわりとよみがえってくる。このテレビドラマ自体にも近年のテレビや映画にただよう重苦しい雰囲気や過激さ、複雑さはない。ときに、自動発信電話などの初期の電子機器が犯行に関係したりして、警部が「すごいもんですなあ、電子工学なんでしょう、こういうのは」などと言う場面もある。また当時の、自動制御=コンピューターというような解釈もほほえましい。漂うのどかさは、いまの言葉で表現するならさながら「アナログ」とでもいうのだろう。それが40年後のいまにあっては、「デジタル」一色になり、どうにもせわしない世の中になってしまった。
 便利を追い求める末に、自ら追い立てられるような日々を過ごすわれわれの生活を俯瞰してみると、「パンドラの箱」を開けてしまったのではないかと思えてくる。9.11のテロ行為により人類はパンドラの箱を開けた、と評した人がいたが、箱を開けたのはもっとずっと前かもしれない。箱の中から浮き出てきたのは、市民を「消費者」などと呼ぶ風潮。あるいは、市民自体がその欲望を充足させることに目覚めた時代。
 またそれとは別にさまざまなテクノロジーが箱から現れ、市民の生活に入り込んできた。パソコン、Windows、インターネット、ケータイ、メール、iPhone、Twitter……。災いと言ったら語弊があるが、次から次に現れる出し物は便利な半面、どれもどこか刹那的なせわしなさを伴う。倒叙物とは異なり、結末どころか行く先がまったくわからない筋運びのテレビ番組に皆が巻き込まれていくかのようだ。もちろん、刑事コロンボの中にも、現代のデジタル社会に通じる萌芽はある。現在のテクノロジーのほとんどは米国発であるから。ただしそれらはただの道具にすぎず、人と技術の間に適度な距離があった。
 余談だが、ヘンリー・マンシーニによるコロンボのテーマ曲は名曲で、耳に残る。口笛のようなメロディーを奏でるのはARP(アープ=米国製のアナログシンセサイザー)だろうか。1970年代のシンセサイザーは本当に音がよかった。あの音はすでにCDやビデオの中にしか存在しない。現代のデジタル楽器は、技術的にみて1970年代のものよりも相当高度なのだが、昔のアナログ楽器の魅力に遠く及ばず。これは暗示的な話だ。
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